『ミーユエ 王朝を照らす月』は中国ドラマ史に残る大作です。
スン・リー主演で話題を呼び、壮大なスケールと華麗な衣装で多くのファンを魅了しました。
ミーユエは古代中国に実在した宣太后をモデルにしたドラマですが。どれほどの史実が描かれているのか?どこまでが実話なのか気になっている方も多いはず。
この記事では、そんなあなたのために『ミーユエ』のドラマと史実の違いを徹底解説!
実在した宣太后の生涯と、ドラマでどのように脚色されたのかを詳しく紹介。
より深く『ミーユエ』の世界観を楽しめるようにご紹介します。
ドラマ「ミーユエ」とは
ミーユエのモデル宣太后とは
ミーユエ(羋月)のモデルは今から2300年くらい前に生きた宣太后(せんたいこう)。
中国史上初の女性政治家として知られています。秦の始皇帝 嬴政の高祖母にあたります。
宣太后が活躍した時代は紀元前4世紀の戦国時代。中国はまだ統一されてなく各地で激しい争いが繰り広げていました。秦は他国よりも先に改革を進め、統一への礎を築きました。
その時期に活躍したのが宣太后です。宣太后の息子が秦の天下統一の基礎を作った昭襄王。昭襄王の孫が秦の始皇帝です。
宣太后がいなければ秦の天下統一はもっと遅れていたかもしれません。
甄嬛伝(宮廷の諍い女)のスタッフ・主演で期待を集めたものの…
ドラマ『ミーユエ 王朝を照らす月』は、2015年に放送された中国の人気歴史ドラマ。
宣太后をモデルにしたミーユエの華やかで激動の生涯を描いています。
「甄嬛伝(宮廷の諍い女)」と同じスタッフと主演 スン・リー(孫儷)のドラマなので注目を集めました。
でも視聴者からは「史実と違いすぎる」とバッシングを受けてしまいます。
実力派のスン・リーや俳優陣の力のこもった演技、豪華なセットもあり、ドラマそのものは面白いです。ところがあまりにもエンタメ性を追求してしまったので、史実と違うところだらけになってしまったのです。
衣装やセットはファンタジー
ほぼ同じ時代を扱ったドラマに「大秦帝国」シリーズがあります。その中の「縦横・強国への道」と「昭王・大秦帝国の夜明け」に宣太后 羋八子が登場。中国では歴史ドラマとしての評価は大秦帝国シリーズの方が高いだけになおさら違いが目立ってしまいました。
衣装やセットも「ミーユエ」は豪華過ぎてリアルさはありません。ファンタジーのようです。
というわけで「ミーユエ」は史実とは違うところだらけ。ひとつひとつ紹介しているときりがないです。
この記事では主に人物設定や人間関係に注目して史実との違いを紹介します。
ドラマ「ミーユエ」と史実の違い
ミーユエの名前
まず一番の違いは名前です。
宣太后(せんたいこう)の称号は事実です。
ドラマの名前のミーユエ(羋月)は架空。中国史では女性の名前は記録されないので架空の名前になるのは仕方ありません。
宣太后には「羋八子」の別名もあります。「八子」は秦の後宮の階級です。「羋八子」は本名ではありませんが、実際に宮中ではそう呼ばれていたのでしょう。
姓が「羋」なのは史実通り。劇中では現代中国語(普通話)で「ミー」と発音していますが。秦時代の発音は違います。
姓:羋
名:不明
別名:羋八子
最終的な称号:宣太后
姓:羋(ミー)
名:月(ユエ)
ミーユエの立場
史実の宣太后は楚の王族出身ということしかわかっていません。両親や兄弟姉妹を含め詳しい素性は不明です。
