太宗 李世民:唐の建国から「玄武門の変」を越えて築いた「貞観の治」とは?

唐太宗李世民 5.1 隋・唐の皇帝
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太宗 李世民は唐の第2代皇帝。

父・李淵と共に唐王朝を建国し。若いころから戦いと国造りの中で生きてきた英傑です。彼の治世は「貞観の治」と称され、中国史上最高の理想的な時代として後世に語り継がれています。

この記事では李世民の若いころから「玄武門の変」による皇帝即位、名臣たちとの協力で実現した「貞観の治」。さらには晩年の課題や後世への影響まで、李世民という人物の様々な側面に迫ります。

 

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李世民とはどんな人物?唐王朝の建国と若き日の活躍

李世民(りせいみん)は隋末の混乱期に父李淵(りえん)と共に唐王朝を建国した人物です。彼は太宗(たいそう)の廟号(びょうごう)を持ちその治世は「貞観の治」と呼ばれます。
 
  • 生没年: 開皇17年12月16日(598年1月28日) – 貞観23年5月26日(649年7月10日)
  • : 高祖李淵
  • : 太穆皇后竇氏
  • 王朝: 唐
  • 在位期間: 武徳9年8月9日 – 貞観23年5月26日(626年9月4日 – 649年7月10日)
  • 都城: 長安
  • 廟号: 太宗
 

16歳で戦場に立ち活躍

隋王朝の煬帝の治世の末期は各地で反乱が頻繁に起こるとても激しい時代でした。李世民は16歳のころから戦場に出て手柄を立てていました。

大業12年(616年)。父・李淵は太原という隋の重要拠点を守る任務を与えられると。李世民も同行します。

父・李淵が挙兵・唐を建国する

隋朝末期、皇帝煬帝は都を離れ江南に逃亡したまま戻ってこず、各地で反乱が起きています。隋朝に見切りを付けた李淵は李世民、劉文静、裴寂とともに挙兵しました。

「旧唐書」「新唐書」によればこのとき父・李淵に挙兵を促したのは李世民だとされますが。真偽はさておき、李世民が李淵の挙兵時からともに戦い活躍したのは確かでしょう。

翌年に煬帝が死亡すると李淵は恭帝を廃して自ら「皇帝」を名乗り国名を「唐」と命名しました。李世民は秦王に任命されます。

李世民は数多くの戦場で勝利を収め、李世民は唐王朝が天下を統一するために大きな貢献をしました。彼の指揮のもと唐の軍隊は各地の反乱勢力を次から次へと平定していったのです。

 

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玄武門の変:李世民はなぜ兄を殺してまで皇帝になったのか?

兄弟の対立

李世民の人生でおそらく最も衝撃的だった出来事といえば「玄武門の変」でしょう。これは彼が皇帝になるために避けて通れなかった血なまぐさい兄弟げんかだったのです。

李世民には兄で皇太子の李建成(りけんせい)と弟の李元吉(りげんきつ)がいました。

皇太子には兄の李建成がなっていました。しかし唐王朝の天下統一に最も貢献したのは李世民です。そのため朝廷内でも李世民を指示する武将は多くいました。中には李世民を皇太子にするよう動くものもいます。

李建成と元吉はそんな李世民に危機感をもち、李建成も勢力を拡大。そんな息子たちに対して高祖 李淵はあいまいな態度をとります。李世民に「天策上将」という皇太子に匹敵する地位にひきあげてしまいます。危機感を高めた李建成は李世民の配下を排除しました。

玄武門の変

武徳9年(626年)7月2日。李世民は彼らが自分を暗殺しようとしていると高祖に訴えました。李世民の動きを知った李建成と李元吉が高祖に会おうと宮中に向かいました。

このとき長安にある玄武門(げんぶもん)を守る禁衛総領 常何は李世民に願っていました。それを知らない李建成と李元吉が玄武門にやってくると、李世民は待ち伏せして二人と彼らの側近も殺害しました。

数日後、李世民は皇太子に任命されました。その2ヶ月後に高祖 李淵から皇帝の位を譲り受け第2代皇帝 太宗として即位しました。このとき29歳でした。

 

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「貞観の治」とは?

