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秦の恵文王の妃と王子・王女たち

秦 8 春秋戦国

秦の恵文王は古代中国・春秋戦国時代の王。

秦で最初に「王」の称号を名乗った人物です。辺境の遅れた国と言われた秦を中原の大国に匹敵する国にしました。

息子の昭襄王がさらに秦の領土を広げ、春秋戦国時代最強の国にしました。昭襄王のひ孫が始皇帝。

後に嬴政(始皇帝)が中国を統一できたのも恵文王や昭襄王が秦を大国に育てたからです。

恵文王の側室で昭襄王の母・宣太后は、王以上の力を持った中国史上初の太后と言われます。

いろいろな意味で話題性も豊富なのが恵文王の時代です。

そのような恵文王にはどのような正室・側室・子どもたちがいたのか紹介します。

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正室

恵文后

生年 不明
没年 紀元前305年

子供:蕩(武王)

魏出身だったので魏夫人ともよばれます。

でも楚出身という説もあります。

恵文王の死後、息子の蕩が王(武王)になりました。
武王の死後。公子壮を次の王にしようとしますが、稷(昭襄王)が即位。
公子壮や王子たちが反乱を起こしますが、鎮圧されます。
恵文后は公子壮とともに処刑されました。

恵文后の詳しい説明

ドラマ「ミーユエ」では恵文后と魏夫人は別人になってます。
楚出身の羋妹が恵文后になったという設定です。

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側室

秦は時代が古いので詳しい記録があまり残っていません。
歴史上わかっている側室は羋八子だけです。

恵文王は子供が多いので他にも何人もの側室がいたはずです。でも名前はわかりません。そこでドラマでは架空の側室が何人も登場します。

羋八子(宣太后)

生年 不明
没年 紀元前265年

楚の国の公主(王女)ですが両親は不明。
秦の恵文王の側室になりました。恵文王との間には男子3人が誕生。その中の一人が公子稷(後の昭襄王)です。弟の魏冄も恵文王に仕えました。
恵文王やそのあとを継いだ武王の死後、燕の国に人質に行っていた公子稷を呼び戻し王にしました。

自らは王の後見人になり弟の魏冄、華陽君が秦の朝廷で権力を握りました。これが垂簾聴政の最初と言われます。王の権力を上回る絶大な影響力をもちました。

義渠王と事実上の夫婦関係になり子供が2人生まれたともいいます。義渠王は宣太后に招待されたところを昭襄王によって殺害されました。

その後、宣太后と兄弟は昭襄王に権力を奪われ隠居します。

晩年には魏丑夫を愛人にしました。

中国史上最初に「太后」と呼ばれ垂簾聴政を行った女性と言われます。

子供
父:恵文王
昭襄王
高陵君
涇陽君

父:義渠君
子供2人(名前は不明)

ドラマ「ミーユエ」のヒロイン、羋月(ミー・ユエ)のモデルになった人物です。

恵文后 の詳しい説明

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恵文王の王子(公子)

中国では王子を公子といいます。

公子華

歴史書によって 公子革、公子桑などいくつかの呼び名があります。書き間違いかもしれません。

母:不明

紀元前328年(秦恵王10年) 公子華と張儀は魏の蒲陽を包囲。攻略に成功しました。張儀は魏と交渉を行い同盟。公子繇を人時に送りました。

公子稷(昭襄王)が生まれるより前の紀元前328年に軍を率いているので恵文王の王子の中ではかなりの年長者になります。

公子華がその後どうなったのかは記録がありません。

ドラマ「ミーユエ」では公子稷(昭襄王)の即位後、反乱の中心人物になります。反乱が鎮圧されると羋月によって斬首されます。

公子蕩(武王)

母:恵文后(魏夫人)

生年:紀元前329年
没年:紀元前307年。

恵文王の嫡子。

妻は魏出身の武王后。

母・魏夫人(恵文后)は恵文王の正室。王太子になりました。父・恵文王の死後。秦の国王になります。国の政治は父・恵文王の方針を受け継ぎました。

力比べが好きで、孟説という力自慢と鼎(青銅製の大鍋、祭祀道具としても使われます)の持ち上げ比べを行いましたが。脛骨を折って死亡しました。武王には子がいなかったので、兄弟たちが争う諸王子の乱が起きてしまいます。

公子壮

母:不明

恵文王の庶子。公子稷(昭襄王)の異母兄。

「庶長」という爵位を与えられていました。庶長は武将に与えられる爵位で軍事的・政治的な力を持ちます。

季君ともいいます。

紀元前306年。武王の死後。弟の公子稷(昭襄王)が王位を継ぎました。
公子壮は稷の即位に不満だったので、同じような不満をもっている他の王子や大臣を集めて反乱(諸公子の乱。庶長壮の乱、李君の乱ともいいます)を起こしました。ところが宣太后の弟・魏冄に敗北。恵文后、公子雍とともに処刑されました。

