中国の南北朝時代、華北の西に位置する長安を都とした北周は鮮卑族の宇文氏が建てた王朝です。わずか24年という短い歴史ながら強大な北斉を滅ぼして華北を統一する偉業を成し遂げ、その制度や文化は後の大統一王朝である隋・唐へと受け継がれました。
その北周の中心にいたのが鮮卑族出身の宇文(うぶん)氏の皇帝たちです。
この記事では北周王朝の誕生から滅亡までの歴史をたどりつつ、激動の時代を生きた北周の皇帝たちに焦点を当ててご紹介します。
北周とはどんな王朝?
北周(ほくしゅう)は、中国の南北朝時代(439年〜589年)に存在した北朝の王朝の一つです。具体的には、557年から581年までの24年間存続しました。都は、古都である長安(現在の陝西省西安市)に置かれました。
この王朝を建てたのは、かつての北魏王朝で大きな力を持っていた鮮卑(せんぴ)族の宇文(うぶん)氏です。
北周の建国:宇文泰から初代皇帝へ
北周の歴史を語る上で欠かせないのが初代皇帝の父である宇文泰(うぶんたい)です。宇文泰は皇帝ではありませんでしたが北周の礎を築いた実質的な創始者と言えます。
遡ること北魏王朝の末期。内乱が頻発して国が混乱する中、宇文泰は武将として頭角を現し、関中(長安周辺)で勢力を確立しました。
同じ頃、東方では高歓(こうかん)が力を持っており、この二人の有力者の対立が原因で、北魏は東西に分裂することになります(534年)。宇文泰は西に逃れてきた北魏の孝武帝を擁立し、長安を都とする「西魏(せいぎ)」を建国しました。一方、高歓は東魏を建てました。
西魏では、宇文泰が宰相として政治・軍事の実権を握ります。彼は軍事組織である府兵制の基礎を築きまた古代の周王朝の制度を模範とした官制改革(六官制)を行うなど、後の北周の骨格となる重要な制度を整備しました。
宇文泰は北周の建国を見ることなく556年に死去しますが、その息子の宇文覚(うぶんかく)が跡を継ぎます。そして宇文泰の甥である宇文護(うぶんご)が宇文覚を擁立し、西魏の恭帝から禅譲(帝位を譲られること)を受けさせます。こうして、557年に宇文覚が皇帝に即位し、「周」王朝(北周)が誕生しました。

卓抜鮮卑系王朝の歴史
激動の時代を率いた北周皇帝たち:歴代皇帝一覧
北周は短命な王朝でしたが、わずか24年の間に5人の皇帝が即位しました。その歴代皇帝は以下の通りです。
代 | 称号 | 廟号 | 諱 | 在位期間 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
初代 | 孝閔帝 | – | 宇文覚 | 557年 | 北周を建国するが、宇文護に廃位される |
2代 | 明帝 | 世宗 | 宇文毓 | 557年 – 560年 | 宇文護に擁立されるが、後に殺害される |
3代 | 武帝 | 高祖 | 宇文邕 | 560年 – 578年 | 宇文護を誅殺し親政、北斉を滅ぼす |
4代 | 宣帝 | – | 宇文贇 | 578年 – 579年 | 奇行が多く、子の静帝に譲位 |
5代 | 静帝 | – | 宇文闡 | 579年 – 581年 | 楊堅に禅譲し、北周滅亡 |
注目の皇帝たち:その治世と特徴
短い期間に多くの皇帝が入れ替わった北周ですが、特に歴史に名を残した皇帝や、その治世に大きな特徴のある皇帝をいくつかご紹介します。
初代:孝閔帝(こうびんてい)
建国者だが短命な皇帝
- 称号:孝閔帝
- 廟号:-
- 諱:宇文覚(うぶんかく)
- 生没年:542年 – 557年
- 在位:557年
- 父:宇文泰(うぶんたい)
- 母:姚夫人
主な出来事
西魏からの禅譲
