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乾隆帝の生母は?ドラマで鈕祜祿氏が養母設定の理由

乾隆帝の生母は? 1.2 清の皇后妃嬪皇太后

乾隆帝は清の全盛期を築いたいわれる皇帝です。その生母は鈕祜祿氏です。彼女は後に孝聖憲皇后の称号が与えられました。

でも人気の中国ドラマ「瓔珞」や「如懿伝」では、なぜか乾隆帝の生母が鈕祜祿氏ではありません。

なぜ複数の作品で史実と違う設定になっているのでしょうか?その背景には清の時代から人々の間で語り継がれてきた都市伝説が深く関係しています。

この記事では乾隆帝の生母に関する史実とドラマの背景にある都市伝説の真実を紹介します。

 

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史実では乾隆帝の生母は鈕祜祿氏

乾隆帝の生母は歴史書「清史稿」に書かれている通り孝聖憲皇后です。

孝聖憲皇后ニオフル氏

孝聖憲皇后ニオフル氏 の肖像画

高宗法天隆運至誠先覺體元立極敷文奮武欽明孝慈神聖純皇帝,諱弘曆,世宗第四子,母孝聖憲皇后,康熙五十年八月十三日生於雍親王府邸。
「清史稿/卷十 本紀十 高宗本紀一」

 

この孝聖憲皇后というのは「清史稿」にも書かれている通り。

孝聖憲皇后鈕祜祿氏,四品典儀凌柱女。后年十三,事世宗潛邸,號格格。康熙五十年八月庚午,高宗生。雍正中,封熹妃,進熹貴妃。
「清史稿 卷二百一十四 列傳一」

満洲鑲白旗(しょうはくき)出身の鈕祜祿氏(ニオフルし)です。彼女は1692年に生まれました。康熙帝の時代に胤禛(後の雍正帝)の側室になっています。鈕祜祿氏は名門ですが、彼女の実家は分家筋なので家柄はそれほど高くありません。最初は格格という低い身分でした。1711年に乾隆帝となる弘暦を産んでいます。

皇太后になるまでの歩み

雍正帝の即位後は鈕祜祿氏は熹貴妃として高い地位を得ました。彼女の実家は正黄旗にいた本家と統合されて正黄旗という満洲旗人でも最高の一族の仲間入りをしました。

1735年に雍正帝が亡くなり弘暦が乾隆帝として即位すると鈕祜祿氏は皇太后になります。孝聖憲皇后という諡号は彼女が亡くなった後に贈られました。

 

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なぜドラマの乾隆帝の生母は史実と違う設定なのか

人気の中国歴史ドラマ「瓔珞」「如懿伝」「宮廷の諍い女」などでは乾隆帝の生母は史実の鈕祜祿氏ではありません。

でもこれはただのドラマの脚色とはいいきれないのですね。清の時代から庶民の間で語り継がれてきた都市伝説が影響しているからです。現代のドラマが昔の都市伝説を題材にして面白く脚色するのは中国ドラマにはよくあることです。

 

ドラマ「瓔珞」の生母は銭氏


瓔珞<エイラク>~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~ (字幕版)

 

ドラマ「瓔珞」では乾隆帝の生母銭氏鈕祜祿氏が養母という設定です。

劇中では皇后の輝発那拉氏と宦官の袁春望が乾隆帝と皇太后・鈕祜祿氏の仲を引き裂くために噂を流しました。それは

「乾隆帝は皇太后の本当の子ではない。本当の母は銭氏鈕祜祿氏が第四皇子を奪い、銭氏を殺害した」

という内容です。

皇太后は乾隆帝の養母であることは認めました。でも銭氏を殺してはいないと否定します。最終的に乾隆帝は「鈕祜祿氏が生母でなくても育ての親には違いない」として皇太后と仲直りしました。

「瓔珞」では、乾隆帝の生母銭氏鈕祜祿氏は養母という設定です。

この設定は清の時代に書かれたある野史に基づいています。この野史には乾隆帝を産んだ熹妃の姓が「銭氏」と書かれていました。ドラマはこの記述をヒントに物語を創作したのでしょう。

野史(やし)
朝廷ではなく、個人や民間の人が書いた歴史・噂話を集めた本。

 

ドラマ「如懿伝」「宮廷の諍い女」の生母は李金桂


如懿伝~紫禁城に散る宿命の王妃~(字幕版)

 

「如懿伝」と「宮廷の諍い女」では乾隆帝の生母は宮女の李金桂定です。

「宮廷の諍い女」ではヒロインだった鈕祜祿 甄嬛も「如懿伝」では、ヒロイン如懿を苦しめる側です。でも鈕祜祿氏が乾隆帝(弘暦)の養母であるという設定は共通しています。

