PR

沈寿の史実・沈繍を築いた刺繍家の生涯と張謇の関係とは?

沈寿は、清朝末期から中華民国初期に活躍した江蘇呉県出身の刺繍家です。蘇繍の技法をもとに西洋絵画の光や影、写真に近い写実表現を取り入れた仿真繍を発展させ、のちに「沈繍」と呼ばれる刺繍の一派を築きました。

本名は沈雲芝。慈禧太后(西太后)の70歳の祝いに作品を献上した際、「寿」の字を贈られたことから沈寿と名乗るようになります。

作品を制作するだけでなく、清朝末期から民国初期にかけて刺繍教育にも携わり、晩年には自らの技法を『雪宧繍譜』として残しました。

この記事では沈寿の生い立ちから余覚との結婚、仿真繍の発展、日本視察、南通での教育活動、晩年までを紹介します。

 

スポンサーリンク

沈寿とは

プロフィール

・名前:沈寿(しん じゅ)
・本名:沈雲芝
・字:雪君
・晩年の号:雪宧
・別号:天香閣主人
・生年月日:同治13年8月13日(1874年9月23日)
・没年月日:1921年6月8日
・出身:江蘇呉県
・祖籍:浙江呉興
・民族:漢族
・職業:刺繍家
・流派:沈繍

家族

・父:沈椿
・母:宋氏
・姉:沈立
・夫:余覚
・兄弟姉妹:三男二女の五人きょうだいで、沈寿は五番目

沈寿はもともと沈雲芝といい、字を雪君としました。現在知られている「沈寿」という名前を使うようになったのは1904年以降です。

 

沈寿の出身と家族

沈寿は1874年9月23日、江蘇呉県、現在の蘇州にあたる地域で生まれました。生家は閶門海宏坊にあり、古董商を営んでいたとされています。祖籍は浙江呉興でした。

父の沈椿は浙江で塩官を務めた経験があり、文物を好んで多くの品を集めていました。沈寿も父から文字を教わり本に親しむ環境で育ったようです。

刺繍を始めたのは7歳ごろでした。姉の沈立とともに習い、8歳で《鸚鵡図》、12歳では《秋雨月上図》を制作したと伝えられています。15、16歳になるころには、刺繍の腕で地元に知られるようになっていました。

スポンサーリンク

沈寿の人生

余覚との結婚

1893年、沈寿は浙江の挙人だった余覚と結婚しました。余覚は画家や書家としても活動していた人物です。

結婚後も沈寿は刺繍を続けました。その作品は上海松江の顧繍を上回ると評され、士大夫たちが買い求めたともいわれています。1899年には夫婦で上海へ移りました。

仿真繍を作り始める

1903年ごろから、沈寿は従来の刺繍に新しい表現を加えた仿真針法を試みるようになります。

沈寿が目指したのは、刺繍糸だけで人物や物の立体感まで表すことでした。針を入れる方向や色の濃淡を細かく変え、光や影まで表現します。

その後、日本で刺繍を視察した経験も技法の発展に影響したとされています。日本では東洋の刺繍に西洋の素描や油彩画の表現を取り入れる試みが行われており、沈寿もそれらを自らの作品に応用しました。

こうして発展した仿真繍は、のちに沈寿の名を取って「沈繍」と呼ばれるようになります。

慈禧太后から「寿」の字を贈られる

1904年、慈禧太后の70歳を祝うため、余覚は沈寿が制作した《無量寿仏》や《八仙上寿図》を北京へ送りました。献上された作品数については、二幅とする記述と八幅とする説があります。

慈禧太后は作品を気に入り、「福」と「寿」の文字を夫婦へ与えたとされています。沈雲芝は「寿」を受け取り、それ以後、沈寿と名乗りました。

日本へ刺繍の視察に行く

慈禧太后への献上後、沈寿夫妻は公費で日本へ派遣されました。

帰国後、沈寿は工商部の繍工科で総教習を務め、1905年8月には蘇州で福寿繍廠を開きました。1906年に清朝が女子繍工科を設けた際にも総教習となっています。

このころから沈寿は自分で作品を制作するだけでなく、刺繍を教える仕事にも力を入れるようになりました。

南洋勧業会と海外博覧会

1909年、南京で南洋勧業会が開催されると、沈寿は審査官を務めました。

1911年には《イタリア王妃エレナ像》を完成させ、国礼としてイタリアへ贈られます。この作品はトリノ博覧会にも出品され、高い評価を受けたとされています。沈寿にはイタリア側から金時計も贈られました。

刺繍で文字を表した作品もあり曹勲の七言詩《仲春初五曰報謁》を楷書で刺繍した作品が伝えられています。

辛亥革命後に天津へ

1911年の辛亥革命で清朝が終わりをむかえると女子繍工科も廃止されました。

沈寿は1912年に天津へ移り、自立繍工伝習所を開きます。王朝が変わって官立機関で教える仕事を失っても、刺繍教育そのものをやめることはありませんでした。

張謇に招かれて南通へ

1914年、実業家の張謇は南通女紅伝習所を設立、沈寿を所長兼教習として招きました。夫の余覚も南通へ移り平民工場の経理を務めています。

伝習所には速成班、普通班、美術班、研究班がありました。日用品の刺繍から花や人物、鳥獣、高度な美術刺繍まで、生徒の習熟度に応じて教えていたとされています。

沈寿は「外師造化」を唱えました。花を刺繍するときには実際の花を刺繍台のそばに置き、生徒に観察させます。人物ではとくに目の表現を大切にしました。

 

