則天武后はなぜ悪女と言われるの?どんな悪行をしたの?

武則天はなぜ悪女 5 唐
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武則天は中国史上唯一の女帝。唐朝の第3代皇帝・高宗の皇后から皇帝の座を奪い、周朝を設立しました。

彼女は権力を握るために、邪魔者を次々と排除。

ライバルを陥れ残酷な方法で殺害したり、
反対派の重臣を粛清したり、
落ち度のない皇太子を殺害・廃したり、
密告地獄の恐怖政治を行ったり…

その悪行は数えきれません。

この記事では武則天の悪行の数々と彼女が皇帝の座を簒奪するまでの過程、そして、彼女が後世から「悪女」と呼ばれるようになった理由を解説します。

 

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武則天の生涯:才人から女帝へ

唐の太宗帝の才人から高宗帝の皇后へ

武則天、本名・武照は、624年(または625年)に中国・山西省の武士彠の娘として生まれました。

14歳で唐の太宗帝の後宮に入り「才人」という位を得ます。

太宗帝の死後、尼寺に入れられますが、太宗帝の息子・高宗帝に見初められ、再び宮廷に戻り、皇后の座に上り詰めます。

権力を握り、皇帝の座を簒奪

武則天 肖像画

武則天 肖像画

高宗の側室に武照は高宗の寵愛を受けて皇后になり。徐々に権力を増していきます。

高宗帝の死後、二人の息子(中宗、睿宗)が皇帝となりますが、彼女は実権を握り続け、690年にはついに自ら皇帝の座を簒奪し、国号を「」と改めました。

中国史上唯一の女帝の誕生です。武則天の統治は15年続きました。

705年。武則天が病に寝込むようになると、宰相の張柬之が皇太子を担いで反乱を起こし、武則天に譲位を迫りました。そして武則天は皇帝の座を息子に譲ります。

その翌年、武則天はこの世を去りました。

 

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則天武后の悪行

ライバルを陥れ残酷な方法で殺害

娘を殺して王皇后に罪をなすりつける

武則天は高宗の寵愛を得るために、王皇后と蕭淑妃を陥れました。彼女は自分の娘を殺害。娘が亡くなったのは王皇后のせいだと訴え、高宗の怒りを王皇后に向けさせました。

さらに王皇后の母親が呪いをかけたという噂を流し、高宗の不信感を煽ります。こうして武則天は王皇后を廃位に追い込み、自らが皇后の座につきました。

残酷な殺害方法

王皇后と蕭淑妃は処刑されました。武則天は二人が生き返らないように手足を切断、酒瓶に詰め込んで数日間放置したと言われています。

後宮ではライバルを陥れるのはよくあることですが、あまりにも残酷です。

この話は呂皇后が側室の手足を切断して処刑したという「人豚」の逸話に似て、どこまで本当かわかりません。娘の死亡も武則天がわざとしたのか事故だったのかはわかりません。
でも娘の死を利用して王皇后を陥れ王皇后と蕭淑妃を殺害したのは確かなのでしょう。

 

反対派の重臣を粛清

武則天は皇后になった後も、邪魔になる重臣たちを次々と粛清しました。

重臣の粛清

高宗と武則天は皇后即位に最も反対していた宰相の褚遂良追放。さらに長孫無忌、於志寧、韓瑗、來濟といった重臣たちを左遷、地方に飛ばしました。長孫無忌は左遷後も弾劾が続き現地で自害に追い込まれました。

武皇后廃位を企む上官儀を処刑

武則天は道士の郭行を宮中に招き呪術を行わせました。宦官の密告で知った高宗と宰相の上官儀が武則天の廃位を計画。

武則天は高宗の動きを察知して問い詰めると、高宗は上官儀責任転嫁

武則天の皇后廃位は中止となり上官儀と密告した宦官は処刑されました。上官儀と親しかった役人たちも左遷され、武則天の権力はさらに強いものになりました。

武則天が強い女性だったのは確かでしょうけれど、高宗の情けなさも武則天をエスカレートさせる原因の一つになったのでしょう。

 

落ち度のない皇太子を殺害・廃する

皇太子・李弘が24歳で急死。武則天の息子・李弘は母の政治姿勢を批判し、一族の横暴を諫めていたため毒殺されたと言われています。

その後、李賢が皇太子となりますが679年に謀反の疑いをかけられ廃位

代わって李顕(後の中宗)が皇太子となりました。

皇太子が廃されるのは中国王朝ではよくありますが。李弘には問題がなく、普通の王朝なら有望な後継者として期待される人物です。李賢の謀反も怪しいものです。

 

密告地獄の恐怖政治

武則天は皇族や重臣を監視するため、密告制度を採用しました。

密告者は大臣に尋問されることなく、武則天が直接意見を聞き報告が間違いでも罰を受けません。

密告者には馬車や食料が支給されました。役人は密告者を捕らえるほど出世できたため、人々は嘘でも謀反人をでっち上げ出世を企てました。

こうして来俊臣(らい・しゅんしん)などの酷吏(こくり)が出世。酷吏は密告と拷問で多くの人々を死に追いやりました。

こうして武則天は政敵や自分に批判的な者を次々に排除しました。酷吏に目をつけられると罪がなくても謀反人にされ処刑されす。皇族や臣下は恐れて大人しくするしかありませんでした。

 

中宗廃位事件:武則天の権力掌握と皇位簒奪への道

皇太子 李顕(中宗)が即位、武則天皇太后になりました。

しかし中宗は母の武則天に対抗しようと皇后の父を重臣にしようとしました。

武則天の配下が反対すると中宗は「朕は皇帝だ。天下だってやる。侍中くらいいいではないか」と発言。武則天はこの発言を問題視し中宗を廃位して廬陵王に格下げ。中宗はわずか55日で皇帝の座を追われ、地方に左遷されました。

中宗の発言は迂闊ですが、だからといって廃位は厳しすぎます。武則天は自分が皇帝になるための準備をしているので廃位の理由は何でもいいのです。

 

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武則天・女帝の誕生とそれ以降の悪行

武周革命:女帝武則天の誕生

690年。傅遊芸という人物が5万の民衆を率いて「武太后を皇帝に」と訴え始めました。もちろん武則天がそうさせたのです。

民衆、役人、皇族が一体となって武則天の皇帝即位を求めました。睿宗 李旦でさえ、姓を「武」に変えたいと願い出ました。大臣たちも天命が武則天にあるかのように演出しました。

その流れに乗らないと殺されるという恐怖感もあったでしょう。

そして武則天は息子の睿宗から皇帝の座を譲られ周の皇帝になりました。これは「禅譲」といいますが。

恐怖政治で人々は「逆らうと命がない、従えば生きられる」と考えるようになっていました。人間の心理を操る技はたいしたものです。
禅譲は中国史では王朝創設者に徳があると肯定的に捕らえられますが。奪ったのに譲ってくれたことにする中国お得意の茶番劇。もらった詐欺です。武則天はそれをうまく使ったのです。

 

男性関係:張易之・張昌宗兄弟との関係

武則天は複数の男性と関係を持ったことでも知られています。

まず太宗の側室になりました。その次に高宗の側室から正室になります。

親子二代の妻になった人は遊牧民王朝ではよくありますが、中国王朝では他には楊貴妃くらいしかいません。

ただし唐は鮮卑の流れをくみます。遊牧民的な価値観が残っていたのかもしれません。

武則天がうまく高宗を落としたのでしょうが、むしろ高宗のわがままでしょう。

 

即位後は何人かの愛人を作りました。特に張易之・張昌宗兄弟との関係は批判の的となりました。

男の皇帝が何人も側室をもつのが許されるのなら、女の皇帝に何人も男がいても不思議ではありません。それに唐や唐以前の古い時代には女性の権力者・太后に愛人がいるのは珍しくありません。

