誠孝皇后(せいこうこうごう) 張氏は明の皇后。
第4代皇帝 洪熙帝の正室、第5代皇帝 宣徳帝の生母です。
第6代 正統帝の時代には太皇太后として幼い正統帝を補佐しました。といっても自ら垂簾聴政をするような人ではなく有能な大臣を選んで彼らに任せ、それを見守る形で朝廷の政治に関わりました。
正統帝の時代には王振たち宦官の横暴が問題になりますが。張太皇太后が生きている間は王振たちの力を抑えていたので宦官たちの横暴は問題にはなりませんでした。
あまり有名ではありませんが誠孝皇后 張氏は賢后といわれます。
史実の誠孝皇后 張氏はどんな人物だったのか紹介します。
誠孝皇后 張氏の史実
張皇后はどんな人?
- 姓 :張(ちょう)
- 名称:不明
- 国:明
- 地位:世子妃→皇太子妃→皇后→皇太后→太皇太后
- 称号:誠孝皇后
- 生年月日:1379年4月23日
- 没年月日:1442年11月20日
日本では室町時代になります。
張皇后の肖像画
張皇后の家族
- 父: 張麒(きょう き)
- 母:仝(どう)氏
- 夫:洪熙帝
- 子供: 宣徳帝、朱瞻墉、朱瞻墡、嘉興公主
永楽帝に気に入られていた張氏
誠孝皇后 張氏は1379年、河南で生まれました。父は張麒、母は仝夫人です。
1395年。夫の朱高熾が燕王の世子となり、張氏も世子妃となりました。彼女の穏やかな性格と、義理の両親である燕王 朱棣(後の永楽帝)と徐氏(後の徐皇后)への細やかな心遣いは、二人から大変気に入られます。
永楽帝が即位した永楽2年(1404年)には夫の朱高熾が皇太子になり、張氏も皇太子妃となりました。
永楽帝の時代 皇太子朱高熾を支えた張氏の賢明さ
皇太孫の妃選びで孫氏を推薦
永楽8年(1410年)。永楽帝は皇太孫 朱瞻基(後の宣徳帝)の結婚を考えました。
皇太子妃 張氏は、実母の彭城伯夫人から「孫娘は非常に賢くて徳がある」と聞かされその情報を永楽帝に伝えました。永楽帝は孫氏を宮中に迎えること決定。10歳ほどの孫氏が宮中に引き取られ礼儀作法を学び「嬪」となりました。
しかし朱瞻基の正室は胡氏に決定。彭城伯夫人は文句を言いましたが、皇太子妃張氏はそれについては何も言いませんでした。
廃太子の危機を乗り越えた支え
皇太子の朱高熾は思いやりがあり、物腰も柔らかで律儀な人物です。しかし臆病な面がありました。
朱高熾は皇太子の座に20年間いました。その間、さまざまな批判に耐えながらも支持を集めて地位を守り抜きました。これには張氏の献身的な支えがあったといいます。
永楽帝は次男の漢王 朱高煦が自分に最も似ていると感じていました。そこで皇太子を廃して漢王を立てようと考えました。しかし文官たちは乱暴な漢王 朱高煦を快く思っていません。張皇后と文官たちは朱高熾を支持し続け、廃太子を阻止しました。
また張氏の長男 朱瞻基は賢くて勉強熱心です。永楽帝にも可愛がられていました。このように優秀な息子がいたことも朱高熾と張氏にとって有利に働きました。
こうした理由もあり、永楽帝はなかなか皇太子を廃することができなかったのです。
洪熙・宣徳時代 皇后そして皇太后としての手腕
短命な洪熙帝を支えた皇后
永楽22年(1424年)。永楽帝が崩御。朱高熾が即位、洪熙帝となりました。
張氏は皇后になりました。張氏は皇后として献身的に支えました。
洪熙帝は日夜政務に勤しむ賢明な君主でしたが、在位わずか1年足らずで48歳で崩御してしまいます。
張皇后氏は郭貴妃を含む4人に殉死を強要しました。
親孝行な宣徳帝と皇太后の立場
洪熙元年(1425年)。息子の朱瞻基が即位し宣徳帝となり、張皇后は皇太后になります。意外なようですが、張氏は明で最初に皇太后になった人物でした。
軍事や国家の重要事項の多くは、張氏の命を受け彼女の裁決に従いました。
宣徳帝は親孝行でした。朝夕の挨拶を欠かさず、外出もよく一緒に出かけました。献上品はすべてまず皇太后に捧げられ、その後に自身が受け取りました。
張皇后と宣徳帝の民を想う心
宣徳3年(1428年)。張氏が西苑へ出かけた時のことです。宣徳帝も自ら輿を支えて母と共に万歳山に登りました。
1年後、張氏は長陵と献陵を参拝。陵の近くの民衆も歓声を上げて迎えました。この光景を見て張氏は宣徳帝に「民衆が君主を歓迎するのは、君主が彼ららが安心して暮せることができるからです。皇帝はこれを心に留めておくべきです。」と言いました。

宣徳帝と張皇太后の行幸
その帰り道。農家を通りかかった張氏は老婦人を呼び寄せて生活や農作業について尋ね金銭を与えました。ある農家が野菜や酒などを献上すると、張氏はそれを受け取って宣徳帝に渡し「これが農家の味ですね」と言いました。
張皇后が民衆の生活に心を配り、その大切さを息子に伝えようとしたのです。
さらに張氏は自身の家族にも厳しく接しました。弟の張升は穏やかで慎重な人柄でしたが、張氏は彼が国の重職に就くことを許しませんでした。
廃された胡善祥へ配慮
宣徳帝は孫貴妃を深く寵愛していました。寵愛するあまり、息子のいない胡皇后を廃して道教に入門させ。孫氏を皇后にしてしまいます。
