武則天は中国の歴史でたった一人の女帝です。
彼女の人生は波乱に満ちその功績と悪行は今も語り継がれます。
この記事では武則天の誕生から皇帝になるまでの道のりそして彼女が中国に与えた影響を分かりやすく解説しす。
彼女の生涯を知り歴史の奥深さを感じてみませんか。
武則天とは?中国史上唯一の女帝の基本情報
武則天のプロフィール

武則天
- 名 前:武曌(照)(ぶ・しょう)
「曌」は「照」を意味する則天文字。 - 通称:武媚娘(ぶびじょう)
宮中での名前:武媚(ぶ・び) - 王 朝:唐→武周→唐
- 地位と名前:
武周皇帝・則天大聖皇帝(そくてんたいせいこうてい)
唐皇后・則天順聖皇后(そくてんじゅうせいこうごう) - 生 年:624年2月17日
- 没 年:705年12月16日
武則天の家族
- 父:武士彠(ぶ しやく)
- 母:楊夫人
- 夫:太宗 李世民、高宗 李治
- 子:孝敬皇帝 李弘、章懷太子 李賢、安定公主ほか
「武則天」と「則天武后」呼び方の違いは?
武則天は「則天武后」とも呼ばれます。これは彼女が亡くなる前に「皇后」として葬ってほしいと言ったためです。
そのため日本では則天武后という名前が広く知られています。中国では長く「則天」と呼ばれましたが、現代では姓の「武」をつけて「武則天」と呼ぶのが一般的です。
武則天が生まれた時代 唐の繁栄と背景
武則天が生きたのは唐王朝が栄えた時代です。唐は国際色豊かな文化を持ち経済も発展していました。しかしその裏では皇族や重臣たちの権力争いが絶えず、武則天もその中で頭角を現していくのです。
波乱の生涯!武則天 皇后から皇帝への道のり
武則天の人生はまるでドラマのようでした。一介の側室からいかにして皇帝の座にまで上り詰めたのでしょうか?その道のりを見ていきましょう。
太宗の後宮へ「武才人・媚娘」時代の始まり
637年14歳の武則天は唐の第2代皇帝太宗 李世民の後宮に入りました。
この時の身分は「才人」(さいじん)という低いものでした。太宗は彼女の美しさの噂を聞きつけて宮中に呼び寄せたのです。
彼女は太宗から「媚娘」あるいは「媚」という呼び名を与えられます。しかし気性の強さが災いしたのか、武則天は太宗からの寵愛をほとんど受けられず、12年間も才人のままでした。

唐太宗と仕える女たち
武才人(武媚娘)という呼び名や彼女の宮中での若き日々についてさらに詳しく知りたい方は「武才人(武媚娘)とは?武則天の若き日 太宗後宮での評価」の記事をご覧ください。
高宗との出会いと皇后への道のり
太宗が病で床に伏せるようになると、皇太子 李治(後の高宗)が看病にあたりました。この時、武則天と李治は親密な関係になったと言われます。太宗が亡くなると武則天は一度尼寺に入りました。しかし高宗皇帝となった李治は彼女を忘れられません。やがて宮中に呼び戻します。
当時の後宮では王皇后と側室の蕭淑妃(しょうしゅくひ)が対立していました。高宗は蕭淑妃を寵愛していましたが、王皇后は蕭淑妃に対抗するため武則天を宮中に呼び戻すよう高宗に勧めたのです。
王皇后は武則天が自分に従順な態度を見せていたので味方につけられると考えました。
宮中に戻った武則天は持ち前の聡明さと策略で次第に高宗の寵愛を一身に集めます。王皇后や蕭淑妃との権力闘争を繰り広げて両者を蹴落とし、655年に皇后になりました。
高宗の病と「二聖」武則天の政治参加
皇后となった武則天は、高宗の病気がちになったのをきっかけに次第に政治に深く関わるようになります。660年頃には高宗の政務を代行するようになり、政務を行う高宗のそばで御簾の裏から意見を述べるようになりました。
人々は高宗と武則天を合わせて「二聖」(にせい)と呼ぶほど武則天の政治的影響力は絶大なものになっていたのです。
自ら皇帝に!「武周」王朝の建国
武則天は高宗の死後も実権を握り続けました。そして690年ついに自ら皇帝の座につきます。国名を「唐」から「周」と改めここに中国史上唯一の女帝による「武周」王朝が誕生したのです。
この政権交代は「禅譲」(ぜんじょう)という形で形式的に行われましたが、その裏には武則天の周到な準備と反対勢力の排除がありました。
功績と悪行 武則天が残した光と影
皇帝となった武則天の治世は光と影を併せ持つものでした。彼女は多くの功績を残しましたが同時に厳しい統治で悪名を残した側面もあります。
政治・文化を動かす改革の数々
武則天は皇帝として多くの改革を行いました。