劇中では乾隆帝の生母 李金桂は熱河の避暑山荘で働く奴婢とされます。熱河の避暑山荘は清の歴代皇帝が避暑のために訪れた離宮でした。

そこで雍正帝が鹿の血を飲んで錯乱して李金桂と一夜を過ごしてしまいます。その結果、弘暦(乾隆帝)が生まれました。でも李金桂は弘暦を産んだ後に亡くなり、熱河に埋葬されました。雍正帝が弘暦に距離を置いて接していたのは、この一件が恥ずかしかったからという設定です。

 

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清の時代からあった 乾隆帝生母の都市伝説

中国ドラマの乾隆帝の生母の設定は、実は清の時代から存在した都市伝説にもとになっています。乾隆帝鈕祜祿氏の本当の子ではないという内容が多く様々な形で語り継がれてきました。

 

都市伝説その1:乾隆帝の両親は陳氏夫婦

清の時代から有名な都市伝説の一つに乾隆帝が浙江省海寧州の陳氏夫婦の子供だったという話があります。明の時代から続く官僚の一族だった陳氏と皇帝になる前の雍正帝(胤禛)は交流が深く、お互いの家によく訪れていました。

ある時、同じ日に胤禛と陳氏に男の子が生まれました。胤禛は喜んで子供を陳氏と取り替えた。

という話です。別のバージョンでは、胤禛の妃が生んだ子供は女の子だったので妃が胤禛に知られないように陳氏の息子と取り替えたというものもあります。

史実でも雍正帝は陳氏の本拠地がある江南地方に何度か出かけ、陳氏の家にも立ち寄っています。陳氏は雍正帝から深く信頼されていた役人でした。これを見た人々が「何かあるに違いない」とうわさ話を作り出したと考えられています。

現実的な問題では江南(中国南部)は雍正帝乾隆帝の時代になっても、満洲族の支配に反感を持つ人が多い地域でした。

そのため清の皇帝たちはこの土地を軽視できず、頻繁に行幸して皇帝の威厳を示したり優遇したりする必要があったのです。

 

都市伝説その2:乾隆帝の母は宮女

陳氏説とは別に「乾隆帝は雍正帝が宮女に産ませた皇子だ」という都市伝説もあります。この説では生母が誰なのかは特定されていません。でも宮女の李氏が生母というパターンが多いです。これは、雍正帝の側室に李氏という人物がいたためと考えられます。

ドラマ「如懿伝」は、この都市伝説を元にしています。

 

都市伝説その3:乾隆帝の母の姓は「銭氏」

清の時代に書かれた「永憲録」という野史には「錢氏為熹妃」と書かれています。つまり乾隆帝を産んだ熹妃の姓が「銭氏」になっているのです。ドラマ「珞」の元になった都市伝説と言えます。

でも満洲人の姓は長く、当時から省略して漢字一文字で書かれることはありました。「鈕祜祿氏」と書くところを「鈕氏」と書くこともあったのです。そのため「鈕」と「銭」の字を間違えたのではないかと言われています。特に当時は筆で書かれていて行書体になると「鈕」と「銭」がさらに似ていたのでしょう。

「永憲録」はあくまで野史で公式な記録ではありません。当時の作家や知識人が書いた本のため、不正確な記事が多いことでも知られています。

また、公式記録でも「銭氏」と書いてあるものもあります。これをもって「乾隆帝の生母は漢人だ」という人は現在でもいますが。雍正帝の時代に側室の姓を間違って書いて降格になった役人がいました。この時、「鈕氏」を「銭氏」と書いてしまったという出来事をもとに、「永憲録」が書かれたのかもしれません。

「永憲録」は公式記録ではないため、ある程度自由に書くことができました。清の時代の「史料」に書かれているからといって、すべてが真実とは限りません。

 

なぜ中国人は「乾隆帝は漢人の子」と信じたかったのか

ただのゴシップネタでは満足できない

どの時代や国でも庶民は王室のスキャンダルを面白がります。でも乾隆帝の生母についての都市伝説は、それだけではすまされないもっと重い事情がありました。

不思議なことに乾隆帝の生母とされる人物はいつも漢人です。陳氏銭氏李氏も、みんな満洲人ではありません。鈕祜祿氏はその独特な名前からも分かるように満洲人です。もしゴシップネタを作りたいだけなら別の満洲人でもいいですし、生母がモンゴル人や朝鮮人でも良いでしょう。

つまり中国人は乾隆帝漢民族から生まれたことにしたかったのです。

 

乾隆帝は中国史上最大の領土を持った皇帝

乾隆帝 肖像画

乾隆帝の肖像画

康熙帝から乾隆帝の時代は、社会が大きく発展しました。経済も領土も中国王朝史上最大級の規模を誇ります。明の時代よりも国は栄えました。事実、現在の中国の国境線はほぼ乾隆帝の時代に確定しています(実際には乾隆帝時代の清の領土は現在の中国よりも広大でした)。

