武則天は中国の歴史で唯一の女帝です。彼女は唐王朝時代に生きました。
その生涯は波乱に満ち、優れた才能と冷徹な判断力で皇帝の座に上りつめます。
この記事では武則天が皇帝として何をしたのか彼女が中国史にどう影響を与えたのかを詳しく紹介します。
武則天の生涯と女帝への道のり
武則天が女帝になるまでの道のりは険しいものでした。
宮廷での出世:なぜ皇后になれたのか
武則天は最初は太宗皇帝の側室として宮廷に入ります。その後は太宗の息子 高宗の寵愛を受け、皇后になりました。
彼女はただ美しいだけでなくとても賢く宮廷の複雑な人間関係を巧みに渡り歩けたのです。
権力掌握:唐を動かす存在へ
高宗が病弱になると武則天が代わりに政治を行うようになります。これを垂簾政治と呼びます。彼女は自分の味方となる才能ある役人を積極的に登用しました。
一方邪魔な存在や反対する勢力は容赦なく排除していきました。恐ろしい役人たち(酷吏)を使って密告させたり皇族の息子たちを殺害したりもしました。
高宗が彼女を皇后の座から降ろそうとしたこともありましたが武則天はそれを察知し阻止したほどです。
高宗が亡くなると息子の李顕(りけん)が皇帝になります。しかし武則天はすぐに彼を廃位させ、別の息子李旦(りたん)を皇帝に据えました。
この李旦も武則天の言いなりで実権はありません。この間も皇族たちが何度も武則天に反発して兵を挙げますが、すべて打ち破られ皆殺しに近い状態になります。
皇帝即位の準備
武則天は自分が皇帝になるための準備を始めます。女帝の誕生を予言するお経を作って広めたり、皇帝が政治を行う特別な建物「明堂」を建てたりして自分の権威を高めました。
そしてついに690年。武則天は自らが皇帝となるため、禅譲(ぜんじょう)という形を取りました。これは前王朝の皇帝が徳のある人物に位を譲るという建前です。
実際には彼女は反対勢力を巧みに排除。自らの息子で、孤立した李旦(りたん、睿宗)に帝位を譲るよう迫り李旦に帝位を譲ると言わせます。そして武則天は皇帝の位に就きました。
国号を「唐」から「周」に改め「武周」という新しい王朝が始まりました。
武則天が皇帝になって成し遂げたこと
武則天は皇帝として様々な改革を行いました。彼女の統治は唐王朝に大きな影響を与えます。
新しい文字「則天文字」の制定と意図
武則天は自分だけの新しい文字「則天文字」を作らせました。これは既存の漢字とは異なる独特の文字です。たとえば彼女自身の名前にも使われた「曌(しょう)」という文字は「照」と同じ意味を持っています。
また日本の水戸光圀(みとみつくに)が使った「圀」も則天文字です。これは「国」を意味します。漢字に強いこだわりを持つ漢人にとって新しい文字の制定は衝撃的でした。これは武則天がこれまでのルールを打ち破り自分の権威を絶対的なものにしようとした表れです。
恐怖政治と酷吏の粛清:その裏側
武則天は密告を奨励し「酷吏(こくり)」と呼ばれる冷酷な役人たちを使って自分に反対する人々を徹底的に取り締まりました。彼らは多くの人を無実の罪で処刑しました。これは武則天が権力を固めるための手段でした。
しかし自分が皇帝になるとその役目を終えた酷吏たちを次々と処刑していきます。特にひどい悪行を重ねた来俊臣(らいしゅんしん)は首を斬られた後に遺体をバラバラにされるという極刑に処されました。記録によると長安の人々が彼の肉を食い荒らしたとまで言われるほどです。民衆からの酷吏への憎しみは深いものでした。
優れた人材の登用と政治改革
恐怖政治の一方で武則天は優れた人材を積極的に選び重要な役職に就かせました。その代表が宰相の狄仁傑(てきじんけつ)です。
狄仁傑はかつて武則天の密告制度を批判して左遷されましたが武則天は彼を呼び戻しその才能を高く評価しました。これは彼女が恐怖だけでなく人の心を掴むことにも長けていたことを示しています。
また役人を選ぶ試験である科挙制度をさらに広げ、家柄ではなく実力のある者が役人になれるようにしました。これにより新しい才能が発掘され国の政治がより効率的に行われるようになりました。
対外政策と国力の変化
武則天は国内の権力争いに夢中になり、国土防衛は疎かになっていました。そのためそれまで唐に押さえつけられていた北方の突厥(とっけつ)や吐蕃(とばん)というチベットの国々が反乱を起こしたり国内に攻めてくるようになります。