- 官僚制度の刷新: 従来の貴族中心の官僚登用を見直し科挙(かきょ)と呼ばれる試験を重視し能力のある人材を積極的に登用しました。これにより貴族に偏りがちだった政治に新たな風を吹き込みました。
- 仏教の保護と則天文字の制定: 仏教を厚く保護し寺院の建立や大仏の造営を奨励しました。また彼女は独自の文字「則天文字」(そくてんもじ)を作り一部で使用させました。「圀」という文字は則天文字の一つで日本の水戸光圀の名にも使われています。
- 民衆の意見を取り入れる試み: 銅製の箱を宮殿の前に置き一般の人々からの意見や提言を募る制度を設けました。これにより民衆の不満を吸い上げ政治に活かそうとしました。
恐怖政治と「酷吏」の実態 則天武后なぜ悪女?
一方で武則天の統治には「恐怖政治」という負の側面がありました。
- 密告制度の奨励: 彼女は謀反人を密告した者に褒美を与える「密告制度」を導入しました。これにより多くの人々が些細なことで密告され無実の罪で処刑されることが増えました。
- 「酷吏」の登用: 密告制度を悪用し権力を恣にする役人が多く現れました。彼らは「酷吏」(こくり)と呼ばれ拷問を駆使して罪をでっち上げ多くの皇族や重臣を粛清しました。
武則天が「悪女」と評されるのは主にこのような恐怖政治や権力闘争の中でライバルを冷酷に排除したエピソードによるものです。
特に娘の死を王皇后を陥れる口実にしたという話や王皇后と蕭淑妃を手足を切断して酒瓶に入れるという残虐な処刑方法は後世の歴史書によって強調され彼女の悪女像を強く印象づけました。
武則天の悪行についてさらに詳しく知りたい方は 則天武后はなぜ悪女と言われるの?どんな悪行をしたの? を御覧ください。
武則天をより深く知る 関連人物とエピソード
武則天の生涯は多くの人物との関わりの中で形作られました。彼女を支えた人々そして彼女に翻弄された人々のエピソードを見ていきましょう。
高宗との夫婦関係は?年齢差と影響
武則天と高宗(李治)はもともと義理の親子関係でした。高宗が皇太子時代に武則天と親密になり後に彼女を後宮に迎え入れます。高宗は武則天を深く愛しその政治的才能を高く評価していました。二人の関係は単なる夫婦というだけでなく政治的なパートナーでもありました。高宗の病弱な体質が武則天の政治的台頭を促した側面は大きいでしょう。
武則天と高宗 李治の年齢差と二人の関係について、さらに詳しく知りたい方は「武則天と高宗の年齢差は?」を御覧ください。
側近 上官婉児と武則天の知られざる関係
上官婉児(じょうかんえんじ)は武則天に仕えた才能ある女性官僚です。彼女は武則天の詩文作成や政治文書の作成に携わり絶大な信頼を得ていました。武則天の側近としてその政治手腕を発揮し時には意見を述べることもありました。女性が政治の中枢で活躍できたのは武則天の時代ならではの特徴と言えます。
武則天に関する印象的なエピソード
- 飼い慣らせない馬: 太宗の後宮にいた頃武則天は誰も飼いならせない暴れ馬を「鉄鞭鉄棒短剣の三つがあれば飼いならせる」と言い放ち太宗を驚かせました。このエピソードは彼女の強気で大胆な性格を表しています。
- 酷吏 来俊臣(らいしゅんしん)の末路: 武則天の恐怖政治を支えた酷吏の代表格である来俊臣はその残虐さで多くの人々から憎まれました。しかし彼は太平公主(たいへいこうしゅ)や武氏一族まで陥れようとしたため武則天の怒りを買い最終的に処刑されました。彼の遺体は民衆によって食い散らかされたと伝えられておりその極悪非道さがうかがえます。
武則天の最期と後世に残る評価
中国史上唯一の女帝として君臨した武則天にも最期の時は訪れます。彼女の死後その評価は時代とともに変化していきました。
武則天の退位と「則天武后最後」の時
晩年武則天は病に伏せるようになり寵愛する側近の張易之(ちょうえきし)・張昌宗(ちょうしょうそう)兄弟に政治を任せがちでした。しかし彼らが権力を笠に着て横暴を働くようになると不満が高まります。
705年宰相の張柬之(ちょうかんし)らが決起し張兄弟を殺害。病床にあった武則天に譲位を迫り彼女は皇帝の座を息子の李顕(中宗)に譲りました。
国名は再び「唐」に戻されます。これが「神龍政変」(しんりゅうせいへん)です。
武則天は退位から間もなく82歳でその生涯を閉じました。
皇帝としての武則天の功績や弊害についてさらに詳しく知りたい方はは 武則天 中国史上唯一の女帝の生涯 を御覧ください。
無字碑の謎 則天武后の評価はなぜ難しい?
