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舒妃 葉赫那拉(イェヘナラ)氏(納蘭)、乾隆帝の側室の史実

舒妃 イェヘナラ氏 1.2 清の皇后妃嬪皇太后

 

舒妃(じょひ)葉赫那拉氏は清朝の第6代皇帝・乾隆帝けんりゅうていの側室。

「瓔珞<エイラク>」では 舒妃(じょひ) 納蘭淳雪(のうらん・じゅんせつ)

「如懿傳」では  舒妃 葉赫那拉 意歡(イェヘナラ・いかん)として登場します。

史実の舒妃 葉赫那拉氏 はどんな人物だったのか紹介します。

 

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舒妃 葉赫那拉氏の史実

いつの時代の人?

姓:葉赫那拉(イェヘナラ)氏
称号:舒妃(じょひ)
地位: 貴人→舒嬪→舒妃
生年月日:1728年
没年月日:1777年

彼女が生きたのは清王朝の第6代皇帝・乾隆帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

家族

父:永綬
母:關思柏
夫:乾隆帝(けんりゅうてい)子供
乾隆帝皇十子

 

葉赫那拉氏ってどんな一族?

葉赫那拉(イェヘナラ)、あるいは納蘭(ナーラン)ともいいます。

葉赫那拉(イェヘナラ)氏は清朝で大きな影響力を持った一族。満洲(現在の中国東北部)を起源とする貴族で満洲八旗のひとつ、正黄旗に属していました。

葉赫部の歴史

  • 女直(女真)の時代: 葉赫那拉氏のルーツは、葉赫(イェヘ)部という満州の部族です。明の時代にはこの葉赫部が女直(女真)と呼ばれる民族の中で有力な勢力でした。
  • ナラ同盟: イェヘ(葉赫)は周辺のハダ(哈達)、ウラ(烏拉)、ホイファ(輝發)とともに「フルン」という同盟を結びました。それぞれの部族を代表する一族は「ナラ」を名乗りました。「ナラ」はモンゴル語で「太陽」という意味。同盟の強さを表していました。
  • 清との関係: 葉赫部は後に清を建国するマンジュ国のヌルハチと争いましたが、最終的には降伏しました。その後、葉赫部は清に組み込まれ、葉赫那拉氏として新たな歴史を歩むことになります。

葉赫那拉 の名前の由来

  • 葉赫: 葉赫部という部族の名前から来ています。
  • 那拉: モンゴル語の「ナラ(太陽)」から来ています。太陽は力と権威の象徴です。
  • 納蘭: 「那拉」の漢字表記のバリエーションです。
  • 清朝ではイェヘ部の子孫は葉赫那拉、葉赫勒、あるいは納蘭氏と名乗ることが多かったようです。

葉赫那拉氏のその後

清朝では葉赫那拉氏は多くの優れた人物を輩出しました。

中でも有名なのは、慈禧太后(西太后)です。彼女は葉赫那拉氏の出身。清朝後期の政治を長らく支配しました。

 

満洲族では日常生活では姓を使うことは殆どありません。個人名だけでお互いを呼ぶのです。名前を書くときも日本人や中国人のように姓+名を書くことはありません。

ウラ同盟の中では哈達那拉氏、輝發那拉氏は衰退しました。葉赫那拉(納蘭)氏、烏拉那拉氏は名門として残りました。

名門出身

1728年(雍正6年)。葉赫那拉氏は生まれました。

父・永綬は第4代皇帝・康熙帝時代の重臣・納蘭明珠の孫です。

富察傅恒フチャふこうの妻・葉赫那拉イェヘナラ氏も親戚だといわれます。永綬の娘という説もあります。

乾隆帝の側室になる

舒妃 肖像画

舒妃 肖像画

1741年(乾隆6年)。13歳のとき八旗選秀で選ばれ宮殿に入りました。

八旗選秀とは満洲の名門氏族から皇帝の側室を選ぶ制度。

宮廷に入った葉赫那拉氏はいきなり「貴人」の位を与えられました。

別格の皇后を除けば皇貴妃・貴妃・妃・嬪に続く地位。

身分が低い側室だと嬪より下の常在や答応から始まることが多いですが、葉赫那拉氏は名家出身なので最初から高い地位についたのです。

11月。孝聖憲皇太后こうせいけんこうたいごうの命令で「舒嬪」になりました。

同じ年には、嘉嬪、海貴人、柏貴人に位が与えられています。

葉赫那拉イェヘナラ氏は彼女たちに比べると10歳以上若いです。でも入宮して1年で「嬪」の地位まで上がりました。

1743年(乾隆8年)。舒嬪の住む場所として「承乾宮」が与えられました。

1745年(乾隆10年)。高貴妃(死後、慧賢皇貴妃高佳氏と命名)が死去。葬儀場に向かうため、延禧宮の怡嬪や永壽宮の令嬪・魏氏れいぴんぎしと一緒に牛車に乗りました。

1748年(乾隆13年)。嫻貴妃輝発那拉氏が皇貴妃になり、次の皇后に決まりました。舒嬪たち4人の妃嬪も位が一つずつ上がることにになりました。

中国や朝鮮の王朝では新しい皇后が誕生すると、その徳を与えるため妃嬪たちを昇格させる慣習があります。

1749年(乾隆14年)。「舒妃じょひ」になりました。

子供たちも病に倒れる

1751年(乾隆16年)。第十皇子を出産。ところがわずか3歳で若くして亡くします。

 

後宮で最高位の側室になる

 

1767年(乾隆32年)。(数え)40歳を祝って乾隆帝から舒妃に銀四百五十両が贈られました。

1775年(乾隆40年)。皇貴妃魏氏が病気で亡くなり、舒妃が宮中で最高位の側室になりました。

舒妃は穎妃などをつれて承徳避暑山荘で静養中の皇太后 鈕祜祿ニオフル氏を見舞いました。皇太后はこの年亡くなります。86歳でした。

1777年(乾隆42年)。舒妃が病気で死去しました。享年50。
皇子や皇女たちが葬儀に出席しました。

名家の出身で10代のころから高い地位を与えられていました。しかし歴史上の記録ではめだったエピソードはなく、寵愛が深い側室とはいえなさそうです。

家柄で選ばれ気位の高い舒妃は好まれなかったのでしょうか。

 

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テレビドラマの舒妃

 

瓔珞:舒妃・納蘭 淳雪

2018、中国
役名:舒妃・納蘭・淳雪  演:李春嬡

瓔珞が女官になって早い時期に担当した妃のひとり。瓔珞を嫌っていますが、かといって大きな陰謀を働くこともない小物として描かれます。その後もとくに大きな陰謀にかかわることなく生き残ります。

 

如懿傳:舒妃・葉赫那拉 意歡

2018、中国
役名:舒妃・葉赫那拉・意歡 演:陳昊宇

皇太后に選ばれて側室になります。

舒妃は乾隆帝に夢中になりますが、乾隆帝は母に押し付けられた舒妃を好きにはなれません。舒妃との間に子供を作ろうとはせず、密かに子供ができない薬を飲ませていました。舒妃はその事実を知ってショックで自害します。

舒妃は歴史上のエピソードが少ないです。自由に役作りできるのでドラマによってまったく描かれ方が違います。

如懿傳のように乾隆帝が薬を飲ませたのは作り話。舒妃は自害もしていません。乾隆帝の心境としては如懿傳の方が史実に近いかもしれません。

 

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