李素節(り そせつ)は、唐の皇帝・高宗李治の第四皇子です。母は高宗の妃だった蕭淑妃で、中宗や睿宗の異母兄にあたります。
李素節は幼いころから学問が得意で、高宗からもかわいがられていました。ところが、母の蕭淑妃が武后との争いに敗れて亡くなると、その後の暮らしは大きく変わります。
地方へ移され、都へ来なくてもよいと命じられ、やがて終身禁錮となりました。それでも一時は許王となりますが、690年に謀反を疑われ、洛陽の南にある龍門駅で殺されました。
李素節がどのような皇子だったのか。父の高宗や母の蕭淑妃との関係、その後の武后との関係を追いながら見ていきます。
李素節とは
プロフィール
- 名前:李素節(り そせつ)
- 生年:貞観22年(648年)
- 出生地:唐・長安の皇宮
- 没年:載初元年(690年)
- 享年:41~42歳
- 死没地:洛陽の南・龍門駅
- 王号:雍王、郇王、鄱陽王、葛王、許王
- 墓所:乾陵
家族
- 父:高宗 李治
- 母:蕭淑妃
- 異母弟:中宗
- 異母弟:睿宗
- 子:李璟、李瑛、李琪、李琬、李瓚、李瑒、李瑗、李琛、李璡、李琳、李瓘、李璆、李欽古、李㺺、李唐臣
- 長女:李令暉
李素節の出身と両親
李素節は貞観22年(648年)、唐の都・長安にある皇宮で生まれました。高宗李治の第四皇子です。
父・唐高宗 李治
李素節の父は唐の第3代皇帝・高宗李治。
李素節が生まれたときは李治はまだ皇太子でしたが、生まれてすぐの649年に父は皇帝になりました。
母・蕭淑妃
李素節の母は、高宗の妃だった蕭淑妃です。
蕭淑妃は高宗の寵愛を集めた側室でしたが、後宮に武昭儀(武則天)が張ってきてからは寵愛を失ってしまいます。
李素節の人生
幼いころから学問が得意だった
李素節は幼いころから学問に熱心でした。学士の徐斉聃から教えを受け、古い詩や賦をよく覚えたといわれます。一日に五百句あまりを暗誦できたという話もあります。
高宗はそんな李素節をかわいがっていました。
永徽2年(651年)。李素節は幼いころに雍王となり、まもなく雍州牧になりました。
その後、李素節は岐州刺史となり、郇王になりました。当時の李素節は12歳とされています。
ところが母の蕭淑妃が亡くなったあと、李素節は都から離れて暮らすことが多くなりました。
乾封元年(666年)には、高宗から「長く病気をしているので、今後は都へ来て朝見しなくてもよい」という命令が出されます。
李素節は実際には病気ではなかったとされています。父に会えなくなった李素節は『忠孝論』を書き、高宗への思いと、自分には罪がないという気持ちを文章にしました。
母・蕭淑妃が亡くなる
永徽6年(655年)、母の蕭淑妃が武后(武則天)との争いに敗れて亡くなりました。
その後、李素節は申州刺史となります。
幼いころには高宗の近くで暮らしていた李素節でしたが、このころから地方で過ごす時間が長くなっていきました。
『忠孝論』を書いて父への思いを伝えようとする
乾封元年(666年)、高宗は李素節に病気を理由に都へ朝見に来なくてもよいと命じました。
李素節は実際には病気ではなかったとされています。
李素節は武后が自分を疑っていると考えていました。そこで『忠孝論』を書いて父の高宗を思う気持ちと、自分には罪がないという気持ちを表現しました。
当時、李素節の王府で倉曹参軍を務めていた張柬之が『忠孝論』をひそかに武后へ渡しました。武后はその文章を読んで不快に思ったとされています。
その後、李素節は収賄に関わったとして罪を問われました。
この件については、収賄事件に巻き込まれたという記載と、武后が収賄を理由に李素節を陥れたという記載があります。
