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乾隆帝 清の最盛期を満喫した最も幸福な皇帝

乾隆帝 1.1 清の皇帝

乾隆帝けんりゅうていは清朝の第6代皇帝

康煕帝・雍正帝・乾隆帝と続く清の最盛期の最後に出現した皇帝。

清が最も豊かで栄えていた時代に皇帝だった人物です。

この時代、清はそれまでの中華王朝と満洲族、モンゴル人の領土に加え、チベット、ウイグルも領土にして清朝で最大の領土を手にしました。

ヨーロッパとの貿易でも大きな利益をあげ経済も潤った時代です。

乾隆帝は自らを「自分ほど幸福な天子はいない」といいました。

史実の乾隆帝はどんな人物だったのか紹介します。

 

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乾隆帝の史実

プロフィール

姓: 愛新覚羅(日本語:あいしんかくら、満州語:アイシンギョロ)
諱:弘暦(こうれき、フンリ)廟号:高宗(こうそう)
地位: 大清帝国皇帝、満州王(ハン)、モンゴル皇帝(ハーン)
在位:1735年10月8日~1796年2月9日
生年月日:1711年9月25日
没年月日:1799年2月7日

 

家族

父:雍正帝
母:熹貴妃 鈕祜祿氏(孝聖憲皇后、崇慶皇太后)
正室:
孝賢純皇后 富察氏
継皇后 那拉氏
孝儀純皇后 魏佳氏(死後追贈)子供:17男10女

 

清王朝の第6代皇帝です。

日本では江戸時代になります。

おいたち

康熙50年(1711年)。雍親王(後の雍正帝)の4男として生まれました。

母は格格 鈕祜祿(ニオフル)氏(後の熹貴妃)。

子供のころから頭がよく、祖父・康熙帝から大変気に入られてました。将来の皇帝になりうる人物として期待されていました。

1722年。祖父・康熙帝が死去。父・雍正帝が即位しました。

雍正帝は公には皇太子は決めませんでしたが、密かに弘暦を次の皇帝候補と考えていました。雍正帝は弘暦に帝王教育を行いました。

1735年。父・雍正帝が死去。弘暦が即位しました。

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乾隆帝の時代

乾隆帝は積極的な軍事遠征を行い領土を拡張しました。

晩年、その成果を「十全武功」としてまとめました。そして自分で「十全老人」と名乗りました。その内容は次のとおりです。

十全武功

・1747年(乾隆12) 第一次金川之役(1749年まで)。
四川省の大金川に出兵

・1755年(乾隆20) 第一次ジュンガル出兵。

・1757年(乾隆22) 第二次ジュンガル出兵(1759年まで)。

・1758年(乾隆23) 大小和卓の乱の鎮圧(1759年まで)。
新疆と命名し清に併合。

・1767年(乾隆32) 清緬戦争(1769年まで)。
ミャンマーのコンバウン朝との戦争。ミャンマーが清の朝貢国になる。

・1771年(乾隆36) 第二次金川之役(1775年まで)。

・1787年(乾隆52) 林爽文事件。
台湾でおきた林爽文の反乱を鎮圧。

・1788年(乾隆53) 清越戦争。
ヴェトナムが清の朝貢国になる。

・1790年(乾隆55) 第一次清ネパール戦争
ネパールのグルカに出兵。

・1791年(乾隆56) 第二次清ネパール戦争(1792年まで)。
ネパールが清の朝貢国になる。

乾隆帝は全て勝ったと書いていますが、軍事的には敗北した戦いもあります。また多くの犠牲と多大な費用を消費しました。

広大な多民族国家ができあがる

この功績によって、清は満洲人、モンゴル人、漢人に加えチベット、ウイグル人居住地区まで支配下にしました。現在の中国は「多民族統一国家」とされますが、清朝の体勢を受け継いでいます。

これらの民族が暮らした中国東北部、中国本土、モンゴル高原、チベット、新疆ウイグル地域が清の領土になりました。ここにきて初めて現代の中国の領土のもとになる領土ができました。それまでの明・宋・漢など、どの漢人の国よりも広い領土を得ました。乾隆帝時代の清の領土は現在の中国の領土にモンゴル共和国、ロシアの沿海州・アムール州、台湾を足した地域に相当します。

四庫全書の編纂とその意図

乾隆帝は漢人学者を使って国内の本を集めました。一定の書式で書き写し膨大な書籍のコレクションを作りました。編纂された本は3457部、7万9070巻になるといいます。中国史上最大の蔵書でした。この蔵書を「四庫全書」といいます。

