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如懿伝:嘉妃 金玉妍(きんぎょくけん)の最後と史実の違い

淑嘉皇貴妃 金氏 1.2 清の皇后妃嬪皇太后

ドラマ『如懿伝』に登場する嘉妃 金玉妍はその美貌と狡猾な性格で視聴者を釘付けにしたキャラクターです。

劇中では玉氏貢女の出自ながら、乾隆帝の寵愛を得て後宮で大きな力を握ろうとします。でもその野心は多くの悲劇を生み出し。自身も無惨な最期を迎えました。

この記事では、ドラマ『如懿伝』の金玉妍とそのモデルになった史実の淑嘉皇貴妃金氏の共通点と違いについて詳しく解説します。

 

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如懿伝(如意伝)の金玉妍(きんぎょくけん)とは?

金玉妍

ドラマ「如懿伝」の金玉妍の設定とドラマでの描かれ方を紹介します。詳しい設定を書いてますが史実ではありリません。

嘉貴妃 金玉妍(きん・ぎょくけん)

演:辛芷蕾(シン・ジーレイ)
「慶余年」海棠朵朵、「狼殿下」遙姬

 

金玉妍(きん・ぎょくけん)
民族:朝鮮人
出身:玉氏の国(朝鮮)・漢城
本貫:安東金氏
生年:1713年9月14日
没年:1755年12月17日
享年:42
劇中での地位の移り変わり(設定も含む):
寶親王庶福晋(金格格)→嘉貴人→嘉嬪→嘉妃→嘉貴妃→嘉嬪→嘉貴人→嘉嬪→嘉貴→金答応→嘉貴妃→庶人→淑嘉皇貴妃(追)

 

家族

  • 父:金三保
  • 母:不明

出身地は玉氏の国:朝鮮

ドラマの中では故郷は「玉氏の国」としか言われませんが。原作小説でははっきりと「朝鮮」と書かれています。ドラマでの演出もプライベートでは朝鮮風の衣装や髪型をしています。朝鮮をモデルにした国なのは間違いありません。

玉氏貢女

金玉妍は玉氏の貢女という設定。

貢女とは属国から貢ものとして送られてきた女性のこと。古代より朝鮮半島の国々は中国王朝に貢女を差し出していました。清朝時代にも李氏朝鮮から貢女が来ていました。

清朝になってからは公式ルートで貢女が来ることは減りました。なので史実では清朝の後宮には朝鮮から直接来た人はいません。乾隆帝の後宮にも朝鮮出身者はいません。

野望は息子を清朝の皇帝にすること

金玉妍は息子を清朝の皇帝にしようとしています。

息子が皇帝になったら母国を「清の属国ではない」と宣言させ。母国から役人を送り込み清の政治を乗っ取ろうと考えています。もちろんすべて彼女の妄想で実現はできませんでした。

かつての恋人は玉氏の世子

金玉妍は故郷にいるとき王宮に入ったことがあり、玉氏の世子と恋人になりました。金玉妍は世子と結婚できると思っていましたが、貢女として清朝に送られてしまいます。

その世子は今は玉氏の王になっています。しかし玉氏の王は彼女の子が皇帝になることはないと判断すると彼女を見捨てました。

金玉妍が思っていた「世子は恋人だった」は勝手な思い込みだったのです。

ちなみに乾隆帝時代の朝鮮の王は英祖です。

後宮で対立を煽る

ドラマの序盤では彼女は無邪気なふりをして他の妃嬪の対立を煽っていました。例えば高晞月と富察琅嬅の関係を更に悪化させています。

また祖国から連れてきた医女 貞淑と共に他の妃嬪や胎児を毒殺しその罪を他の者に擦り付けました。

それでいて自分は疑われないようにうまく立ち回り、後宮でも高い地位を得ています。こうして金玉妍は後宮で大きな影響力を得て自分の息子を太子にしようとしました。

 

金玉妍の最後

でも彼女の野心は最終的に裏目に出ました。

金玉妍は朝鮮の世子を深く愛していました。でも如懿との対決の中で世子が彼女を愛していなかったことがわかり、金玉妍はショックをうけます。

愛する人に裏切られ、後宮で孤立した金玉妍はもはや生きる希望を失います。彼女は鏡に向かって微笑み自らの命を絶つのでした。

 

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モデルは淑嘉皇貴妃 金佳氏

淑嘉皇貴妃 金氏

 