でもそれではドラマとして成り立ちません。ドラマ「ミーユエ」では詳しい設定が作られ、ミーユエは実在した王の娘になっています。当然、王には何人も子がいるので異母姉妹もいます。
・楚の王族の娘。
・王の娘ではありません。
・詳しい素性は不明。
・楚の威王と向妃の娘。
・側室の子なので庶公主。
・莒姫の養女。
・楚懷王羋槐、羋茵、羋姝の異母姉妹。
宣太后の実話とドラマのミーユエ・違いを比較
秦に来るまで
史実では楚での暮らしぶりや、秦に行くことになった経緯など、詳しいことは何もわかっていません。
ドラマではミーユエが生まれるときに「予言」があり、そのせいで疎まれたりしますが。これも演出です。
父の威王からは可愛がられましたが、父の死後は芈戎と共に威王の陵墓で墓守を命じられます。その後、宮廷に戻り黄歇と恋に落ちました。
その後、異母妹の芈姝が秦の恵文王に嫁ぐときに、ミーユエもミーユエは侍妾(侍女兼側女)として一緒に秦に来ました。
何しろ楚での暮らしぶりは記録がないので楚での暮らしや秦に来た経緯はすべてドラマのオリジナルです。
・楚での暮らし、秦に来た経緯一切が不明。
・生まれたときに予言があり、疎まれる。
・父・威王からは可愛がられた。
・威王の死後、芈戎と共に墓守。
・宮廷に戻り黄歇と恋愛。
・芈姝の陪嫁として秦の恵文王に嫁ぐ。
秦の恵文王の側室になる
ドラマでは政略結婚のために楚から秦に来たのは芈姝。ミーユエは秦王の侍妾(=侍女兼側女)になるため一緒に秦に行きます。
秦に行くまでの出来事や、秦で起きた出来事は全て架空。
恵文王と宣太后の間に生まれた子供は史実では3人ですが、ドラマでは嬴稷(後の昭襄王)だけです。
・秦の恵文王の後宮に入る。
・側室になり「八子」の称号を与えられる。
・紀元前325年に嬴稷(昭襄王)を出産。
・嬴芾(高陵君)、嬴悝(涇陽君)を出産。
・嬴稷が燕国に人質に出される。
・紀元前311年、恵文王が死去。
・芈姝とともに秦にやって来て恵文王の後宮に入る。
・側室になり「八子」の称号を与えられる。
・子供は嬴稷(昭襄王)だけ。
・その他、後宮での出来事はすべて架空。
芈姝と魏夫人
ドラマでは芈姝はミーユエの異母姉妹。楚から秦に来て恵文王の妻になり秦の王妃になる人物。
今考えると
ミーユエが「宮廷の諍い女」の甄嬛で
芈姝が「大宋宮詞」の劉娥ですから豪華な姉妹ですよね。
芈姝は歴史上の恵文后がモデルです。
恵文后の素性は良く分かりません。
魏の出身:姫姓、魏氏
楚の出身:魏姓
二つの説があります。
というのも王妃になる前は魏夫人と呼ばれていたからです。
ドラマでは楚出身説を採用して、芈氏の一族になってますね。
ドラマでは芈姝・ミーユエのライバルに魏夫人がいます。歴史上は魏夫人が王妃になったときの称号が「恵文后」とされています。
史実では「恵文后=魏夫人」なのですがドラマでは別人になのですね。
魏夫人はドラマではわかりやすく魏国出身になってますが。魏冄のように楚の王侯貴族にも「魏」を名字にする人がいます。魏夫人もその一族出身のようです。
・恵文后=魏夫人。
・楚の出身。
・氏(名字)は「魏」。
・武王の死後。恵文后は嬴壮を王にしようとするが失敗。
・恵文后=芈姝。
・恵文后と魏夫人は別人。
・芈姝は楚の威王の嫡公主
・魏夫人は魏出身。
・芈姝は昭襄王の時代まで生きて反乱。失敗後は軟禁。
・魏夫人は昭襄王の時代に芈姝とともに反乱。
恵文王の死から昭襄王の即位まで
ドラマでは武王の死後。ミーユエと嬴稷が燕国に人質に出されますが、妨害にあって母子は苦労します。