宇文覚は北周の実質的な創始者である宇文泰の三男として生まれました。宇文泰の死後、その後継者とされ、557年正月に西魏の恭帝から帝位を禅譲され、北周王朝を樹立しました。
宇文護による廃位
皇帝となった宇文覚でしたが、実際の権力は宇文泰の甥である宇文護が握っていました。宇文覚は宇文護の専横を排除しようと試みましたが、逆に宇文護によって廃位され、殺害されてしまいました。在位はわずか数ヶ月でした。
第2代:明帝(めいてい)
宇文護に擁立され、後に殺害された学識ある皇帝
- 称号:明帝
- 廟号:世宗
- 諱:宇文毓(うぶんいく)
- 在位:557年 – 560年
- 父:宇文泰(うぶんたい)
主な出来事
宇文護による擁立
明帝は宇文泰の長男として生まれました。初代孝閔帝が宇文護によって廃位された後、宇文護によって新たな皇帝として擁立されました。学識があり、聡明な人物であったと伝えられています。
宇文護による殺害
明帝は次第に自身の権威を高めようとしましたが、実権を握る宇文護はこれを恐れました。560年、宇文護は明帝を毒殺したと言われています。これにより、明帝の治世はわずか3年余りで終わりを告げました。
第3代:武帝(ぶてい)
北斉を滅ぼし華北を統一した優れた皇帝
- 称号:武帝
- 廟号:高祖(こうそ)
- 諱:宇文邕(うぶんよう)
- 生没年:543年 – 578年
- 在位:560年 – 578年
- 父:宇文泰(うぶんたい)
- 母:叱奴太后(しつどたいごう)
主な出来事・功績
宇文護の専横に耐える時期
武帝は宇文護によって擁立されて即位しましたが、当初は宇文護が依然として政治の実権を握っていました。武帝は表面上は宇文護に従いつつ、内心では宇文護の排除の機会をうかがっていました。この時期、武帝は学問を好み、質素倹約に努め、臣下の評判を高めました。
宇文護の誅殺と親政開始
即位から12年後の572年、武帝はついに宇文護を策略によって誅殺し、名実ともに皇帝として親政を開始しました。親政開始後、武帝は積極的に政治改革を行います。古代の周の制度を模範とした六官制の運用を徹底し、また士大夫の品定めを行い有能な人材を登用しました。
廃仏の実施
574年には、仏教や道教を廃止する大規模な廃仏(三武一宗の法難の一つ)を行いました。これは、増大した寺院勢力の富や土地を没収し、僧侶を還俗させて徴兵の対象とすることで、国家の財政と軍事力を強化することを目的としていました。
北斉の滅亡と華北統一
内政改革と軍事力の強化を進めた武帝は、東の宿敵である北斉に対する攻撃を本格化させました。数度の遠征の後、577年に北斉の首都である鄴を陥落させ、北斉を滅亡させることに成功しました。これにより、五胡十六国時代末期から続いていた華北の分裂状態が解消され、およそ200年ぶりに華北が統一されました。
突厥や陳への備えと急死
華北を統一した武帝は、さらに北方の突厥や南朝の陳に対する討伐を計画しましたが、578年に病のため急死しました。享年36歳でした。武帝の急死は、北周の運命を大きく左右することになります。
第4代:宣帝(せんてい)
悪政を敷き、子の静帝に譲位した皇帝
- 称号:宣帝
- 廟号:-
- 諱:宇文贇(うぶんうん)
- 在位:578年 – 579年
- 父:武帝(うぶんよう)
主な出来事
武帝の死後即位と悪政
宣帝は華北統一を成し遂げた武帝の子として生まれました。武帝の死後、即位しましたが、即位するやいなや奇行が目立つようになり、政治を顧みず、贅沢な生活や酒色に溺れ、臣下への残虐な振る舞いも多かったと記録されています。
子の静帝への譲位
