高陽公主(こうようこうしゅ)は、唐の第2代皇帝である太宗李世民の娘です。
幼い頃から父の寵愛を受け贅沢な生活を送りましたが、やがて禁じられた愛と権力闘争に身を投じ、悲劇的な最期を遂げます。
この記事では高陽公主の生涯を史実に基づきながら解説。
彼女の生きた時代背景や家族関係、そして愛憎渦巻く人間関係を通し、高陽公主という一人の女性の生き様を紹介します
高陽公主の史実
どんな人?
姓:李(り)
封号:高陽公主(こうようこうしゅ)
諡号:合浦公主
生年月日:不明
没年月日:653年3月6日
日本では飛鳥時代の後期にあたります。
家族
母:不明
兄弟姉妹:李承乾、李泰、李治(唐の高宗)など多数
配偶者:房遺愛
子供:不明
おいたち
高陽公主は太宗の娘として生まれ、幼い頃から贅沢な生活を送りました。
父の 太宗 李世民は唐の2代皇帝。

太宗 李世民
太宗は彼女の美貌と才能を愛し惜しみない愛情を注ぎました。
母は不明です。
でも宮廷という閉ざされた世界で育った高陽公主は自由を求め内に秘めた情熱を燃やしていました。
房遺愛との結婚
貞観22年(648年)。太宗は高陽公主を名門貴族の房玄齢(ぼう げんれい)の息子 房遺愛(ぼう いあい)に嫁がせました。
房遺愛は公主の夫として駙馬都尉(ふばとい)という役職を与えられ、異例とも言えるほどの厚遇を受けました。
右衛将軍・散騎常侍を務めた武将。房玄齢の次男。太宗の息子で一時は皇太子 李承乾(り しょうけん)と後継者争いをした魏王 李泰(り たい)の腹心でした。
しかし夫婦仲は決して良好とは言えませんでした。高陽公主は夫の房遺愛に愛情を持つことができず次第に不満を募らせていったようです。
夫の兄と遺産相続争い
義父・房玄齢の死後、その不満はさらに高まります。
高陽公主は夫の長兄 房遺直(ぼう いちょく)との間で遺産分割をめぐる争いを起こしました。彼女は自身の主張を通すために不当な要求や兄への誹謗中傷を繰り返したと言われています。
この事態を知った太宗は愛娘の行動を厳しく叱りました。しかし高陽公主の心には父への恨みが募っていったのです。
僧侶の弁機と禁断の愛
満たされない結婚生活
高陽公主と房遺愛の夫婦仲は決して良好とは言えませんでした。
僧侶・辯機との出会い
そんな中、高陽公主は僧侶の辯機(べんき)と出会い禁断の愛に落ちます。
辯機は当時の高名な僧侶。その教養と人柄で多くの人々を魅了していました。高陽公主もまた辯機の魅力に惹かれ深く愛し合うようになったのです。
房遺愛もまた二人の女性と関係を持っていました。
太宗の怒り、そして悲劇的な結末
やがて高陽公主と辯機の関係は太宗に知られてしまいます。
太宗は娘の不貞と僧侶との禁じられた愛に激怒。辯機の処刑を命じました。さらに高陽公主の奴婢数十人も処刑されたのです。
父の死を悲しまない
この事件は高陽公主の心に深い恨みを残しました。愛する人を奪われた悲しみ、そして父への憎しみは残り、彼女は太宗が亡くなった際にも、悲しむ様子を見せなかったと言われています。
乱れた私生活、そして破滅への道
辯機との死別後、高陽公主の私生活はさらに乱れていきます。
彼女は僧侶の智勖、惠弘、道士の李晃など多くの男性と関係を持ちました。
それは愛を求めての行動だったのか、あるいは父への復讐だったのか真相は定かではありません。
謀反と悲劇的な最期
夫の兄の官位を奪おうとする
太宗の死後、高陽公主はその権力への執着を露わにしていきます。
3代皇帝 高宗の時代。
永徽4年(653年)。彼女は夫・房遺愛の兄である房遺直が継承した官爵を奪おうと画策しました。房遺直は長男だったので父の官職を受け継いできました。
そのため房遺直に対し根も葉もない中傷を行ったのです。
李元景を担いで謀反計画
しかし高陽公主の行動はそれだけでは収まりませんでした。彼女は夫の房遺愛とともに皇位を狙う荊王・李元景(り げんけい)を擁立する謀反を企てたのです。
652年。高陽公主は夫の房遺愛、姉妹の巴陵公主(はりょうこうしゅ)、そして柴令武、薛万徹らとともに荊王・李元景を擁立しようと計画。彼らは李元景を新たな皇帝に据え、自分たちが権力を握ろうとしたのです。
一方。高陽公主はこの時期になっても夫の兄・房遺直との間で激しい対立を続けていました。互いに相手を訴え争いは泥沼化していました。
この争いを調べていたのが重臣の長孫無忌です。彼は房遺直の訴えを調べているうちに、高陽公主らの謀反計画を察知し、彼らを逮捕しました。
653年2月。高陽公主、巴陵公主、李元景、そして李恪は皇帝の命令により死を賜りました。夫の房遺愛、薛万徹、柴令武は、斬首刑に処されました。
高陽公主の称号は死後「合浦公主」に変えられました。
関係のない李恪も巻き添えに
李恪が直接謀反に関わった証拠はありませんが、房遺愛が「李恪も加担していた」と自白させられてしまいます。そのため李恪も連座して処刑されました。
この背景には高宗 李治の皇位を盤石なものにしたい長孫無忌の思惑があったと言われています。
なぜ謀反を計画したのか
高陽公主夫妻と巴陵公主夫妻が日頃からどの程度親しかったのか、なぜ謀反を計画したのかは、詳しいことは分かっていません。
しかし房遺愛と薛万徹は親しい友人で、かつて李泰の側近同士でした。巴陵公主と高陽公主は姉妹です。これらの人物が結びついても不思議ではありません。
また事件が李泰の死の直後に起きたことから、李泰の死が関係している可能性も考えられます。頼るものを失った房遺愛と柴令武が李元景に接近したのかもしれません。
一方、長孫無忌は李治の治世を安定させるために、皇位を脅かす可能性のある人物を排除しようとしたのでしょう。
まとめ
高陽公主は唐の皇女という身分ですが、既存の道徳や規範にとらわれず自身の欲望に忠実に生きました。そんな彼女の姿は現代に生きる私たちにとっても、考えさせられるものがあります。
彼女の行動は決して賞賛されるものではありません。でも彼女が抱えていた孤独や不満は、私たちにも理解できる部分があるのではないでしょうか。
その結果、彼女は悲劇的な最期を迎えましたが、その生き方は後世の人々に強い印象を与えました。
高陽公主の登場するテレビドラマ
武則天-The Empress- 2014年、中国 演:米露(ミー・ルー)
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