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マングルタイ(莽古爾泰)・ヌルハチの子として生まれホンタイジに敗れた男の生涯とは

マングルタイ 1.3 清の皇子・男の皇族

マングルタイは後金の武将で政治家。

後金の建国者ヌルハチの嫡子として生まれ、その武勇で知られました。

ヌルハチとともに女真の統一や明との戦いを戦い抜き、四大ベイレの一人として後金の政治にも深く関わりました。

しかし気性の荒さや生母の殺害といった負の側面も持ち合わせていました。ヌルハチの後継者争いで敗れ、晩年はホンタイジとの対立の中で生涯を閉じましす。

この記事ではマングルタイの生涯を紹介します。

ポイント
  • 生い立ちと活躍: ヌルハチの五男として生まれ父とともに数々の戦場を駆け巡り、その武勇を認められて四大ベイレの一人に。
  • 後継者争い: ヌルハチの死後、後継者争いに名乗りを上げましたが生母の殺害などの過去が祟り、ホンタイジに敗れました。
  • ホンタイジとの対立: ホンタイジとの権力闘争に敗れ、地位を剥奪され最後は病死。

 

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マングルタイとは

どんな人?

名前:マングルタイ(莽古爾泰)
姓:アイシンギョロ(愛新覚羅)生年:1587年
没年:1633年享年:45

 

父:ヌルハチ(努爾哈赤)
母:フチャ(富察氏)氏。

父は後金の建国者ヌルハチ

母は福普フチャ(富察氏)氏。
ヌルハチの2人目めの正妻です。

マングルタイはヌルハチの5男。
母のフチャ氏は福普(正妻)なのでマングルタイは嫡子になります。

マングルタイは父ヌルハチとともに女真の統一や明との戦争に参加。手柄をたてました。ヌルハチ存命中の戦場での働きだけならホンタイジよりも上かもしれません。もちろん戦場に出たことのないドルゴンは比較相手にもなりません。

四大ベイレになる

ヌルハチは嫡子と弟の息子から4人を選んで四大ベイレ(親王)を任命しました。

四大ベイレとは次の四人です。

  1. ヌルハチの次男:ダイシャン(1583)
  2. ヌルハチの弟シュルハチの息子:アミン(1586)
  3. 五男:マングルタイ(1587)
  4. 八男:ホンタイジ(1592)。
    ()内は生年。

マングルタイの序列は四大ベイレの3番目。ホンタイジよりは上です。

四大ベイレがハン(王)のヌルハチをサポートして政治を行うのが後金の制度です。

大福普アバハイの殉死

ヌルハチの死後。四大ベイレはヌルハチの遺言で大福普アバハイ殉死を伝えまそた。

アバハイは4人いたヌルハチの正妻で唯一存命していた人物。アバハイにはアジゲ・ドルゴン・ドドの3人の息子がいました。

四大ベイレは殉死を嫌がるアバハイを説得。まだ成人していないドルゴン・ドドの面倒を見るという条件でアバハイは殉死を受け入れました。アジゲはこのとき成人して独立しています。

ドラマや小説ではアバハイの殉葬はヌルハチの意思ではなくホンタイジの陰謀とされることが多いです。マングルタイたちもホンタイジに協力したと描かれることが多いのです。

史実ではそのような事実は確認できません。後にドルゴンが摂政王になったときも「母を死においやったのはホンタイジたちの陰謀だ」なんてことは言ってません。むしろ「母は言われて殉死したのではない、自ら殉死した」と殉死を美化しています。

 

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ヌルハチ死後の後継者争いでは脱落

次に次のハン(王)を選ぶ王族重臣会議が開かれました。満洲人の習慣では王が生前に後継者を選ぶ習慣はありません。

マングルタイはヌルハチの正妻の子です。四大ベイレの一人ですからハンになる資格があります。でもマングルタイは選ばれませんでした。

過去に生母フチャ死を殺害

マングルタイは過去に生母フチャ氏を殺害しています。そのため王族や重臣たちからも評判がよくないのです。

生母のフチャ氏はかつてヌルハチを怒らせたことがありました。

その理由はヌルハチの次男ダイシャンと不適切な関係だったといわれます。ダイシャンとの不倫はアバハイが有名ですが。フチャ氏も同じようなことがあったといわれます。

というのも遊牧民社会では王の死後、妻や側室は次の王が養う事になっていました。当時ダイシャンは最も有力な後継者候補でした。

そこで年老いたヌルハチの次は息子のダイシャンだ。ということでヌルハチの福普がダイシャンに接近、親しくなろうとしていたのです。

そのためヌルハチは激怒しましたが、情があったのかあまり重い罰は与えられませんでした。ちなみにダイシャンはこの事件で後継者としての信用を失ってしまいます。

ところがマングルタイは父のご機嫌をとるため母を殺害してしまいました。

マングルタイは戦場では強いのですが、性格に問題があったのでリーダーには向かないと判断され。ハンには選ばれませんでした。

四大ベイレはそれぞれ。

  • ダイシャン=不倫。
  • アミン=ヌルハチの子ではない。
  • マングルタイ=母殺し。

のマイナス面があり。唯一欠点がないのがホンタイジでした。そこでヌルハチの後継者はホンタイジに決定しました。

ドラマや小説のようなドラマチックな展開はなかったのです。

四大ベイレの共同統治

ホンタイジが後金のハン(王)になっても政治は四大ベイレの共同統治で行いました。ホンタイジはハンとはいっても四大ベイレ最年少で序列は一番下。王族会議を主催する立場ですが、独裁的な力はありません。

マングルタイたち四大ベイレはホンタイジにも遠慮がありません

当然ホンタイジは不満なので権力を握るための方法を考えます。

ホンタイジと対立

マングルタイはもともと気性が荒いうえにホンタイジより年長。

しかも「共同統治者である」という意識のせいか。ホンタイジとマングルタイは仲があまり良くありません。

マングルタイの同母妹マングジもホンタイジと仲が悪く。兄妹でホンタイジと対立していました。

1631年。明との戦いの最中についに二人は衝突。

陣営にいるとき、ホンタイジとマングルタイは口論になりました。怒ったマングルタイは剣に手をかけました。同母弟(十男)のデゲレイがマングルタイを止めようと殴りましたが、マングルタイは逆上して剣を抜いて振り回しました。

この事件でマングルタイはホショイベイレ(親王)の座を剥奪されドロイベイレに降格。

その後。マングルタイはモンゴルや明との戦いにも参戦しましたが。

陣中で病死しています。

その後。弟のデゲレイも病死しました。

四大ベイレの中でも気性が荒かったのがアミンとマングルタイ。その二人が蕭承耀と蕭承泰のモデルになりました。

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マングルタイの生涯:まとめ

マングルタイはヌルハチの嫡子として生まれ、その武勇で知られた後金(後の清)の武将であり政治家でした。

四大ベイレの一人として後金の建国と発展に貢献します。しかし気性の荒さや生母殺害の過去などが原因になって後継者争いに敗れ、ホンタイジとの対立を深めていきました。

最終的には、ホンタイジとの対立して地位を剥奪され、病死という形で生涯を閉じます。

マングルタイの生涯は後金初期の権力闘争の激しさを物語っています。彼の武勇や政治的な能力は評価されていますが、性格や行いの悪さが彼の評判を下げました。その結果、後継者争いでホンタイジに敗れる事になってしまったといえます。

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