魏王 李泰(り・たい):太宗 李世民に溺愛され皇太子の座を狙った皇子の史実

魏王 李泰 5.1 隋唐の皇帝・皇子
記事内に広告が含まれています。

魏王 李泰(り・たい)は唐の皇子。

2代皇帝 太宗 李世民の息子です。

有能で父の李世民からも溺愛されていました。兄で皇太子の李承乾が父からあまり好かれたなかったこともあり。

李泰は野心をもって皇太子になろうとしました。それに危機感をもった李承乾は挙兵して失敗しますが。

結局、李泰も皇太子には慣れませんでした。

史実の魏王 李泰はどんな人物だったのか紹介します。

 

スポンサーリンク

魏王 李泰の史実

どんな人?

姓 :李(り)
名称:泰(たい)
字:恵褒

国:唐
称号:宜都王→衛王→越王→魏王→順陽郡王→濮王

生年月日:620年
没年月日:653年1月20日
享年:34

彼は唐の第2代皇帝・太宗 李世民の息子。

日本では飛鳥時代になります。

 

家族

父:太宗
母:長孫皇后
妻:閻婉(工部尚書 閻立徳の娘)
子供:李欣、李徽

 

スポンサーリンク

唐 高祖の時代

武徳3年(620年)に生まれました。

祖父は唐の初代皇帝 李淵。

父の李世民は当時は秦王でした。

李泰は李世民の四男。
長孫氏にとっては次男です。

生まれてすぐに「宜都王」になりました。

621年には若くして亡くなった叔父の李玄霸のあとを継いで「魏王」になりました。

626年。父の李世民が皇帝(太宗)に母・長孫氏が皇后になりました。

スポンサーリンク

唐太宗 李世民の時代

貞観2年(628年)。「越王」の称号が与えられ、揚州大都督に任命されました。

631年。左武候大都督を兼任。

633年。鄜州大都督になりました。

634年。雍州牧兼 左武候大将軍に任命されました。

636年。再び「魏王」になって領相州都督に任命されました。

貞観12年(638年)。「括地誌」の編纂を願い出ました。4年かけて550巻からなる本を完成させました。唐の山・景勝地・河川・風土・民俗・古跡・人物などを調査した本です。

李世民と李泰:父子の深いつながりと悲劇

太宗 李世民は 李泰を大変可愛がっていました。李泰は聡明で学識豊かであり、太宗は彼を我が子のように愛ししばしば一緒に遊びに出かけました。

李泰は少し肥満気味でしたが太宗はそんな息子を気遣い、宮中へ行く際には特別な椅子付きの輿に乗せることを許可しました。これは皇子としては前代未聞のことでした。

太宗は洛陽の区画を整備して李泰に広大な土地を与えました。李泰はそこに大きな池を作り洛河から水を引きました。この池と堤防は「魏王池」と「魏王堤」として知られ、洛陽の名所となりました。

李泰の長男 李欣も太宗に可愛がられ宮中で育てられました。聡明な李欣は皇后の長孫氏からも寵愛を受けました。李欣は叔父にあたる李治(後の高宗)と年齢が近く、一緒に暮らし親しくなりました。

太宗は李泰に「忠孝」の教えを施すために、礼部尚書の王珪を派遣しました。李泰は熱心に勉強し、王珪を師として儒教を学びました。太宗は李泰の熱心さを喜び、「我が息子は決して過ちを犯すことはないだろう」とまで言いました。

しかし、太宗の過剰な愛情は、李泰に野心を抱かせてしまいまうのです。

 

兄の李承乾と険悪になる

李泰には同母兄の李承乾(り・しょうけん)がいました。李承乾は皇太子になっていましたが、脚が不自由でした。さらに外国の文化が大好きで同性愛者でした。

そのため太宗・李世民からの評判はよくありません。結局、李承乾は父親の信頼を失ってしまいます。

その一方で、李泰は父から非常に愛されていたので自分が皇太子になろうと考えました。

太宗・李世民が李泰を大事にするものですから、臣下たちも「次は李泰だ」と思って李泰に群がります。李泰は柴令武や房遺愛、韋挺、杜楚客たちを腹心にしていました。

李泰と李承乾にはそれぞれ支持する臣下たちがいて派閥を作って争っていました。

李承乾の反乱とその失敗

貞観17年(643年)、皇太子の李承乾は自分の地位が危ういと感じ反乱を決意しました。

李承乾は叔父の漢王・李元昌や兵部尚書の侯君集といった有力な人物と手を組み、まず李泰を暗殺しようと試みました。 しかしこの計画は失敗に終わります。

次に宮殿を占拠し武力で皇位を奪取しようと試みました。 この試みも失敗に終わり李承乾の反乱は鎮圧されました。

反乱の失敗により李承乾は皇太子の地位を剥奪され、厳しい処罰を受けることになります。

 

李世民の皇太子選びと李泰の失脚

李承乾の反乱後、唐の太宗・李世民は、次期皇帝の座に誰を据えるかという難しい決断を迫られました。

当初、李世民は寵愛していた魏王・李泰を皇太子にしようと考えていました。

李泰は自分が皇位についたら

「自分の死後、自分の息子を殺させ。普王・李治に継がせる」

と約束しました。この言葉に李世民は感動します。

でも側近の褚遂良はこれは不自然だと指摘。さらに

「魏王を過剰に優遇したから李承乾の反乱が起きたのです。魏王を擁立したいなら先に普王を始末すべきです」

と主張しました。

長孫無忌らも普王・李治を皇太子にすべきだと進言しました。

李泰は漢王・李元昌と親しかった晋王・李治を脅迫。

李治はそのことを唐太宗・李世民に伝えました。

また廃太子・李承乾も「私が挙兵したのは李泰が太子になろうとしたからです」と告白。

最終的に李世民は李泰を皇太子にするのをやめ、李治を皇太子に任命することを決断しました。 

この決定を知らない李泰はいつものように父に会いに行き、捕らえられて北苑に幽閉されました。

唐太宗・李世民は勅書を出し李泰が太子の座を奪おうとした罪で「東萊郡王」に降格。李泰の側近たちを罷免しました。

このとき唐太宗・李世民は

「李泰が皇帝に慣れば李承乾と李治は殺される。だが李治が皇帝に慣れば李承乾と李泰は生き延びられる」

と言いいました。

貞観31年(647年)。李泰は「濮王」になりました。

唐 高宗の時代

649年。唐太宗・李世民が死去。唐高宗・李治が即位しました。

李泰は衣食住の面で優遇され「王府」を設置することも許可されました。

永徽4年(652年)。李泰は死去。

まとめ:李泰(魏王)の生涯

李泰は唐の太宗・李世民の四男として生まれ、幼少期から父に溺愛されました。

聡明で学識豊かだったため将来を期待されて、李世民からも優遇されていました。しかし兄の皇太子・李承乾との間で皇位継承を巡る争いが起こります。

太子の李承乾が反乱未遂の罪に問われ太子の座を奪われると、李世民は李泰を太子にしようとしましたが。周囲の反対もあり、李治が皇太子に決まりました。

李泰は太子の座を奪おうとした罪で幽閉され、その後も地位を剥奪され寂しい晩年を送ったのでした。

 

テレビドラマ

武則天  2015年、中国  演:任山
大唐見聞録 2018年、中国 演:朱贊錦
大唐流流 2021年、中国 演:劉恩尚 役名:韓王

 

コメント

error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました