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南后・鄭袖:政治に介入し楚懷王の寵愛を独占した妃の生涯

春秋戦国時代 8 春秋戦国

鄭袖(てい・しゅう)は古代中国の春秋戦国時代。楚国の懐王の側室。

南后は楚国の妃です。

南后は鄭袖の称号とされることもありますし、別人とされることもあります。

鄭袖の詳しい生涯はわかっていません。でも古代中国の歴史書に何度か名前が出てきます。悪知恵が働き他の側室を陥れたり。ときには政治に口を出して国の衰退を早めてしまうこともありました。

史実の鄭袖と南后はどんな人物だったのか紹介します。

この記事のポイント

鄭袖のプロフィールと家族
楚王の寵愛を独占するための策略
政治への介入
南后との関係
楚の衰退と鄭袖の責任

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鄭袖の史実

プロフィール

姓 :鄭(てい)氏
名 :袖(しゅう)
称号:(南后?)

国:楚

生年月日:不明 紀元前4世紀頃
没年月日:不明

彼女は春秋戦国時代。楚国の懐王の側室。

日本では弥生時代になります。

家族

父:不明
母:不明夫:懐王子供:頃襄王(けいじょうおう)、息子、娘

 

鄭袖のおいたち

古い時代の人物なので詳しいことはわかっていません。

でも春秋戦国時代から漢の時代に書かれた書物には何度か鄭袖が登場します。

鄭袖の逸話を紹介しましょう。

楚王お気に入りの側室を陥れる

韓非子で紹介されている逸話

「韓非子」という書物には次のような逸話が載っています。

あるとき。楚王のもとに新しい美女がやってきました。

鄭袖(てい・しゅう)はその美女を呼び出し次のように言いました。

鄭袖「王様は口を覆って従われるのが好きだから、王様に近寄るときには口を覆わなくてはいけません」

それ以来、美女は楚王が見えるところでは口を覆うようになりました。

楚王は不思議に思って鄭袖に訪ねました。
すると鄭袖は「彼女は王様の匂いが嫌いだと言ってます」と答えました。

ある日。楚王、鄭袖、美人の三人でいるとき。鄭袖は美人にこう言いました「王様が何か言ったらすぐに従いなさい」

美人は楚王に何か言われるたびに前に進み出て口元を覆いました。すると楚王は激怒「こやつを鼻削ぎにしろ!」と部下に命令。美人は鼻削ぎの刑になりました。

出典:韓非子・内儲

 

別の説ではもう少し詳しく説明されています。

戦国策で紹介されている逸話

「戦国策」という書物には上と同じ内容でもう少し詳しく書かれています。

魏王が楚王に美人を贈りました。楚王は魏美人の美しさにとても喜びました。

鄭袖は楚王が魏美人を寵愛しているのを知ると、魏美人に贈り物をしました。魏美人が好きなだけ衣服や装飾品を与えました。楚王は鄭袖が魏美人を大切にしているのを知り鄭袖を褒め称えました。

鄭袖は楚王が嫉妬していないと思っていると知り。魏美人を呼び出してこう言いました。
「王様はとてもあなたを寵愛しています。でもあなたの鼻を嫌っています。王がみえるときは鼻を覆えばますますあなたは寵愛を受けるでしょう」

それ以来、魏美人は王が見える場所では鼻を覆うようになりました。

楚王は不思議に思って鄭袖に訪ねました。鄭袖は最初は「知りません」と言いましたが、楚王がまた聞くので「以前から王様の臭いが嫌いなのだそうです」と言いました。

楚王は怒って「あの者の鼻を削げ」と言いました。

鄭袖は前もって楚王の従者に「王様がなにか言ったらすぐに実行しなさい」と言っていました。

従者はすぐに魏美人の鼻を切り落としました。

出典:戦国策·楚策四

 

紹介した二つの話は少しずつ違います。でも元になった話は同じ。新しく来た側室を陥れて寵愛を独り占めする話です。

 

政治に介入

鄭袖(てい・しゅう)は後宮で争っていただけではありません。政治にも関わっています。

楚の大臣・靳尚は鄭袖を買収。政敵の屈原の誹謗中傷を広めて屈原を追放させました。

楚の敵・張儀を逃がしてしまう

その後。

秦の大臣・張儀(ちょう・ぎ)は楚に「秦の土地を譲るので斉との同盟を破棄して秦と同盟してほしい」と提案。

喜んだ楚王は斉との同盟を破棄。

ところが秦からは約束よりも少ない土地しかもらえませんでした。怒った楚王は秦に戦争をしかけましたが敗北します。

紀元前311年(楚懷王18年)。楚と秦は和平交渉を行いました。
このとき秦は漢中の半分の領土を楚に差し出すと提案。ところが懐王は「領土はいらん、張儀の命が欲しい」と主張しました。

張儀は楚に行きました。

秦の恵文王は楚が張儀を捕まえようとしているのを知って張儀と相談しました。

張儀「私は楚王に仕える靳尚と親しくしております。靳尚は楚王の寵姬・鄭袖に仕えております。楚王は鄭袖の言葉に逆らわないそうです。また楚は秦を憎んでいます。私が謝罪しなければ恨みは消えないでしょう。でも恵文王がいれば楚は私には手出しできないでしょう。それにもし私が命を失うことになっても秦のためになるのなら本望です」

それを聞いて恵文王は張儀を楚に派遣しました。

楚にたどり着いた張儀は投獄されてしまいます。張儀は靳尚(きん・しょう)と密かに結託。

靳尚は鄭袖に次のように言いました。

靳尚「あなたは王の寵愛を失いかけていますよ」

鄭袖「なぜじゃ?」

靳尚「王は張儀を人質にして秦の美しい王女を娶るつもりです。秦の王女が来たら王は夢中になって、あなたは寵愛を失いますよ」

鄭袖は困って靳尚にどうしたらいいか聞きました。

靳尚「王様に張儀を釈放するようにお願いするのです。張儀が釈放されれば秦から王女は来ません。秦はあなたに感謝するしょう。あなたは国内でも高い地位にあり、秦とも友好を結べます。あなたの子供は太子になるに違いありません。これは他にない大きな利益ですよ」

それを聞いた鄭袖は何度も懐王を説得。

鄭袖「秦が攻めてきたら、私は秦に殺されます。そうなる前に子供とともに南に移りたいと思います」

そう懇願する鄭袖に懐王もついに折れて張儀を釈放してしまいます。

楚は同盟国を失いました。
領土も得られれません。
張儀を処刑することもできません。

楚は大きな損害を受けることになってしまったのです。

その後の鄭袖

その後、屈原が戻ってきます。

懐王の死後。鄭袖の息子・羋横が即位。楚頃襄王になります。

楚頃襄王が即位するとまた屈原は追放されます。

鄭袖がその後どうなったのかはわかりません。

鄭袖と靳尚は懐王時代の楚の王室内で暗躍、屈原と対立していたようです。

楚が衰退したのは懐王の判断ミスが原因です。でも懐王の寵愛を集める鄭袖が調略の標的になっていたのでしょう。

歴史上。王の失敗が寵愛していた妃や側室のせいにされることはよくあります。

もしかすると、本当は懐王の判断ミスだったのに鄭袖に罪を被せてしまっているのかもしれません。

 

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南后と鄭袖は別人?

ドラマでは南后と鄭袖は同じ人物になってることが多いです。

「ミーユエ」では本名が「鄭袖」称号が「南后」の設定です。

でも南后と鄭袖は別人とも言われます。

「戦国策」という漢の時代に書かれた歴史書には「南后は鄭袖よりも高貴だ」「南后は千金、鄭袖は五百斤を与えられた」という記録もあります。

「南」とは王妃の姓で称号ではないともいわれます。

南后は懐王の正室。鄭袖は側室だったようです。

南后については詳しいことはわかっていません。

張儀が拘束されたときには鄭袖は生きていていましたが、南后はすでに他界していたともいいます。

 

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まとめ

鄭袖は中国戦国時代の楚の王、懐王の寵妃です。彼女の生涯は、愛憎、陰謀、そして権力闘争に満ち溢れていました。

鄭袖は新しい寵妃を陥れて寵愛を独占したり、政治に関わって屈原を追放させたり、張儀を逃がしたりと数々の悪事を重ねました。その結果、楚は衰退を早めてしまったと言われます。

ドラマ『ミーユエ』などでは鄭袖は悪女として描かれることが多いです。

でも歴史上の鄭袖は、単なる悪女ではなく当時の世の中で生き抜こうともがいた一人の女性だったのかもしれません。

 

ドラマの鄭袖

鄭袖

羋月 2015年、中国 演:袁志博

思美人 2017年、中国 演:劉芸

南后

羋月 2015年、中国 演:袁志博

思美人 2017年、中国 演:斕曦

 

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