そのため武則天の時代は周辺の国々との戦いが絶えませんでした。
武則天の時代は長期にわたる戦争で兵士が不足します。そこで彼女は異民族を兵士として雇い地方の守りを任せました。このことが後に安禄山(あんろくざん)や史思明(ししめい)といった中央の支配を受けない軍閥が力をつけるきっかけとなります。
彼らが起こした「安史の乱」は唐王朝が弱体化する大きな原因となりましたがその遠因は武則天の時代に始まったと言えるでしょう。
画像指示: 古地図で当時の武周と周辺国の関係戦場のイメージイラスト。
張兄弟の台頭と権力集中:晩年の武則天と寵臣
権力者の陥りやすい罠:私的な欲望と政治介入
年を取り病気がちになると武則天は政治の表舞台に出ることが少なくなります。
このころ若くて美しい張易之(ちょうえきし)と張昌宗(ちょうしょうそう)の兄弟を大変気に入り彼らを側近として重用。彼女は政務の多くを張兄弟に任せるようになりました。
高齢になった武則天が政務の負担を減らしたかった面もありますが、同時に個人的な感情が政治に大きく影響することにもなりました。
彼らは次第に高い地位に就き権力を持つようになります。
権力濫用と周囲の反発:張兄弟の横暴と政局の悪化
張兄弟は武則天の寵愛を笠に着て傲慢な振る舞いを繰り返しました。彼らは自分たちの派閥を作り、気に入らない官僚を排除。権力を濫用します。
彼らの横暴は朝廷内外から大きな反発を受け政治を不安定化させました。この張兄弟の専横が後の神龍政変というクーデターを引き起こす決定的な要因となるのです。
晩年の武則天と神龍政変
孫の処刑:血縁よりも寵愛を選んだ理由
701年。武則天の孫たちが張兄弟を排除しようと計画していると密告されます。これに激怒した武則天は孫たちを処刑しました。
娘の永泰公主は妊娠中でしたが兄と夫の処刑のショックで亡くなったと言われます。
この事件は大臣たちに大きな衝撃を与えました。武則天が自分の血縁よりも、寵愛する張兄弟を信じた結果だったのです。
神龍政変:皇帝の座を退く時
705年(神龍元年)正月。病に伏せる武則天のそばには張兄弟が仕えていました。この状況を見た宰相の張柬之(ちょうかんし)らが兵を挙げ張兄弟を殺害します。そして武則天の寝室に押し入り病気の武則天に息子の李顕(りけん)に皇帝の位を譲るよう迫りました。
病床にあった武則天もついにこの要求を認めます。神龍元年1月24日武則天は退位し息子の李顕が即位しました。国号も「周」から「唐」に戻されます。こうして中国史上唯一の女帝の時代は終わりを告げました。
武則天の死と後世への影響
神龍元年11月26日武則天は82歳で亡くなりました。
女帝の遺言:皇后としての埋葬を選んだ理由
武則天は自分が死んだら「皇帝」ではなく「皇后」として葬ってほしいと遺言したと言われています。
そのため彼女は「則天武后(そくてんぶこう)」とも呼ばれます。
この願いは彼女が最終的に唐王朝のルールを尊重した、あるいは自分の立場を改めて考えた結果かもしれません。
功罪:武則天が中国史に残したもの
武則天の統治は中国の歴史に大きな影響を与えました。彼女は役人登用の科挙制度をさらに発展させ、中央の権力を強くしました。
これはその後の中国王朝の基礎を築いたと言えます。また仏教を深く信仰し多くの寺院を建てるなど文化の発展にも貢献しました。
しかしその一方で恐怖政治や晩年の私的な欲望は民衆に重い負担をかけ国の力を一部弱める結果も招きました。
武則天は強大な権力と優れた才能を持ちながらも、功績と過ちが複雑に絡み合う非常に魅力的な人物です。
彼女の存在は中国でも女性が国のトップに立つことができるという可能性を示しました。
まとめ
この記事では中国史上唯一の女帝武則天が皇帝として何をしたのかを解説しました。彼女は「則天文字」の制定酷吏の粛清優れた人材の登用といった数々の施策を行いました。
一方で対外戦争による国力消耗や晩年の寵臣による政治介入などその功績と負の側面も持ち合わせています。武則天の波乱に満ちた生涯は現代にも多くの教訓を与えてくれますね。
武則天の誕生から最期までの生涯は、「武則天とは?中国史上唯一の女帝の波乱の生涯と功績」の記事でまとめています。ぜひ合わせてお読みください。
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