公子雍

母:不明

庶子。公子稷(昭襄王)の異母兄。

紀元前306年。武王の死後、昭襄王が即位したのに不満で、兄の公子壮たちともに反乱を起こします。反乱は鎮圧され、恵文后、公子壮とともに処刑されました。

公子通(蜀侯)

名前は「通」の他、「繇通」「通國」と書いてある記録もあります。

母:不明

紀元前316年。秦恵文王は蜀を滅亡させ秦の領土にしました。その後。紀元前310年に蜀侯という地位を作り、公子通を蜀侯に任命しました。

公子通は蜀の地を治めていましたが。紀元前311年。蜀相の陳壮に反乱を起こされて殺害されてしまいます。秦武王は司馬錯を派遣して陳壮を処刑しました。

名前が「繇通」の場合、公子通と公子繇は同一人物の可能性が高くなります。繇通が紀元前328年に魏に人質に行き、戻ってきた後。紀元前310年に蜀侯になったと考えられます。

蜀侯になった王子が部下に殺害される事件はドラマ「ミーユエ」では公子奐(架空の王子です)のエピソードになってます。

公子稷(昭襄王)

母:羋八子(宣太后)

生年:紀元前325年
没年:紀元前251年

若い頃は燕国に人質に行っていました。
紀元前306年。兄・武王の死後、秦に戻り国王になりました。王しての称号は「昭襄王」ですが省略して「昭王」とよばれることもあります。

即位したばかりの頃は、実権を持たない王で。母・宣太后が大きな影響力を持ちました。武王時代からの重臣・樗里疾たちが政治を行いました。昭襄王の即位に不満な王子や大臣達が反乱を起こしたので粛清。
母・宣太后の兄弟・魏冄、華陽君が権力を持つようになります。

昭襄王の時代に秦の領土は増え、楚など周辺の大国との戦いにも勝って衰退させました。

昭襄王は秦を中原で最強の国にしました。

公子煇(蜀侯煇)

母:不明

生年:不明
没年:紀元前301年

紀元前311年。蜀侯公子通が謀反で死亡した後。蜀侯になりました。

紀元前301年。公子煇の継母は煇が献上した食べ物に毒を入れ、殺人の濡れ義務を着せました。昭襄王は司馬遷を派遣して、公子煇に剣を渡し自害させました。

恵文王の息子だとされますが。公子通の息子という説もあります。

公子芾(高陵君)

母:羋八子(宣太后)

生年:不明
没年・紀元前 266年より後

稷(昭襄王)の同母弟。稷と違って他国に人質には出されていません。
昭襄王が即位すると、叔父の魏冄や華陽君・羋戎とともに政治に参加。
高陵君の称号を与えられます。
紀元前 292年。宛の土地を与えられ「宛侯」と呼ばれました。

魏冄・華陽君と高陵君、弟の涇陽君とともに「四貴」と呼ばれ秦の権力を握りました。

紀元前266年。范雎の進言を受けた昭襄王によって叔父や弟たちとともに左遷され。以後は領地で暮らしました。

公子悝(涇陽君)

母:羋八子(宣太后)

生年:不明
没年・紀元前 266年より後

稷(昭襄王)や公子芾(高陵君)の同母弟。

紀元前306年。兄の稷(昭襄王)が国王になりました。

紀元前300年。斉の国に人質として行きました。代わりに斉から孟嘗君が秦に来ました。

紀元前292年。鄧の土地を与えられ「鄧侯」と呼ばれます。

宣太后の一族は大きな力を持ち。母の弟・魏冄や華陽君・羋戎、同母兄・高陵君ともに「四貴」と呼ばれました。

紀元前266年。范雎は宣太后と一族の力が大きすぎると昭襄王に進言。昭襄王は宣太后から政治権力を取り除くと、涇陽君も叔父や高陵君とともに左遷され。中央の政治に関わることを禁止されました。以後は領地で暮らしました。

ドラマ「ミーユエ」には公子稷(昭襄王)の同母弟としての公子芾(高陵君)や公子悝(涇陽君)は登場しません。

そのかわり、宣太后と義挙王との間に生まれた子供に涇陽君・芾の名が与えられています。

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恵文王の王女(公主)

中国では王女を公主といいます。

燕易王后

母:不明

恵文王の娘で唯一存在がわかっている人物。他にも娘がいた可能性はありますが記録に残っていません。

生没年、生母ともに不明。

紀元前334年。燕国の太子(易王)と結婚。
紀元前333年。易王が即位。王妃になりました。

その後の詳細は不明。

 

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