《イエス像》が博覧会で受賞

1915年、アメリカのサンフランシスコでパナマ太平洋国際博覧会が開催されました。

沈寿はイエス受難を題材に《イエス像》を制作し、虚実針や旋針などを使って人物を表現しました。この作品は博覧会で一等大賞を受けたとされています。

ある富商から1万3000ドルで買いたいという申し出もありましたが、沈寿は売却を望まず、作品を中国へ持ち帰らせました。

かなりの金額です。それでも売らなかったところを見ると、沈寿にとって《イエス像》は商品として手放したくない作品だったのでしょう。

スポンサーリンク

夫・余覚との関係と沈寿の病気

沈寿と余覚の夫婦関係については、次第に悪化していたとされています。

余覚には遊興や女性関係をめぐる問題があり、沈寿に蘇州へ戻るよう求めることもありました。沈寿は南通に残り、刺繍教育を続けています。

そのころ沈寿の体調も悪化していました。

張謇は沈寿が身につけた技術が本人の死とともに失われることを心配し、病床の沈寿から刺繍について聞き取りました。沈寿が語り、張謇が書き残した内容は、1919年に『雪宧繍譜』としてまとめられます。

『雪宧繍譜』には沈寿が長年の制作で身につけた技法や刺繍に対する考え方が記されました。

作品なら、保存状態によっては失われる可能性があります。でも技法を文章にしておけば、本人が亡くなったあとも学ぶことができます。沈寿の刺繍が後世へ伝わった理由を考えると、『雪宧繍譜』を残した意味はかなり大きかったと思います。

沈寿の最期

1921年6月8日、沈寿は南通で亡くなりました。

1874年9月23日生まれとして満年齢で計算すると46歳です。一方、別の説では48歳とするものもあります。

沈寿は生前に墓から長江と蘇南の土地が見える場所を望んでいたとされます。張謇はその希望に従いって黄泥山南麓に沈寿を葬りました。

墓には張謇が書いた「世界美術家呉県沈女士之墓闕」の石額が掲げられ、碑には〈世界美術家呉県沈女士霊表〉が刻まれました。

張謇は沈寿の死後、〈憶惜詩〉四十八首も書いています。

沈寿の墓と《イエス像》のその後

沈寿の墓は文化大革命で破壊されましたが、1981年にもとの形を参考に修復されました。

《イエス像》は沈寿から張謇へ贈られ、南通博物苑で保管されます。日中戦争が始まると上海の銀行の貸金庫へ移され、その後は一時所在が分からなくなりました。

1970年代に発見されたとされ、1980年代末には張謇の子孫によって中国へ戻され、南京博物院へ寄贈されています。

沈寿が作った「沈繍」

沈寿は蘇繍をもとに、光や影、遠近感、人物の肌や衣服の濃淡まで刺繍糸で表現しようとしました。その代表的な技法が仿真繍です。

《イタリア王妃エレナ像》や《イエス像》を見ると、沈寿が目指していたのは従来の文様中心の刺繍とはかなり違います。絵画や写真の人物を、糸と針でどこまで再現できるのか。その方向へ刺繍を発展させていったのでしょう。

さらに沈寿は工商部繍工科、福寿繍廠、自立繍工伝習所、南通女紅伝習所で生徒を教え、晩年には『雪宧繍譜』も残しました。

 

沈寿の死後に起きたスキャンダル

沈寿が1921年に南通で亡くなったあと、夫の余覚と張謇の対立が表面化しました。沈寿は晩年には夫のいる蘇州には戻らず、張謇が設立した南通女紅伝習所で仕事を続けていました。病気になると張謇が療養を助け、死後の葬儀や埋葬にも深く関わっています。沈寿は南通に葬られ張謇は墓碑文を書き、多くの追悼詩を残しました。

こうした事情から余覚は張謇に強い不満をもちました。1926年には『余覚沈寿南通夫婦痛史』を刊行して張謇を「霸妻没財」などの言葉で非難しました。張謇が妻を自分から引き離して沈寿の財産まで奪ったと主張したのです。さらに張謇と沈寿の親密な関係を疑う内容も含まれており、この本をきっかけに二人の男女関係をめぐる噂が広まりました。

では、張謇が本当に沈寿を夫から奪って自由まで奪っていたのでしょうか。

現在確認できる記録からは、そこまではわかりません。沈寿は南通で女紅伝習所の所長として仕事を続け、病気の間にも刺繍技術を口述し、それを張謇が記録して『雪宧繍譜』として発行しています。

張謇が沈寿に特別な感情を抱っていたのかどうかはわかりません。張謇の日記や詩には沈寿への強い親愛を感じさせる部分があり、研究者の中には二人を非常に親しい「知己」と考える人もいますが、恋愛関係だったかどうは不明です。

余覚の不満は張謇の死後も続きました。

1928年には張謇の息子・張孝若を相手に訴訟を起こし沈寿が南通に残した貴重品などの返還を求めています。訴訟が起きたのは事実で、間に仲介者が入り何度も和解交渉が行われました。

このとき余覚は「張謇が自分と妻を引き離した」とか「沈寿の財産を支配していた」と主張しました。

ここから後には「張謇が沈寿を軟禁していた」や「二人は男女関係だった」といった噂話が広まってしまいます。

でも張謇と沈寿が非常に親しかったことは確かですが、後世に広まった刺激的な噂がそのまま史実というわけではないのです。

 

清の福普・夫人・女達
スポンサーリンク
この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

著者 自画像

京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

詳しい経歴や執筆方針は プロフィールをご覧ください。

運営者SNS: X(旧Twitter)

この記事が役立った方は、ぜひシェア&ブックマークをお願いします!
フミヤをフォローする
スポンサーリンク

コメント

error: