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ソルコクタニ ベキ:トルイの正妃の生涯と最後

ソルコクタニ・ベキは、モンゴル帝国 の有力者トルイの正妃。元朝の皇帝クビライの母です。他にもモンケ、フレグ、アリクブケといった有力な息子を育てました。

ケレイト部族の王族に生まれ、一族の敗北や夫トルイの急死を経験しながら、トルイ家の所領と子どもたちの将来を守り、子を皇帝の座につけました。

この記事ではソルコクタニ・ベキについて紹介します。

この記事で分かること

  • ソルコクタニ・ベキのプロフィールと家族構成
  • ケレイト部族出身の彼女がトルイ家に入った背景
  • 夫トルイの死後に所領や家政を支えた歩み
  • モンケ擁立やクビライら息子たちに与えた影響

 

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ソルコクタニ・ベキのプロフィールと家族構成

プロフィール

名前:ソルコクタニ・ベキ
生年:1199年ごろ
没年:1252年3月1日
出身:ケレイト
信仰:ネストリウス派キリスト教
追諡:荘聖皇后

家族構成

父:ジャカ・ガンボ
母:ワサイ
叔父:オン・カン(トグリル)
夫:トルイ(チンギス・カンの四男)
子:モンケ(第4代カアン)、クビライ(元朝の創始者)、フレグ(イルハン朝の創始者)、アリクブケ

 

ケレイト部族の王族として生まれて

ソルコクタニ・ベキは、モンゴル高原の有力な集団であったケレイト部族に生まれました。父親のジャカ・ガンボは、ケレイトのカンだったオン・カン(トグリル)の弟にあたります。母親はワサイという女性だったようです。

もともと叔父のオン・カンはのちにチンギス・カンとなるテムジンよりも強い立場にありました。『元朝秘史』によると、テムジンは自分の長男ジョチとオン・カン側の娘との結婚を提案したことがあります。これはお互いの結びつきを強めるための交渉でした。

ところが、オン・カンはこの結婚話を断り、その後はテムジンを討とうとしました。テムジンはその動きを知って危機を逃れ、その後の戦いでケレイト部族を破りました。この戦いでオン・カンは命を落とします。

一方、父親のジャカ・ガンボは、兄のオン・カンとは距離を置いていたようです。ジャカ・ガンボはテムジンに近い立場を取り、自分の娘たちをチンギス・カンの一族へ嫁がせました。

その結果、ソルコクタニ・ベキの姉の一人はチンギス・カンの妃となり、もう一人の姉妹はジョチに嫁いだと言われています。そして、ソルコクタニ・ベキ自身はチンギス・カンの四男トルイに嫁ぐことになりました。

その後、1204年以降にケレイトがチンギス・カンに反乱を起こした時期に、父親のジャカ・ガンボはジュルチェデイによって殺されたとされています。

ソルコクタニ・ベキは、一族の敗北と父親の死を経てチンギス・カン家の一員として生きていくことになりました。

 

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チンギス・ハンの4男トルイの正妃になる

ソルコクタニ・ベキは若いころにトルイの妻となりました。夫のトルイはチンギス・カンの末子。父親の死後は東モンゴルやイラン方面の一部、華北方面に関わる大きな所領を受け継いだ人物です。

『集史』のトルイ・ハン紀には、ソルコクタニ・ベキがトルイの妻たちの中で最上位で、もっとも愛された女性だったと書かれています。

ソルコクタニ・ベキは夫のトルイとの間に少なくとも4人の男の子を授かりました。

  1. 長男 モンケ:のちにモンゴル帝国の第4代カアンになります。
  2. 次男 クビライ:第5代カアンとなり、元朝を開きました。
  3. 三男 フレグ:西アジアへと遠征してイルハン朝の始まりに関わります。
  4. 四男 アリクブケ:クビライとカアンの位をめぐって争いました。

このように、彼女が生んだ4人の息子たちはそれぞれ帝国の東と西で大きな役割を担うことになりました。

 

子どもたちの教育と宗教に対する柔軟な姿勢

ソルコクタニ・ベキ自身は文字を読むことができなかったとされています。

しかし、彼女は広大な帝国を治めるためには文字や言語が大切だと理解していたようです。そこで彼女は息子たちにそれぞれ異なる地域の言葉を学ばせました。モンゴル帝国は、高原の中だけで完結する国ではなく、中国、中央アジア、イラン、ルーシ方面にまで広がる国です。それぞれの地域の言葉や人々の考え方を知ることが、実際の支配の現場で役に立つと考えたのかもしれません。

ソルコクタニ・ベキは、故郷のケレイトに信者が多かったネストリウス派キリスト教を信仰していました。その一方で、彼女は他の宗教にも配慮を見せました。たとえば、ブハラの街にイスラム教の学校(マドラサ)を建てたり、キリスト教徒だけでなくムスリム(イスラム教徒)の人々にも施しを行ったりしたという記録が残っています。

彼女の息子たちも、チンギス・カンの方針を受け継ぎ、宗教に寛容な態度を取り続けました。当時のモンゴル帝国では、すべての人の宗教を一つにまとめるよりも、さまざまな宗教を抱えたまま支配する方法が用いられていました。ソルコクタニ・ベキの行動も、そのような帝国の統治方針と合っていたようです。

 

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トルイの死後

家を守るソルコクタニ・ベキ

1232年(太宗4年)、夫のトルイが41歳で亡くなってしまいました。ソルコクタニ・ベキは、長男のモンケにトルイ家を継がせ、自らは息子たちを支える立場に就きます。

当時のモンゴルの社会では、女性が家庭内で大きな権限を持つことがありました。男性たちが遠征で長い間留守にすることが多かったため、家の財産や人々をまとめる役目を女性が担う場面もあったのです。ソルコクタニ・ベキも、夫の死後にトルイ家の所領と家政を保つ役割を負いました。

第2代カアンとなったオゴデイは、トルイの死後も彼女を高く扱ったとされています。『元朝秘史』によると、オゴデイはさまざまな事柄についてソルコクタニ・ベキに相談を持ちかけていたようです。オゴデイは彼女に帝国の行政に関わる役割を与え、彼女もまたチンギス・カンが得た土地を保つうえで大きな働きをしたと言われています。

その後、オゴデイはソルコクタニ・ベキに再婚を求めました。当時のモンゴルには夫を亡くした女性が夫の一族内で再婚する習わしがありました。オゴデイはまず自分との婚姻を望み、それがだめだとわかると自分の息子のグユクとの結婚も求めたとされています。

しかしソルコクタニ・ベキはこの提案を受けませんでした。彼女は4人の息子たちを育てることに専念したいと答えたとされています。この決断によって彼女はトルイ家の母としての立場を保ち続けました。

1236年(太宗8年)には、ソルコクタニ・ベキが河北の一部を自分の所領として求めたという出来事があります。オゴデイは最初ためらいましたが、彼女はその土地がもともと夫のトルイの征服によって得られたものだと主張しました。最終的にオゴデイは彼女の要求を認めることになります。

ただし、オゴデイはトルイ家の一部の土地を自分の所領に組み込んだり、彼女の兵の多くを取り上げたりしたとも言われています。

夫を失った後、彼女は息子たちの将来を守るために、オゴデイ家との関係の中で慎重に動いていたようです。

 

オゴデイの死とグユク即位をめぐる緊張

1241年(太宗13年)、第2代カアンのオゴデイが亡くなりました。その後はオゴデイの妻 ドレゲネが摂政として政務を取り仕切りました。ドレゲネは自分の息子のグユクをカアンにしようとします。そして1246年(定宗元年)、グユクが第3代カアンとして即位することになりました。

