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富察皇后(フチャ) 乾隆帝に愛された孝賢純皇后 の史実とは?

富察(フチャ)皇后 1.2 清の皇后妃嬪皇太后

 

富察皇后(フチャこうごう)は清朝の第6代皇帝・乾隆帝の正室。

孝賢純皇后(こうけんじゅんこうごう)と呼ばれます。本名はわかりません。

富察皇后は乾隆帝に非常に愛された皇后でした。

乾隆帝の側近 傅恒(ふこう)は皇后 富察氏の弟。

史実の皇后 富察氏はどんな人物だったのか紹介します。

 

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富察皇后の史実

富察皇后

富察皇后

 

姓:富察氏(満洲語:フチャ、日本語:ふさつ)氏
名:不明
称号:孝賢純皇后(こうけんじゅんこうごう)
出身:満洲鑲黄旗
生年月日:1712年3月28日
没年月日:1748年4月8日
享年:36歳

彼女は清朝の第6代皇帝・乾隆帝の皇后です

家族

父:富察李荣保
母:覚羅氏
夫:乾隆帝

子供
・端慧皇太子永璉
・哲親王永琮
固倫和敬公主

 

日本では江戸時代になります。

康熙時代

1712年。李荣保の長女として産まれました。

父の李荣保は満洲貴族の富察一族。チャハール(内モンゴル自治区察哈爾省)の司令官を務めました。

雍正時代:弘暦の嫡福晋になる

1727年(雍正5年)。雍正帝の四子で皇太子だった愛新覚羅弘暦(アイシンギョロ・フンリ)と結婚しました。

紫禁城の西にある宮殿で暮らしました。

1728年(雍正6年)。長女を出産。しかし2年後に死亡します。

1730年(雍正8年)。第ニ皇子・永璉(端慧皇太子)を出産しました。

1731年(雍正9年)。第三皇女・固伦和敬公主を出産しました。固伦和敬公主は61歳まで生きました。

1735年(雍正13)。雍正帝が亡くなり、息子の弘暦が即位しました。乾隆帝の時代が来ました。乾隆帝が即位すると富察氏は皇后になりました。

 

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富察皇后の乾隆時代 

富察皇后の肖像画

富察皇后 朝服 肖像画

1738年(乾隆2年)。永璉(端慧皇太子)が風邪をこじらせて死亡。8歳でした。
皇后富察氏はもちろん、乾隆帝も嘆き悲しみます。

養蚕の儀式を行う

後宮の長として様々な儀式に出席するのも熱心でした。

清の時代、養蚕の儀式が復活しました。養蚕の儀式は周王朝(紀元前10世紀~紀元前3世紀)の時代から続く儀式ですが、しばらく途絶えていました。

1742年(乾隆7年)。儀式のための祭壇の建設が始まりました。
1744年(乾隆9年)。儀式の祭壇が完成しました。皇后富察氏は後宮の女性をひきいて儀式を行いました。桑の葉を蚕に与えました。蚕の吐く糸で絹を作ります。

1751年にはこの様子を記念して巻物に描かれました。「養蚕の儀式をする皇后」の絵は現在の北京博物館に展示されています。

富察皇后の最後

1746年(乾隆11年)。第七皇子・永琮を出産。

1748年2月(乾隆13年)。永琮が死亡。

富察皇后はたいへん悲しみました。

乾隆帝は富察皇后を元気づけようと領内を旅行しました。しかし都に帰る途中で富察皇后が病気になってしまい失意のうちに亡くなってしまいます。

遺体は船で都まで運ばれました。

 

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富察皇后 死後の影響

乾隆帝 肖像画

乾隆帝 肖像画

乾隆帝は皇后の死を大変悲しんで12日間菜食だけで暮らし、毎日皇后の墓に行き酒を捧げました。

また皇后が暮らしていた長春宮殿には誰も住まないように命令し、皇后を懐かしむために中に紋章をかかげました。葬儀の最後の日。乾隆帝は詩「述悲賦」を書きました。皇后の人柄や夫婦愛、生前のエピソードが盛り込まれた悲しい詩です。

皇后富察氏には「孝賢純皇后」の諡が贈られました。

1752年(乾隆17年)。陵墓が完成。埋葬されました。

孝賢純皇后の死後、乾隆帝は非常に悲しんで彼女の墓によく行っていました。

孝賢純皇后の死後、王宮の雰囲気は変わったといいます。乾隆帝の治世は穏やかで「寛容」が乾隆帝の方針でした。

ところが孝賢純皇后の死後、乾隆帝は厳格になります。心の余裕を失った乾隆帝は家臣のミスも厳しく処分するようになりました。些細な失敗でも降格処分になった人もいます。

乾隆帝は死の直前に皇后が暮らした大船を首都・北京に運ぼうとしました。ところが船が大きくて門を通れなかったので門を壊して運びました。数千人の労働者を使って運び込んだということです。

孝賢純皇后の人柄と性格

万国来朝図の乾隆皇后(ジュゼッペ・カスティリオーネ)

万国来朝図の乾隆皇后
(ジュゼッペ・カスティリオーネ)

 

孝賢純皇后は私利私欲で動くことがなく人々から尊敬される人物でした。側室に対しても嫉妬を見せることはありませんでした。

孝賢純皇后は節約にも熱心です。お金を自分のために使うのは好きではありません。宝石類を身につける代わりに造花や野生の花で髪を飾っていました。

孝賢純皇后の死後、乾隆帝の行動はときとして非常識なこともしでかします。それだけ孝賢純皇后は愛されていたのでしょう。

皇后富察氏は乾隆帝にとって「理想の皇后」になりました。

その後、輝発那拉氏が皇后になりました。乾隆帝は富察氏のあとは皇后をおかないつもりでした。でも皇太后の命令で仕方なく輝発那拉氏を皇后にしました。輝発那拉氏は、乾隆帝の心の中ある富察氏の幻影と比較されることになります。結果的に輝発那拉氏は乾隆帝を怒らせて廃位されてしまいます。

その後も、令妃魏氏(瓔珞)など乾隆帝の寵愛を受けた女性はいましたが、皇后にはしませんでした。

富察氏が乾隆帝に与えた影響はそのくらい大きかったのです。

 

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ドラマの皇后 富察氏

瓔珞(エイラク)

2018年、中国  演:秦嵐(チン・ラン)

「瓔珞」では心優しい皇后。自分に仕える瓔珞を大切にして面倒を見ます。内心では自由に憧れつつも、皇后として求められる姿を演じようとして悩み、最後には自殺してしまいます。

 

如懿伝(にょいでん)

2018年、演:董潔(ドン・ジエ)

「如懿伝」では自分の地位を脅かされるのではないかと不安に思っています。人にそそのかされ如懿を陥れようとしたり、腹黒い一面も。

宮廷の諍い女

2011年、中国 演:元李

 

ドラマによって描かれ方がかなり違います。歴史上のイメージに近いのは瓔珞(エイラク)でしょうか。

 

コメント

  1. 則竹映里 より:

    孝賢純皇后みたいに私もなりたい!

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