わずか即位から1年余りの579年、宣帝は突如として子の宇文闡(静帝)に帝位を譲り、自らは太上皇となりました。これは異常な行動であり、国政の混乱に拍車をかけました。
第5代:静帝(せいてい)
北周最後の皇帝、楊堅に地位を奪われる
- 称号:静帝
- 廟号:-
- 諱:宇文闡(うぶんせん)
- 生没年:573年 – 581年
- 在位:579年 – 581年
- 父:宣帝(うぶんうん)
- 母:朱満月(しゅまんげつ)
主な出来事
幼くして即位
静帝は宣帝の子として生まれました。父である宣帝が奇行を繰り返し、わずか在位1年余りで静帝に帝位を譲ったため、幼くして皇帝となりました。
楊堅の台頭
静帝は幼かったため、政治の実権は母方の外戚である楊堅が掌握しました。楊堅は北周の重臣たちの支持を得ながら、徐々に自身の権力基盤を固めていきました。
楊堅への禅譲と北周の滅亡
権力を強固にした楊堅は、581年に静帝から帝位を禅譲させました。これにより北周は滅亡し、楊堅は新たに隋王朝を樹立しました。静帝は禅譲後に殺害されたと言われています。北周は建国からわずか24年でその歴史を終えました。
北周をめぐる権力闘争:家系図と宇文護
北周の歴史は実質的な創始者の宇文泰の権力、そして宇文護による初期の専横、そして楊堅への禅譲といった権力闘争と深く関わっています。以下の家系図を見ると皇帝たちがどのように血縁で繋がっていたかが分かります。
宇文乞得亀 └── 宇文肱 ├── 宇文洛生 ├── 宇文顥 │ └── 宇文護 (宇文泰の甥) └── 宇文泰 (北周の実質的な創始者) ├── 孝閔帝 宇文覚 (北周初代皇帝) ├── 明帝 宇文毓 (北周第二代皇帝) └── 武帝 宇文邕 (北周第三代皇帝) └── 宣帝 宇文贇 (北周第四代皇帝) └── 静帝 宇文闡 (北周第五代皇帝 - 北周最後の皇帝)
- 宇文泰 は皇帝ではありませんでしたが、西魏の実権を握り北周の基盤を築きました。
- 宇文護 は宇文泰の死後、その甥として権力を引き継ぎ孝閔帝や明帝を廃立・殺害するなど初期の政治を牛耳りました。
- 武帝 は宇文護を打倒して親政を開始しましたが、その死後、子の宣帝の悪政と孫の静帝への譲位という混乱が生じます。
- 静帝 の外戚である楊堅がこの混乱に乗じて権力を握り、最終的に帝位を奪って隋を建国しました。
北周の終焉と次の時代へ
武帝による華北統一という輝かしい瞬間を迎えた北周でしたが武帝の急死後、休息に衰えます。宣帝の悪政と短命、そして幼い静帝が即位という状況は王朝の安定を大きく揺るがしました。
この混乱を収拾する形で権力を握ったのが楊堅でした。楊堅は周到な準備を経て581年に静帝から帝位を奪い隋王朝を建国します。これにより北周は滅亡しました。
北周が築いた府兵制や武帝が吸収した仏教勢力の財力などは、次の隋王朝に引き継がれその後の中国統一に繋がっていきます。
まとめ
今回は、中国南北朝時代の北朝に存在した短命な王朝、北周とその北周の皇帝たちについてご紹介しました。
宇文泰によって基礎が築かれ、初代孝閔帝によって建国された北周は、初期には宇文護の専横、中盤には武帝による改革と華北統一、そして後半は武帝死後の混乱と楊堅による禅譲という、激動の歴史を歩みました。
わずか24年という短い期間ながら、北斉を滅ぼして華北を統一し、次の隋・唐王朝に繋がる制度や文化を残した北周王朝と、その運命を担った皇帝たち。彼らの人生を知ることは、中国史の大きな流れを理解する上で、非常に興味深いことと言えるでしょう。
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