1741年(乾隆6年)に書籍の収集の勅命が出され。
1773年(乾隆37年)から編纂開始。
1782年(乾隆47年)に編纂が終了しました。

乾隆帝は自らも漢詩をつくるほど中国文化が好きでした。中国の伝統的な文化の収集と保護に務めました。乾隆帝の時代は中国文化が栄えます。

その一方で清に都合の悪い内容の本は閲覧禁止にしました。2000を超える本が禁書になったといいます。

これは康煕帝時代から続く思想対策の一つでした。清王朝は満洲人の統治する国です。でも国民の大多数は漢人です。どの国でも異民族に支配されるのは嫌です。しかも漢人は「華夷思想」の持ち主です。自分たちは文化的な人種(華)なので野蛮であるはずの異民族(夷)に従いたくない、と考えています。漢人の知識人たちは出版や言論活動を行い異民族の皇帝の正当性を否定しました。情報戦をしかけたのです。

これは他の王朝でよくある権力者に対する民衆の抵抗とは異質な活動でした。支配される側が差別思想の持ち主。支配者が差別される側という珍しい現象が起きていました。

先代の雍正帝はそうした批判を論破する形で対処しました。しかし乾隆帝が力を入れたのは都合の悪い書物を「禁書」にして人々の目にふれなくすることでした。

しかし読むなと言われれば読みたくなるのが人間です。禁書になっても読みつがれる本はありました。

四庫全書は中国の貴重な書籍がまとまった形で残されるという功績の他に言論対策の一面もあったのでした。

息子が父の代表作を禁書に

禁書になった本の中に父・雍正帝が書いた「大義覚迷録」がありました。雍正帝が自ら反清思想の漢人を論破した裁判記録をまとめた本です。大まかな内容は「天は中国内に得を持つものがいなかったので、我々外夷の者を中華の君主にした。異民族であっても徳さえあれば中華になれる」というものでした。

これを息子の乾隆帝が禁書にしてしまったのです。乾隆帝が禁書にした理由はわかりません。満洲人に都合の悪いことが書かれているのではないかとかえって注目を集めることになりました。

 

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太上皇帝として権力を握り続ける

1795年(乾隆60年)。60歳になったこの年、乾隆帝は譲位を宣言しました。祖父・康煕帝の在位61年を越えては申し訳ないから。という理由でした。
1796年(嘉慶元年)。十五男の永琰(嘉慶帝)が即位しました。乾隆帝は太上皇帝になりました。しかし乾隆帝は政治の実権は譲らす相変わらず力を持ち続けました。譲位は名前だけでした。

白蓮教徒の乱

しかしこの年。白蓮教徒の乱が起こりました。地方の役人の圧政に民衆が絶えられなくなったのです。民衆は宗教秘密結社の白蓮教を中心に結束して反乱を起こしました。しかも、かつて精強だった清の軍隊は弱体化しており鎮圧に10年かかることになります。

1799年(嘉慶4年)。乾隆帝が死亡。享年89。

 

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中国史上最大の汚職官僚・ヘシェン(和珅)

乾隆帝の時代は経済的にも豊かになりました。しかし贅沢に慣れた官僚たちは堕落し、役人たちは私服をこやすことに夢中になります。乾隆帝時代の後半には搾取に苦しむ民衆たちが増えました。

その中でも中国史上最大級の汚職官僚が出現します。それがヘシェン(和珅)です。

乾隆帝は晩年にヘシェン(和珅)という旗人官僚を重用しました。乾隆帝の侍衛からスタートして正藍旗の副都督(副長官)や税務監督など様々な要職を務めました。

その間に賄賂をとり、横領や職権乱用を繰り返し莫大な財産を溜め込みました。重臣から派手な生活を注意されても乾隆帝がかばいました。逆に注意した重臣が左遷されたこともあります。質屋や金融業も営んでおり莫大な利益をあげていました。当時は役人の商売は禁止されていましたが、お咎めはありません。

乾隆帝が死ぬまで蓄財を続けました。乾隆帝の死後、嘉慶帝によって処刑されました。財産は没収されましたがその金額は清の国家歳入よりも多かったといいます。

ヘシェン(和珅)は嘉慶帝やほとんどすべての重臣から嫌われていましたが、乾隆帝は死ぬまでかばい続けました。晩年の乾隆帝は判断力が落ちていたようです。

 

テレビドラマ

 

瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜 2018、中国
演:聶遠

如懿傳〜紫禁城に散る宿命の王妃~ 2018、中国
演:霍建華

 

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