鄱陽王となり袁州へ移される
李素節は郇王から鄱陽王、または鄱陽郡王となり袁州へ移されました。袁州は現在の江西省宜春市袁州区にあたります。
儀鳳2年(677年)には終身禁錮となり、今度は岳州へ移されました。岳州は現在の湖南省岳陽市にあたります。
その後、李素節は岳州刺史になっています。
この時期については、678年に岳州刺史となったという説と、永隆元年(680年)に岳州刺史となったという説があります。さらに何度か任地を変えた後に葛王になりました。
葛王から許王へ
武則天が皇帝に代わって政治を行うようになると、李素節は許王となり舒州刺史を務めました。
李素節はそれまで申州、袁州、岳州など各地を移っていました。それでも唐の皇族として王号を持ち地方の刺史も務めていたことがわかります。ところが李素節の暮らしが落ち着くことはありませんでした。
李素節に謀反の疑いがかけられる
689年ごろ、武則天のもとで唐の皇族たちが次々と殺されたり、罪を問われたりしていました。
その中で李素節にも謀反の疑いがかけられます。
魏王の武承嗣が酷吏の周興に命令して沢王李上金と許王李素節が謀反を企てていると訴えさせたとされています。
李上金は李素節の異母兄でした。
李上金と李素節には都へ来るよう命令が出されました。
龍門駅で殺される
載初元年(690年)。李素節は洛陽の南にある龍門駅で縊り殺されました。41~42歳だったとされています。
死後は皇族としての葬儀をしてもらえず、庶人と同じ形で葬られました。
李素節の息子たちも殺される
李素節だけでなく、息子たちも厳しい追求を受けました。
年長の息子9人、李璟・李瑛・李琪・李琬・李瓚・李瑒・李瑗・李琛・李璡は、舒州で殺されました。
一方、まだ幼かった李琳・李瓘・李璆・李欽古の4人は殺されず、雷州へ送られて幽閉されました。
このほか、李素節には李㺺と李唐臣という息子もいたとされています。
長女・李令暉
李素節の長女・李令暉は襄城県主りなり、通議大夫・行殿中尚舎直長だった柳彦と結婚しました。
中宗が皇帝に戻ると李素節の名誉も回復
神龍元年(705年)、中宗が再び皇帝になると、李素節の扱いも変わりました。
李素節は生前の許王の地位を戻され、開府儀同三司・許州刺史の官位も死後に与えられました。
墓も改めて整えられ、乾陵に葬り直されました。乾陵は高宗と武則天が葬られた陵墓です。
李瓘が許王を継ぐ
息子の李瓘は許王を継ぎ、実封400戸を受けました。李琳は唐玄宗の開元年間に越王となり、越王李貞の跡を継ぎました。李璆は沢王となり、伯父の沢王李上金の跡を継いでいます。
雷州へ送られた幼い息子たちの中には、その後、再び唐の皇族として王の地位を受けた者がいたのです。
李素節はどんな人物だった?
李素節は幼いころから学問が得意で、父の高宗にもかわいがられていました。
母の蕭淑妃が亡くなったあとは都から遠ざけられ、666年には高宗への思いを書いた『忠孝論』を作っています。
その後は袁州や岳州へ移され、終身禁錮となりました。それでも葛王、許王となり、地方の刺史を務めています。
690年には異母兄の李上金とともに謀反を疑われ、洛陽の南にある龍門駅で殺されました。息子たちも多くが殺され、幼い子どもたちは雷州へ送られています。
その後、中宗が皇帝に戻ると李素節は許王の地位を戻され、乾陵に葬り直されました。
私は、李素節が父に会えない中で『忠孝論』を書いたという話が印象に残ります。幼いころには高宗からかわいがられていたことを考えると、父に自分の気持ちを伝えたかったのでしょうね。
関連記事

コメント