 

最高の皇帝を満洲人(女真族)と思いたくない

皮肉なことに中国史上最高の王朝を作ったのは、漢民族ではなく満洲人だったのです。でも満洲人はかつて女真族と呼ばれ、辺境の野蛮人と考えられていました。

実際には女真族は漢人や朝鮮人が思うほど野蛮ではありません。

それでも漢人や朝鮮人は「女真族は野蛮人だ」と思いたかったのです。「そんな野蛮人に世界の中心である漢民族が支配されるはずがない。元(モンゴル)のように滅亡するはずだ」と信じていました。

ところが漢人の期待を裏切り、清王朝は明の時代よりも栄えました。

 

漢人ができなかったことを実現した満洲人

漢人の王朝が手にしたことのない広大な領土も獲得したのです。清王朝はモンゴル、ウイグル、チベットを領土に組み込みました。

漢人王朝はこれら異民族を属国にしたことはあっても自分の領土にして支配したことはありません。

そこで当時の漢人は考えました。

「満洲人がこんなに良い国を作れるのはおかしい!良い国を作れるのは『華』の人間、つまり漢人の皇帝だけだ。ということは、乾隆帝は漢民族の血を受け継いでいるのだ!」

 

これは「中華思想」(華夷思想)によく見られる差別的な考え方です。逆に言えば、そうでもしないと、異民族に支配された漢民族のメンツが許さなかったのです。

そこで、乾隆帝の親は漢民族だとか、生母は漢民族だというストーリーがいくつも作られました。

中国史の分野では「乾隆帝漢人説」として比較的有名な話です。

現在でも一部に漢人説を主張する人はいますが、中国の歴史学者も乾隆帝の母鈕祜祿氏であることを認めています。

都市伝説に過ぎないとはいえ、そのような噂が存在したのは事実です。ドラマにもその国柄が出ていて面白いですね。

 

現代と日本における「乾隆帝漢人説」とドラマの関係

エンタメ作品に都市伝説は欠かせない

現在では中国の歴史学者も鈕祜祿氏乾隆帝の生母だと認めています。一部に漢人説を主張する人もいますが、乾隆帝漢人説は歴史的な都市伝説として扱われているのです。

エンタメ作品では都市伝説が題材として取り入れられることがあります。それは都市伝説の方が面白いからです。特に中華思想という歴史的な背景を持つ中国では、このような物語が視聴者にも喜ばれるのでしょう。

 

日本で「乾隆帝漢人説」が受ける心理

この「乾隆帝漢人説」は中国だけでなく、日本でも一部の知識人や中国史愛好家の間で興味を持たれています。

公式の歴史とは違う「裏話」や「都市伝説」に対する知的好奇心です。歴史のロマンや公式記録にはない「もしも」の物語への探求心があるのかもしれません。

歴史の定説を覆すような説は面白いです。特に偉大な皇帝の出生にまつわる謎は研究者や愛好家にとってワクワクする魅力的なテーマになりますね。

日本は歴史上も中国や朝鮮の影響を受けてきました。現代でも韓国ドラマで描かれる恐い女真族を信じている人はいるのではないでしょうか?

そのため満洲族(女真)に「野蛮」「未開」といったステレオタイプなイメージがついているのかもしれません。

さらに現実的な問題として、歴史学者は研究対象に似てしまうという現象がよく起こります。中国史を研究する人は中国人の考え方に近づいてしまうことがあるのです。

中国史を深く学べば学ぶほど中国王朝の築き上げてきた文化や制度の洗練さに触れる機会が多くなり、無意識のうちに「偉大な皇帝はより文化的に発展した漢民族の血を引いていた方がしっくりくる」と感じる可能性もあるのでしょうね。

これは陰謀論にはまる現象と似ていて。事実でないことを信じるのは頭の良し悪しとは関係ないのです。

もちろん、現代の歴史学では乾隆帝の母鈕祜祿氏なのは定説です。

 

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まとめ

中国ドラマで乾隆帝の生母鈕祜祿氏ではない理由を紹介しました。

中国の都市伝説が深く関係していたのですね。

乾隆帝が漢人の子という説はただのゴシップではすまされません。当時の漢民族が満洲人に支配されることへの複雑な感情が背景にありました。

現代の歴史学では鈕祜祿氏乾隆帝の生母は確定しています。

でもドラマは面白さを追求するもの。つまらない事実より、面白いワクワクする作り話に人は惹きつけられます。ドラマの乾隆帝の生母が史実と違うのは、人間の好奇心や楽しさを追求する姿の現れなのかも知れませんね。

 

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