 

権力の頂点に立った武則天に愛人がいるからと言って武則天を持つのを批判するのは男のわがままですし。儒教が広まり男尊女卑の考えが強くなった時代の考え方です。
問題なのは愛人たちの横暴を止めなかったことです。

 

愛人を信用して孫を処刑

武則天の孫である邵王 李重潤永泰公主、そしてその夫である魏王 武延基が、武則天が寵愛する張易之・張昌宗兄弟を排除しようとしました。

しかし張兄弟によって武則天に告げ口され、武則天は激怒

武則天は李重潤と武延基を処刑、妊娠中の永泰公主も処刑こそ免れたものの、兄と夫の処刑にショックを受け流産し死亡しました(自殺を強制されたという説もあります)。

武則天は実のよりも寵愛する張兄弟を信用したのです。この事件は大臣たちに大きな衝撃を与えました。

李重潤は武則天を廃そうとしたのではありません。武則天の力を利用して横暴を働く張兄弟を排除しようとしたのです。このころになると武則天は人々の苦労よりも愛人が大事になっていたのです。

 

資格がないのに皇帝になった:皇族の生まれではない

武則天と近い時代。東アジアには日本の推古天皇・持統天皇、新羅の善徳女王など。女の君主はいました。でも彼女たちは悪女とは呼ばれていません。血統的には問題ないからです。

女性が君主になったというだけなら、それほど批判は受けなかったでしょう。武則天が推古天皇たちと違うのは君主になれる血筋ではなかったことです。

血統的には資格はないのに、息子から無理やり地位を奪ったことも批判される理由のひとつです。

でも中国には日本と違って易姓革命があります。

易姓革命(えきせいかくめい)
(天空の神様)が徳のある者を選んで地上の支配者(天子)を任命。天子にがなくなると別の者を任命。それを革命(命令が変わる)と言います。君主になる一族が変わる=姓が変わる。そのため易姓革命といいます。儒学者が唱えた説です。

君主の血筋でなくても徳があれば取って代わることができるのです。だから武則天は易姓革命を起こしました。

ところが易姓革命儒教の教え。そこに問題がありました。

儒教との対立:女性の地位、皇帝のあり方

漢王朝以降、中国歴代王朝では儒教が重視されていました。

でも儒教では女性が政治に関わることや、皇帝の座に就くことは教えに反するとされていました。

そのため武則天は即位のために仏教を利用。でも儒学者は仏教は異人の教えとして軽蔑しています。それも儒学者から批判を受ける理由です。

武則天への批判は在位中にもありましたが。唐の後半から宋代以降にさらに激しく悪女の代表のように言われました。中国で儒教が強くなるとともに批判も大きくなったのです。
武則天は儒教価値観に挑戦したため、批判を浴びたのです。

 

まとめ

武則天は中国史上唯一の女帝でその功績と悪行は今日でも議論の対象となっています。

彼女は政治手腕に優れ唐王朝の発展に貢献した一方で、権力を得るためには手段を選ばない残酷な一面も持ち合わせていました。

この記事では、武則天の悪行に焦点を当て彼女が皇位簒奪のために行った数々の策略や即位後の恐怖政治について紹介しました。

武則天は、

邪魔者を排除するために密告制度を利用したこと
反対勢力を粛清したこと
娘を殺害、その罪を皇后になすりつけたこと
など数々の悪行を行いました。

これらの行為は彼女の権力欲と野心がもたらしたものと言えるかもしれません。彼女の生涯は権力という魔物に取り憑かれた人間の姿と言えます。

でも個別の悪行だけで見れば他の皇帝も行なっていますし、さらに残虐な皇帝もいます。武則天だけが残酷だったわけではありません。

その一方で武則天は統治者としてみれば決して愚かではない。優れた部分もあります。

武則天の功績と悪行は単純な二元論では語り尽くせない複雑なものです。

逆に言うとそうでもしないと中国では女性が皇帝になることはできなかったのかもしれません。

 

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