史実では芈八子の子・嬴稷だけが燕に人質に出され。芈八子と二人の子・嬴芾と嬴悝は秦で暮らしました。嬴稷が人質になった時期は分かりません。
武王の死後、武王には後継ぎがいなかったので王位継承争いが起きました。
芈姝は嬴壮を次の王にしようとしますが、樗里疾が反対。魏夫人、武王后の思惑も入り乱れる中、ミーユエと嬴稷が帰国して嬴稷が王に即位します。
史実では恵文后 魏氏は嬴壮を次の王にしようとしましたが。芈八子と魏冉は趙国の協力で燕から嬴稷を帰国させ、多くの臣下が反対するなか嬴稷を秦王にしました。
芈八子は宣太后となり摂政の地位に尽きます。
・嬴稷だけが燕国に人質に出される。
・芈八子と二人の子・嬴芾と嬴悝は秦で暮らす。
・武王の死後。恵文后は嬴壮を次の王にしようとする。
・趙王の介入で、燕にいた嬴稷を秦に送り届ける。
・臣下が反対する中、芈八子と魏冉は嬴稷を即位(昭襄王)させる。
・芈八子は宣太后となる。
・19歳の昭襄王は親政を行わせてもらえず、宣太后が摂政。魏冉が実権を握る。
・ミーユエと嬴稷が燕に行く。
・燕で妨害に会い苦しい生活をする。
・武王の死後、芈姝は嬴壮を次の王にしようとするが樗里疾が反対。
・宣太后が摂政。魏冉が実権を握る。
・嬴夫人がミーユエと嬴稷を呼び戻す。
・嬴稷が帰国して即位(昭襄王)。
・ミーユエが太后、摂政となり政治を行う。
昭襄王の即位後
昭襄王の即位後。ドラマでは芈姝と嬴華が協力。昭襄王とミーユエに反乱を起こしますが失敗。
芈姝と嬴華は捕らえられ、芈姝は幽閉。嬴華は処刑されます。
史実では反乱を起こしたのは嬴壮。反乱鎮圧後、嬴壮は処刑され
・昭襄王即位後に嬴壮が反対勢力をまとめて反乱を起こす。
・反乱は失敗。
・恵文后は賜死。
・嬴壮ら反乱に関わった王族は処刑。
・芈姝と嬴華、魏夫人が協力。
・反対勢力をまとめて反乱を起こす。
・雍で嬴華が王に即位。
・息子の即位を見届けて魏夫人は病死。
・芈姝と嬴華はミーユエと嬴稷に敗れ捕らわれる。
・芈姝は幽閉。
・嬴華ら反乱に関わった王族は処刑。
義渠王(君)との関係
義渠君は史実でも宣太后の愛人になった人物。
ドラマ「ミーユエ」では義渠君(王)は史実よりも扱いが大きいです。
義渠王はミーユエが秦に来たときから登場。何度も登場してミーユエを救う存在として描かれます。義渠王は秦に服従して義渠君と呼ばれるようになりますが。その後も義渠君とミーユエは親密な付き合いを深め。ついにミーユエは義渠君の子を出産。
やがて嬴稷は義渠を警戒。義渠が反乱を起こして義渠君が戦死。義渠は秦に併合されました。
「史記」は宣太后は義渠王の子を2人産んだとされます。その後、宣太后が義渠王をおびき出して殺害。その後、秦が義渠を攻めて滅ぼしたとされます。
「戦国策」では宣太后は義渠王の子には何も書かれておらず。秦王が義渠を攻めて壊滅させ。その後、宣太后が義渠の残党を討伐するために命令を出したとされます。
・宣太后と義渠王が夫婦同然だった。
・いつ頃から親密な関係になったのかは不明。
・「史記」では二人の子供が誕生。
・「史記」宣太后が義渠王をおびき出して殺害。秦が義渠を攻めて滅亡させた。
・「戦国策」秦軍が義渠を壊滅させ、宣太后が残党の討伐を命令した。
・ミーユエが秦に来る頃から知り合っている。
・義渠王(君)は何度もミーユエを助けている。
・燕から戻ったミーユエと義渠君は結婚。
・ミーユエと義渠君の間に子が生まれる。
・義渠君は義渠の扱いに不満をもつ。