武則天の墓である乾陵(けんりょう)には碑文が刻まれていない巨大な石碑「無字碑」(むじひ)があります。この碑にはなぜ文字が刻まれなかったのか様々な説があります。
- 自分の功績は言葉で語り尽くせないほど偉大だったから。
- 後世の人々に功績を評価してほしいと願ったから。
- 自らの悪行を歴史に残したくなかったから。
この無字碑の存在が武則天の評価をより複雑で多角的なものにしています。彼女の功績と悪行その両方を考慮し後世の人々が自由に評価することを望んだのかもしれません。
画像: 乾陵にある無字碑の写真。
時代によって変わる武則天の歴史的評価
武則天の評価は時代によって大きく異なります。
- 儒教の時代: 長い間彼女は女性が権力を握った異例の存在としてまた残忍な悪女として否定的に描かれることが多かったのです。これは儒教の思想が男性優位の社会を支持していたため女性が皇帝になることは「秩序を乱す」と見なされたからです。
- 現代: しかし現代では彼女の政治手腕や改革者としての側面が再評価されています。中国史上唯一の女帝としてその困難な道を切り開いた強い女性として新たな視点から研究が進んでいます。
武則天の世界を映像で楽しむ!おすすめドラマ・映画
武則天の波乱万丈な生涯は多くの人々の心を捉え様々なドラマや映画の題材にもなっています。
- 武則天 -The Empress-(2015年)
中国の女優ファン・ビンビンが主演を務めた大ヒットドラマです。豪華な衣装とセットで武則天の生涯が壮大なスケールで描かれています。 -
淵蓋蘇文 2006年、SBS
演:チャン・ウンビ -
大祚榮(テジョヨン)2006年、KBS
演:ヤン・グムソク
韓国ドラマ。高句麗の滅亡から渤海の建国までを描いています。武則天も重要な登場人物の一人として登場します。 -
二人の王女 2012年、中国
演:李湘
主人公は武則天の娘・太平公主と安定思公主。ヒロインの母として登場。 -
大唐流流 2021年、中国
演:張譯兮 役名:小鹿 -
風起花抄 2021年、中国
演:施詩
太宗の側室・才人として登場。ヒロインの瑠璃を助ける役です。 - 風起洛陽 2021年、中国
演:詠梅
皇帝として登場。絶対的な権力者。平安貴族のような外見のせいか、劇中では一度も武則天と表示されないまま。
これらの作品を通して映像で武則天の世界を楽しんでみるのも良いでしょう。
まとめ
武則天は中国史上唯一の女帝として波乱に満ちた生涯を送りました。彼女は側室から皇帝にまで上り詰め、唐の政治や文化に大きな影響を与えた人物です。
その治世には官僚制度の改革や文化の発展といった功績がある一方で、恐怖政治や身内への粛清といった負の側面もありました。
武則天の評価は時代や視点によって様々ですが、現代ではその政治手腕や女性が権力を掌握した稀有な存在として再評価されています。彼女の生涯は権力、知略、そして人間の光と影を映し出すまさに壮大な物語と言えるでしょう。
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