ダイシャン(代善)はヌルハチの次男。
後金や清朝の創設期を生き抜き、その武勇と政治手腕で国や一族を支えました。
後継者争いに巻き込まれ栄光と挫折を繰り返し、最終的には清王朝の中枢で重要な役割を果たしました。
この記事ではダイシャンの生涯をたどり、その人物像に迫ります。
- ダイシャンの生い立ちと活躍: ヌルハチの次男として生まれ、後金の建国に貢献。
- 後継者争い: ヌルハチの後継者争い、スキャンダルに遭って後継者の座を逃しました。
- 四大ベイレとしての活躍: ホンタイジの時代には四大ベイレの一人として活躍。
- 晩年: ホンタイジの台頭で権力が縮小しましたが、ホンタイジの死後は皇族の年長者として大きな存在感を持っていました。
ダイシャンとは
どんな人?
姓:アイシンギョロ(愛新覚羅)称号:禮烈親王
生年:1583年8月19日
家族
母:元妃 トゥンギャ(佟佳)氏。
ダイシャンの生涯
ヌルハチの次男として生まれる
1583年8月19日
ダイシャンが誕生。
父はヌルハチ。
母はトゥンギャ氏
ヌルハチの次男です。
父ヌルハチが後金を建国
天命元年(1616年)。ヌルハチが後金が建国。
ダイシャンは 和碩貝勒(大ベイレ)の称号を与えられました。満州八旗のひとつ「正紅旗」の旗主(司令官)になりました。
ヌルハチの女真統一戦争やモンゴルや明との戦いでは先頭に立って戦い。大きな功績をあげました。
兄チュイエンが後継者から脱落
ヌルハチは長男(ダイシャンにとっては同母兄)のチュイエンを後継者にしようと考え、自分の権限を分け与えました。ところがチュイエンは王のように振る舞い横暴になっていきます。そのため兄弟や臣下から反発を受けてチュイエンは軟禁されました。
スキャンダルに巻き込まれ後継者争いから脱落
その後、ヌルハチは次男のダイシャンを後継者にしようと考えました。
ところがヌルハチの小福普(側室)テインチャが「大福普(正妻)がダイシャンと不適切な関係にあります」とヌルハチに訴えました。
このときの「大福普」はアバハイ(4番めの正妻、ドルゴンの母)がグンダイ(2番めの正妻、マングルタイの母)と言われますが、アバハイが有力です。
大福普は夜になると着飾ってダイシャンのテントに通いました。ダイシャンが宴を開くときは大福普も出席、ベイレ(諸王)や大臣たちをもてなしました。
それを聞いたヌルハチは怒って大福普を罰しました。
ダイシャンには直接罰はありませんでしたが、ダイシャンはヌルハチの後継者としての地位を失います。
遊牧民社会には王が死ぬと妻や側室は次の王が養うという習慣がありました。そこでヌルハチと親子ほど歳が離れている大福普アバハイはヌルハチの死後を考え有力な後継者とされているダイシャンとの関係を深めようとしたようです。
以後。ダイシャンはアバハイとは付き合わなくなります。
それでも高い地位を維持
信用を失い後継者争いでは不利な立場になりましたが。それでもダイシャンがヌルハチの王子の中で最年長。2つの旗を持つ有力王族なのは変わりません。
ヌルハチは4大ベイレ(ダイシャン、アミン、マングルタイ、ホンタイジ)を任命。彼らにハン(国王)の政治を補佐させました。
ヌルハチ死後の後継者争い
1626年。ヌルハチが死去。四大ベイレはヌルハチの遺言に従い大福普アバハイの殉死を伝え。アバハイの息子(アジゲ、ドルゴン、ドド)の保護を約束しました。
次にベイレ(王族)たちの間で次のハン(国王)を決める会議が開かれました。有力候補はダイシャン、ホンタイジ。
ここでダイシャンの長男ヨトと三男サハリャンがホンタイジを支持してしまいます。