貞観の治とは唐の太宗 李世民が626年から649年まで在位した23年間の治世を意味します。

隋を反面教師にして国を立て直す

貞観の治で太宗が最も重視したのは、隋末の混乱で疲弊した民衆の安定と国家体制の立て直しでした。

まず最初に行ったことの一つは隋の煬帝の失敗を反面教師として、臣下の意見を積極的に受け入れることでした。彼は「水は舟を載せることもできれば、舟を覆すこともできる」と述べ、民心を得ることの重要性を強調しました。

貞観の治の成果

1. 政治面

  • 国家基盤の確立: 太宗の賢明な統治により、官吏は清廉で有能となり、社会は安定し、後の約300年にわたる唐王朝の繁栄の礎が築かれました。
  • 制度の整備と確立: 三省六部制、府兵制、均田制、租庸調制、科挙制、常平倉制など、隋代から引き継いだ多くの制度が整備・確立され、後世に大きな影響を与えました。
  • 政治風潮の確立: 太宗の賢者任用、自律、諫言の受容といった施政方針は、良好な政治風潮を生み出し、後世の統治者にも模範とされました。
  • 門閥の抑制と人材登用: 氏族志の再編や科挙の活用により、門閥貴族に代わって有能な庶民が官僚に登用される機会が広がり、社会の階層間の対立が緩和されました。

2. 経済面

  • 民生の安定と経済発展: 均田制と租庸調制の推進、軽税・薄賦政策、太宗自身の倹約志向により、人民の衣食住が安定し、農業生産力が向上し、経済が急速に発展しました。
  • 災害救済と民衆の保護: 飢饉の際には開倉による賑済や他州での食糧調達を許可し、被災した民衆の子供たちを買い戻すなど、積極的な救済策によって民衆の生活が守られました。

3. 文教面

  • 学術・教育の復興と発展: 文学館や弘文館の設立、地方学校の再建、国子監の拡充により、教育機関が整備されました。国内外から多くの学生が集まり、学術文化が大いに発展しました。
  • 経書・史書の編纂: 『五経正義』の改訂や国史館の設置により、経学が統一され、官による歴史書編纂の伝統が確立されました。
  • 国際的な文化交流: 新羅、吐蕃、日本などからの留学生を受け入れたことで、唐の学術文化は東アジアに広く伝播し、特に日本や高句麗に大きな影響を与えました。

 

課題の突厥対策と外交

国内を立て直すために問題となるのが突厥の存在です。

突厥の影響を排除

煬帝の治世の後半から突厥の勢力が拡大。隋末期の勢力は突厥の影響下にありました。李淵も挙兵には突厥の援助を受けています。

しかし突厥は唐が中原を統一したことに危機感をもち、太宗の即位直後には突厥が大軍を率いて長安に迫りました。このときは何とかしのぎました。

貞観4年(630年)には。名将・李靖を派遣。突厥では災害のため国力が低下して内輪もめも発生。うまくその混乱を突いて東突厥を破りました。

こうして大帝国としての突厥は一旦滅び、突厥の民は唐の皇帝を「天可汗」と認め、太宗は遊牧民世界の君主も兼ねました。

勢力拡大

突厥を服従させた後も薛延陀、高昌、吐谷渾などを次々と平定し、西域に安西都護府を設置。積極的な外征によって唐の勢力範囲は広がり、中国王朝としては過去最高の領土をもつようになります。

交流の促進

突厥などを平定してシルクロードが唐の影響下になると東西の交通・貿易が活性化し、経済・文化の国際交流が促進されました。

それによって唐の社会に様々な民族が流れ込み国際色豊かな文化が形成されました。

名臣・魏徴との関係が示す「貞観の治」の本質

「貞観の治」成功の秘訣は李世民が臣下の諫言を尊重し、積極的に受け入れた点にあります。その象徴が名臣・魏徴でした。

魏徴は李世民に対し時に厳しくも率直な諫言を行いました。この李世民の姿勢は臣下たちが安心して意見を言える開かれた政治風土を築きました。

しかし晩年になると李世民の寛容さも失われ、とくに魏徴が亡くなると歯止めをかけるものがいなくなりました。様々な問題が起こるようになります。

貞観の治の負の側面

高句麗遠征と負担の増大

「貞観の治」の時期は対外武功も顕著でしたが、特に晩年の高句麗遠征は国内に大きな負担をかけました。長距離の遠征は兵士や物資の消耗が激しく、民衆にも多大な労役を強いました。規模は違うものの、隋の煬帝が失敗した高句麗遠征と重なる部分があります。臣下からも反対の声が上がったにもかかわらず強行され、太宗の独裁的な側面が露呈したと言えます。