金玉妍のモデルは淑嘉皇貴妃 金氏。

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淑嘉皇貴妃 金氏の生涯

祖先は朝鮮人

淑嘉皇貴妃 金氏の祖先は朝鮮半島の出身。ホンタイジが朝鮮を攻めたとき、義州にいた彼女の祖先は後金に降伏。満州貴族に仕える包衣人となりました。

包衣(ボーイ)
満洲貴族(旗人)に仕えた従者のこと。旗人とは主従関係にありますが、奴婢ではありません。社会的には庶民よりは上の地位。包衣とは別に家奴がいて家奴は漢人社会の奴婢と同じ。
中国ドラマでは漢人王朝の奴婢と混同して包衣を奴婢扱いしている描写もありますが正しくはありません。淑嘉皇貴妃の他にエイラクのモデルになった魏氏も包衣出身。奴婢ではありません。

とはいえ旗人出身者が当たり前の妃嬪では包衣が格下なのは確かなので偏見を受けることはあります。

でも金氏はそんな身分から清の皇帝・乾隆帝の寵愛を一身に受け、后宮で大きな影響力を持つ存在へと成長しました。

嘉妃 金氏の生涯

嘉妃 金氏

嘉妃 金氏

  • 幼少期と入宮: 1713年に生まれた金氏は1727年ごろに当時皇子だった乾隆帝の側室になり、宮中に入ります。
  • 地位の向上: 徐々に地位を上げ、貴人、嬪、妃、そして貴妃と、その地位は次第に高まりました。
  • 子供たちの誕生: 乾隆帝との間に4人の皇子をもうけました。魏氏とともに子どもの多い側室でした。
  • 晩年と死: 1755年に43歳で亡くなり、「淑嘉皇貴妃」の諡号を贈られました。

金氏一族への影響

金氏の死後、嘉慶帝は彼女の家族に「金佳(ギンギャ)」という満洲姓と旗人(貴族)の地位を与えました。その理由は乾隆帝が金氏を寵愛していため。金氏一族の朝廷への貢献があったあからと考えられています。

ポイント

  • 異色の出自: 祖先が朝鮮出身という珍しい経歴を持つのでドラマでは脚色されがちです。
  • 乾隆帝の寵愛: 包衣人という貴族よりも低い地位から嘉貴妃という皇后に次ぐ地位にまで上り詰めました。
  • 温和な性格: 史実では争いを好まず、穏やかな性格だったとされています。
  • 乾隆帝の評価: 乾隆帝は金氏を非常に寵愛しており、その死を深く悲しんだとされています。
  • 乾隆帝と合葬:乾隆帝は嘉貴妃を自分と同じ墓に埋葬することを望みました。合葬されたのは富察皇后以外には嘉貴妃、令貴妃、高貴妃、富察哲妃だけです。
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共通点と違うところ

如懿伝の金玉妍は歴史上の淑嘉皇貴妃 金氏をモデルにしていますが。ドラマの中では脚色されています。以下に両者の共通点と違うところをまとめます。

共通点

  • 朝鮮との関係:ドラマも史実も朝鮮とゆかりがあります。
  • 乾隆帝の寵愛:ドラマも史実も乾隆帝の寵愛を受けて皇后に継ぐ高い地位を得ています。
  • 皇子を産む: 両者とも乾隆帝との間に複数の皇子をもうけています。

 

違うところ

項目 ドラマ『如懿伝』の金玉妍 史実の淑嘉皇貴妃金氏
入宮の経緯 玉氏の国(朝鮮)から貢女としてやってきました。 王族に仕える包衣出身。
朝鮮との関係 生まれ育った国。世子とは恋人だった。 祖先の出身地。本人とは関係ない。
性格 悪女として描かれ。狡猾で野心家。後宮で様々な陰謀を企て、他の妃嬪を陥れます。 穏やかな人だったと言われ、トラブル・問題は記録されていません。
目的 我が子を皇帝にして。母国の地位を高めようとしています。そのため他の妃嬪を蹴落として権力を握ろうとします。 皇后の座を直接狙っていたという記録はなく、乾隆帝の寵愛を得て、息子たちの地位向上に努めたと考えられている。
他の妃嬪との関係 多くの妃嬪と対立し、特に如懿との関係は悪るなる一方。 史実では記録が残っておらず、ドラマのように多くの対立があったかどうかは不明。
晩年 ドラマでは、自身の野心が裏目に出て悲惨な最期を迎えます。 乾隆帝の寵愛のもと比較的穏やかな晩年を過ごし、死後も高い格式で葬られ「淑嘉皇貴妃」の諡号を贈られています。
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ドラマ『如懿伝』の金玉妍は視聴者の興味を引くために、史実の淑嘉皇貴妃金氏の性格や行動を誇張し、悪女として描かれています。

ドラマでは後宮の権力争いやドラマを盛り上げるために、金玉妍のようなキャラクターが必要だったのでしょう。

一方、史実の淑嘉皇貴妃金氏は乾隆帝の寵愛を受け多くの皇子を産み、家族の地位向上に貢献した人物でした。

ドラマのように派手なエピソードは少ないですが、穏やかな性格で晩年まで乾隆帝の愛情は衰えなかったと考えられます。

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