張皇太后は胡善祥が罪もないのに廃されたことを憐れみました。そのため、常に胡氏を非常に気遣い清寧宮に招いては、宴席でも胡氏を孫皇后より上位に置きました。
孫皇后は張皇太后(当時は皇太子妃)が息子(当時は皇太孫)の側室に選んだ女性です。
しかし結果的に胡皇后を廃することになってしまいました。張皇太后はこうなってしまったことに責任を感じていたのかもしれません。
幼帝正統帝を補佐 太皇太后張氏の統治術
若き皇帝の即位と朝廷の安定
宣徳10年(1435年)。宣徳帝はまだ38歳という若さで崩御してしまいます。皇太子 朱祁鎮はまだ9歳でした。
この突然の出来事に宮中では襄王朱瞻墡が皇帝に擁立されるという噂が広まり臣下たちは大きく動揺しました。
張氏はすぐに大臣たちを乾清宮に集めると朱祁鎮を指差し、泣きながら「これが新しい天子です」と宣言しました。群臣は万歳を叫び、流言は収まりました。
朱祁鎮が即位すると、宣徳帝の遺詔に従い朝廷の主要な政務はすべて皇太后張氏と皇后孫氏に奏上してから執行するようになりました。
大臣たちは張氏に垂簾聴政をするよう請願しました。しかし張太皇太后は「祖宗の法を破ってはいけません。有能な補佐大臣を任命するだけで十分です」と述べました。
これは自身の権力欲に走ることなく、国家の安定を最優先する賢明な判断です。
ある日、張氏が便殿に着座し正統帝(英宗)は西向きに立ちました。
張太皇太后は英国公 張輔と楊士奇、楊栄、楊溥、礼部尚書 胡濙に幼い皇帝を補佐するよう命じました。この五人の大臣が正統帝時代の初期の政治を円滑に進めました。
宦官 王振の横暴を抑え込んだ賢后の力
正統帝は宦官の王振が大変気に入っていましたが、王振には横暴なところもありました。そこで張皇太后は宦官の王振を呼び出して死罪にしようとしましたが、大臣たちが止めました。
その後も張皇太后は王振の行動を確認。そのため張氏が生きている間は王振が専横を極めることはできませんでした。
張皇太后の最期
正統7年(1442年)10月。張皇太后は病になり悪化しました。楊士奇と楊溥を呼び出し、宦官を通して国家に重要な問題があるか尋ねさせました。しかしその最終に亡くなってしまいます。
12月。張氏は洪熙帝共に献陵に合葬されました。
ドラマの張皇后・張皇太后
中国ドラマでの張皇后(誠孝皇后 張氏)の描かれ方は、作品によって違います。それぞれのドラマでの描かれ方を見ていきましょう。
『大明皇妃 -Empress of the Ming-』の張皇后
『大明皇妃』は、宣宗(宣徳帝)の皇后・孫若微(孫皇后)を主人公とした物語。明の永楽帝の時代から英宗の土木の変に至るまでを描いています。このドラマでは、孫若微の視点から物語が進むため張皇后は彼女の義母にあたります。
かなり史実と違うイメージで描かれています。歴史上は優れた皇后とはいえない孫氏を正義の側として描いているため。周辺の女性が悪く描かれているのが特徴。
- 強気な皇后:遠慮のない強気な言動の女性として描かれてています。
- 子供に期待する母:夫の朱高熾は権力欲が少ないため、息子に期待しています。
- 問題のある姑:張皇后は思慮が足りなく、嫁を困らせる姑として描かれています。
『尚食~美味なる恋は紫禁城で~』の張皇后
『尚食』は、明の宮廷で料理人を目指す姚子衿(ようしきん)を主人公にしたドラマで、永楽帝~宣徳帝の時代が舞台。宮廷の「尚食局」を舞台に食を通して描かれる人間ドラマが中心です。
- 洪熙帝の妻:ドラマではあまり賢そうに描かれない洪熙帝を助ける良き妻として。ときには夫の無理解に苦しみながらも皇后としての役目を務めます。
- 宣徳帝の母:宣徳帝の母である彼女の立場はしっかりと描かれます。
- 宮廷の秩序を守る存在:彼女が宮廷の秩序や規則を重視して時に厳しい判断を下す場面も描かれます。
- 郭貴妃との対立:ドラマでは洪熙帝の側室・郭貴妃が策略家として描かれ、張皇后はピンチに陥ることがあり。姚子衿や息子に救われます。

このように同じ張皇后でもドラマのテーマや主人公の違いによって、その描かれ方や強調される部分が違います。それぞれの作品で彼女がどのような役割を果たすのかに注目してドラマを見ると、より深く楽しめると思います。
まとめ:なぜ誠孝皇后 張氏は賢后と言われるのか
誠孝皇后 張氏は明の歴史を陰で支えた真の賢后でした。永楽帝の信頼を得て夫の洪熙帝を補佐し、幼い孫の正統帝時代には太皇太后として活躍。有能な大臣を選んで仕事を任せ、横暴な宦官王振を厳しく抑えて明朝の安定に尽力しました。
彼女は自分から表舞台に立って政治を行おうとはしませんでしたが、国内外の政務や臣下の動きに注意を払いました。宣徳帝の政務にも助言し、民衆の苦しみに心を配るよう促しています。公正な判断力と権力に執着しない姿が、洪熙・宣徳・正統時代初期に訪れた明の全盛期を長く保つことに繋がりました。
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