後継者問題の深刻化

太宗は後継者選びでは苦悩しました。適切な後継者を育成しきれませんでした。太宗は自信に似た魏王 李泰を寵愛。皇太子・李承乾の素行不良や、他の皇子たちの間の後継者争いが深刻化して国政に混乱を招きました。

結果的に温厚なものの病弱な李治が即位、その後の武則天の専横を招く一因ともなりました。

『貞観政要』に学ぶ李世民の帝王学とリーダーシップ

李世民の政治哲学と統治術は呉兢編纂の『貞観政要』にまとめられています。この書は李世民の時代から1世紀後に書かれたものですが。李世民の政治思想や帝王としての心得を記したもので、後世の帝王学の教科書となりました。

『貞観政要』には李世民がいかにして人材を登用し、臣下の意見に耳を傾け、自らを律して国を治めたかが具体的に示されています。例えば「自分を鏡とするだけでなく部下を鏡として自分の欠点を知るべきだ」という言葉は、現代のリーダーシップにも通じる普遍的な教訓です。

これは単なる歴史書ではなく、現代社会で組織を率いる人々にとっても人望を集めチームを機能させる秘訣を学ぶための貴重な名著として読み継がれています。

 

李世民を支えた人々:長孫皇后と名臣たち

李世民が「貞観の治」を築き上げることができたのは彼一人の力だけではなかったとされています。彼を支えた優れた家臣たちそして賢明な皇后の存在がありました。

彼の正妻である長孫皇后(ちょうそんこうごう)は聡明で慈悲深い人物として知られています。彼女は常に李世民の良き理解者であり時には彼を優しく諫(いさ)め時には励まし続けたといいます。例えば李世民魏徴の諫言に激怒した際長孫皇后は夫をなだめ「陛下の魏徴に対する受け入れ方が天下を治める姿勢に通じています」と諭したといわれていますね。このような長孫皇后の内助の功は「貞観の治」の精神的な支柱となったのでしょう。

また李世民の側近には房玄齢(ぼうげんれい)や杜如晦(とじょかい)といった内政や軍事を支えた有能な人材が揃っていました。彼らは李世民の政策を立案し実行する上で欠かせない存在だったのです。李世民はこうした家臣たちの才能を最大限に引き出し適材適所で彼らを活用しました。

後に女帝となる武則天(ぶそくてん)も実は李世民の側室の一人でした。当時はまだ無名の存在でしたが彼女は李世民の死後次の皇帝である息子の李治(りち)の時代に力をつけやがて中国史上唯一の女帝となるのですね。

 

李世民の晩年と後世への影響

貞観23年(649年)李世民は50歳でその生涯を閉じました。彼の遺体は長安郊外にある昭陵(しょうりょう)に葬られたといいます。

太宗 李世民は中国史上でも偉大な皇帝です。でも完璧ではありません。いくつかの問題点や失敗もあります。でも彼の功績はそのような課題をはるかに凌駕しています。

李世民が確立した政治制度法体系そして「貞観の治」の理想はその後何世紀にもわたって中国の歴代王朝に大きな影響を与え続けました。

 

 

まとめ

太宗 李世民は唐だけでなく、中国史上でも特に優れた君主とされています。この記事では彼の優れたリーダーシップと「貞観の治」と呼ばれる輝かしい時代が、どのようにして築かれたかを紹介しました。

若き日の活躍から玄武門の変という血なまぐさい出来事。名臣たちとの協調と国の安定を思いやる統治手腕。太宗は唐を世界的な帝国へと成長させました。その手腕は素晴らしいですが、晩年の高句麗遠征や後継者問題など人間らしい苦悩や課題も抱えていました。

完璧ではないからこそ、李世民は今でも惹きつけるものがあり、私たちに多くの気づきを与えてくれます。

この記事が、李世民という人物と彼の時代への理解を深める助けとなれば嬉しいです。

 

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