・義渠君が挙兵。鎮圧。
・秦が義渠を併合。
黄歇(こうあつ)・魏丑夫とミーユエの関係
ドラマでは序盤から黄歇(こうあつ)が登場。ミーユエと恋人関係になります。二人が結ばれることはありませんでしたが。その後も重要な場面で登場します。
でも黄歇は史実では宣太后よりも後の人物。黄歇が若かった頃はすでに宣太后は晩年。残念ながら若い二人が恋人同士になることはありません。
黄歇のエピソードは全て作り話です。
その代わりなのか、史実では宣太后の晩年の愛人だった魏丑夫(ぎちゅうふ)を黄歇と同じホアン・シュエンが演じています。
・黄歇は楚の人間。
・黄歇が初めて使者として秦に来たのは昭襄王34年(紀元前273年)。そのころ宣太后はすでに晩年。
・黄歇は楚に帰国後に宰相になる。
・魏丑夫は宣太后の最後の愛人。
・黄歇は楚の人間。
・黄歇とミーユエは恋人、結婚を誓った仲。
・黄歇は何度もミーユエの前に現れるが結ばれることはない。
・魏丑夫はミーユエ晩年の使用人。黄歇にそっくり。
なぜ史実と違う架空の話が多いの?
このドラマは歴史的に実在した宣太后ミーユエを描いていますが、史実と違う点が多いです。
ドラマは史実と違う面を多く取り入れたのには、いくつかの理由があります。
記録が少ない
清朝時代なら沢山の記録がありますが。春秋戦国時代はそうはいきません。宣太后が生きたのは約2300年昔です。日本なら弥生時代です。そんな大昔になるといくら中国でも記録はとても少ないです。
よく中国◯千年の歴史と言いますけれど。文字を使った文化が栄えたのはここ2000年ほど。それより前になると極端に記録が少ないです。
宣太后や始皇帝の記録もほとんどが今より約2000年前の漢の時代にまとめられたものです。
古代の記録では女性の活躍がほぼない
記録があっても王が何をしたとか、いつ戦争があったとか。王と臣下、戦争の話ばかりです。
とくに女性の出番が極端に少ないので現代のドラマの視聴者からみるとつまらない話になってしまいます。
同じ時期を描いたドラマに「大秦帝国」シリーズがあります。こちらは歴史ファンからは評価の高いドラマです。登場人物がほぼ中高年の男ばかり。歴史が好きな人にはたまらないですが。女性ファンには物足りないドラマでしょう。
歴史的な正確さよりもドラマの楽しさを優先
というわけで「ミーユエ」では視聴者を飽きさせないためにフィクション要素を多く取り入れたようです。
要所要所で歴史的な事件を取り入れながらも、大胆にアレンジ。女性キャラやカッコいいキャラを増やし。衣装や装飾も派手に。
そうして作り話を大胆に取り入れるとドラマは単なる歴史の再現ではなく、人間ドラマとしても楽しめる作品になっているのです。
まとめ
「ミーユエ」は実在した宣太后をモデルにした壮大なドラマです。
でも、史実とは違う部分もたくさんあります。
それはなぜでしょうか? ドラマは限られた史料をもとに視聴者を惹きつける物語にするために作り話を多く取り入れているからです。
豪華な衣装やセット、そして魅力的なキャラクターは史実を基にしながらも、ドラマならではの面白さを追求した結果と言えるかもしれません。
歴史に詳しくない方でも楽しめるよう、ドラマはエンターテイメント性を重視しています。
史実とドラマを比較して同じところや異なるところを探して違いを楽しむのも面白いかもしれませんね。
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