劉 細君(りゅう さいくん)は前漢の王族。
江都王 劉建の娘です。
武帝の命令で和親公主として烏孫王に嫁ぎました。そのため烏孫公主(うそんこうしゅ)とも呼ばれます。
劉細君が作ったとされる漢詩「悲愁歌」が残っており。見ず知らずの遠い異国に嫁いだ王女の悲しい気持ちが表現されています。この「悲愁歌」は中国では有名です。劉細君は政略結婚で嫁がされた王女の代表のようにいわれます。
史実の劉細君はどんな人物だったのか紹介します。
劉細君が作ったとされる「悲愁歌」も紹介します。
劉細君の史実
プロフィール
姓 :劉(りゅう)
名称:細君(さいくん)
国:前漢→烏孫
地位:漢公主
称号:江都公主(前漢)、右夫人(烏孫)
生年月日:不明
没年月日:不明
彼女は前漢の武帝と同じ時代に生きた王族です
日本では弥生時代になります。
家族
母:不明
夫: 猟驕靡
軍須靡子供:
娘:少夫
劉細君の生涯
おいたち
父の劉建は漢の王族。劉建はふしだらな人物で父の妾と不倫。妹とも密通していました。
元狩2年(紀元前121年)。劉建は他の王族と一緒に武帝に対して謀反を起こしました。しかし反乱は鎮圧され。劉建は自害させられます。母親は斬首になりました。
幼かった劉細君は命は助けられました。
劉細君が嫁ぐまでの漢と烏孫の関係
同じ年。漢は匈奴との戦いに勝ち。匈奴の重要な拠点、河西回廊を失います。さらに匈奴は漠南(内モンゴル)も失い、漢が優勢になりました。
それまで漢より匈奴が強かったのですが、このころ匈奴と漢の力関係が逆転しました。
元鼎元年(前116年)。張騫は二度目の西域遠征を行い烏孫国に到着。
張騫は烏孫王の猟驕靡(りょうきょうび)に会い。漢と同盟すれば漢の公主を烏孫王に嫁がせると交渉をもちかけます。でも烏孫王は漢がどのていど大きな国か知らず、王一人で決められることでもないので返事は避け。烏孫の者数十人を張騫に同行させて漢の様子を見聞させました。
烏孫の人々は漢の都・長安に案内され。漢が大きくて豊かな国だと知り驚きます。烏孫に帰った人々は王に報告しました。
漢と西域の交流が始まりました。
元封3年(前108年)。漢は西域に出兵。樓蘭王を捕虜にし、車師を滅ぼしました。それを知った匈奴は烏孫を攻めると脅してきました。
匈奴を恐れた烏孫王は漢との婚姻を申込み、匈奴を止めるように期待しました。
劉細君が烏孫王に嫁ぐ
元封6年(前105年)。烏孫に嫁ぐ和親公主に選ばれたのは劉細君でした。
武帝は自分の娘は異民族に嫁がせたくなかったので、親族の中でも父が謀反をおこして没落していた劉細君を選んだのでした。捨て駒になってもいいと思ったのです。
武帝は劉細君に「江都公主」の称号を与え、烏孫に送り出しました。
劉細君が嫁ぐ相手は烏孫王の猟驕靡でした。烏孫に到着した劉細君は「右夫人」の称号を与えられました。
劉細君が結婚するのと同じ頃。烏孫に匈奴からも王女が嫁いで来ました。匈奴出身の王女は「左夫人」の称号を与えられていました。
「右夫人」より「左夫人」の方が地位は上です。このときは烏孫にとっては「漢」より「匈奴」の方が怖い相手だったのです。
漢は1年おきに使者を送り劉細君の様子を報告させました。
猟驕靡はもともと高齢でした。彼は老いたために孫の軍須靡と結婚するようにいいました。
遊牧民の世界では後継者が前の妻を受け継ぐのが慣習になっていました。でも漢で生まれ育った劉細君は夫が生きているのに次の男と再婚するのはとんでもないことだと思いました。劉細君は再婚を拒否。漢の武帝に帰国したいと願い出ました。でも武帝は漢と烏孫の同盟を壊したくなかったので「現地の習慣通りにせよ」と命令しました。
劉細君はしかたなく軍須靡と結婚することにしました。
太初3年(紀元前102年)。軍須靡との間に娘が誕生。「少夫」となづけられました。
ところが劉細君は出産後の回復が思わしくありません。
太初4年(紀元前101年)。烏孫の地で病死。
その後。烏孫王・軍須靡は漢との同盟を希望。新しい王女を嫁がせるように希望しました。
烏孫王・軍須靡の要求を認めた武帝は劉解憂を烏孫に嫁がせました。
悲愁歌
劉 細君が作ったと言われる漢詩が残っています。
遠い異民族に嫁がされる王女の悲しみを歌った詩です。
悲愁歌
(悲しみの歌)
吾家嫁我兮天一方
(我が一族は私を地の果てに嫁がせた)
遠托異國兮烏孫王
(遙か彼方の見知らぬ異国の烏孫王のもとへ)
穹廬為室兮旃為牆
(ドーム型のテントは私の部屋、フェルトは私の壁)
以肉為食兮酪為漿
(肉を食べ、発酵乳を飲み物にする)
居常土思兮心内傷
(ここにいると私の土地が恋しくて心が痛む)
願為黃鵠兮歸故郷
(黄鵠(こうこく)となって故郷に戻れたらいいのに)
黄鵠とは千里を休むことなく飛ぶことができるという中国の伝説の鳥です。
この漢詩は中国では有名な詩。「如懿伝」など中国時代劇でもときどきこの詩が紹介されることがあります。
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