ダイシャンはかつてアバハイとの関係が問題になったとき、噂を広めたのはヨトとサハリャンだと決めつけて罰した事がありました。またダイシャンはヨトに自分のあとを継がせないと決めていたのでヨトは不満でした。
もともとアバハイの件で評判を落としていたダイシャンは息子たちに説得されてハンになるのを諦めます。
次のハンはホンタイジに決まりました。
ホンタイジの時代
崇德元年(1636年)。ホンタイジが後金の2代目ハンになりました。
四大ベイレのひとりとして力を持つ
でもヌルハチ亡き後の後金で力をもっていたのはハンではなく四大ベイレです。ダイシャンは四大ベイレの筆頭として影響力を持ち続けました。儀式のときに臣下と向き合って座るのはハンだけではなく四大ベイレでした。
その後の明、朝鮮、モンゴルとの戦いでは四大ベイレの主導で行われました。
でもホンタイジはそれが不満でした。ハンに権力を集めようとします。口実をみつけてはアミン、マングルタイを処罰して力を奪っていきました。
四大ベイレの地位を失う
1635年(天聡9年)。ダイシャンは個人的に宴会を開き、ホンタイジと敵対するハダ公主(マングジ、ヌルハチの三女、マングルタイの同母妹、ホンタイジの異母姉)に褒美を与えました。
ホンタイジは王族会議を招集。
以下の罪でダイシャンを批判しました。
- 日頃からハンを敬う態度をみせずホンタイジの命令に従わない。
- 不正に蓄財している。
- 部下への賞罰が不公平。
- 配下の者を虐待している。
結局、ダイシャンは大ベイレの地位を奪われてしまいます。
こうして四大ベイレはホンタイジを除いてすべて失脚。ホンタイジが力を持ちます。
その後。ダイシャンは大人しくホンタイジに従うようになりました。
「後金」が「大清」に名前を変え。ホンタイジが皇帝(ハーン)になりました。
1643年(崇徳8年)。ホンタイジが死去。
皇帝選びの会議を主催
ホンタイジは生前に後継者を決めてなかったので王族会議で後継者を決めることになりました。
ダイシャンは王室の年長者なので会議を主催。
このとき候補になったのはホンタイジの長男ホーゲとドルゴンでした。お互いの派閥が激しく主張して会議はまとまりそうにありませんでした。
そこでジルガラン(ドルゴンの説もあります)がホンタイジの息子フリンを皇帝に提案。賛成を得てフリンが皇帝に、ジルガランとドルゴンが摂政になることも決まりました。
この後。ダイシャンの次男ショトと孫アダリは会議に不満でドルゴンを担いで皇帝にしようとしました。ダイシャンにも賛成するように迫りました。ダイシャンはこのことを王族に暴露。ショトとアダリは処刑になりました。
ダイシャンは身内の謀反を暴露したので周囲から公正な人物だと称賛されましたが。自分の息子と孫が犠牲になってしまいました。
ダイシャンの最後
その後、病気がちなダイシャンは家で余生を暮らします。
順治4年(1644年)。清が北京に遷都するとダイシャンも北京に移り住みました。
順治5年10月11日(1648年11月25日)。ダイシャンは北京の自宅で死去しました。享年65。
まとめ
ダイシャンはヌルハチの次男として生まれ、後金建国後は大ベイレとして活躍しました。一時は父の後継者候補と目されたが、スキャンダルによりその地位を失ってしまいます。
その後も高い地位を維持したものの、ホンタイジの台頭により権力を失いました。
ホンタイジの後継者を決める際には皇族の年長者としてリーダーシップを発揮します。
そして最後は平和に生涯を閉じました。
ダイシャンは後金の建国と発展に大きく貢献した人物でありながら、後継者争いに巻き込まれ波乱の生涯を送ったのでした。
コメント