グユクは即位すると母 ドレゲネの権力を抑えようとしました。それと同時に、グユクはソルコクタニ・ベキや、チンギス・カンの娘であるアラカイ・ベキ、チャガタイ家で摂政のような立場にいたエブスンらの力を弱めようとしたのです。

この時期、トルイ家にとって状況は厳しくなりました。オゴデイ家のグユクが皇帝になったことでトルイ家の立場が抑えられる可能性があったからです。

そこでソルコクタニ・ベキは、ジョチ家の有力者バトゥと密かに連携するようになりました。バトゥはジョチ家の当主でカスピ海北方からブルガール方面に広い勢力を持っていた、帝国の西方で大きな発言力を持つ人物です。

 

グユクの急死をめぐる謎

1248年(定宗3年)グユクはビシュバリク方面へと向かう途中で突然亡くなりました。この死については、当時から不審な点があると見る人もいたようです。

ひとつの説として、ソルコクタニ・ベキがグユクの動きを警戒、その情報をバトゥに知らせ、その知らせを受けたバトゥがグユクを暗殺したという説もあります。

ただし、当時の記録を見てもグユクの死が暗殺だと判断せきる内容はありません。確かにグユクは急死しました。そして、その後の皇位継承ではバトゥとソルコクタニ・ベキがモンケ擁立を進めました。

一方で、ソルコクタニ・ベキがグユクの死に直接関わったかどうかは、推測の範囲にとどまっています。

 

モンケを即位させる

グユクの死後、ソルコクタニ・ベキは長男のモンケをバトゥのもとへと送りました。バトゥとソルコクタニ・ベキの二人は、次のカアンとしてモンケを推します。モンケは、かつてバトゥとともにヨーロッパ遠征に参加した経験があり、バトゥにとっても支持しやすい人物だったようです。

バトゥはまず自分の本拠地に近いシベリア方面でクリルタイ(部族長会議)を開き、モンケを大カアンに選びました。しかし、この会議はモンゴル本土で開かれたものではなかったためオゴデイ家などからの反対もありました。

その後、ソルコクタニ・ベキはチンギス・カンゆかりのモンゴル本土で改めてクリルタイを開きました。この会議にバトゥ自身は出席しませんでしたが、弟のベルケが参加しました。こうしてモンケは正式に大カアンとして認められます。

1251年(憲宗元年)、モンケは第4代カアンとなりました。これによってカアンの位はオゴデイ家からトルイ家へ移りました。オゴデイ家やグユク家はモンケの即位に反発しましたが、反対派は抑え込まれグユクの未亡人オグルガイミシュやオゴデイ家の多くの人々が処罰されました。

 

ソルコクタニ・ベキの最期

1252年。モンケが即位してまもなく、ソルコクタニ・ベキは病に倒れました。

彼女はモンゴル暦の新年にあたるツァガーンサルのころ、1252年3月1日に亡くなったとされています。

ちょうどこのころ、息子のモンケ、クビライ、フレグらは新たな遠征へ進み始めていました。

彼女はネストリウス派キリスト教徒だったため、死後は甘州の教会に安置されました。

1266年。5代カアン クビライは母親に「荘聖皇后」という諡号を贈りました。1310年には彼女を皇后として扱う儀礼が行われ、1335年には甘州のキリスト教会に祀られ、供犠を捧げることが命じられました。

さらに1480年ごろには、チャハルのもとに置かれたオルド(宮廷)で彼女をしのぶ祭祀が行われていたとされます。このオルドは、17世紀に現在の内モンゴル自治区オルドス市方面へ移ったといわれています。

ソルコクタニ・ベキは元朝や後のモンゴル社会の中で、トルイ家の母として長く記憶されました。

 

多くの文化圏から寄せられた高い評価

ソルコクタニ・ベキについてはモンゴル側だけでなく、ムスリム、キリスト教徒、中国側の書き手も高く評価しました。

シリアの学者バル・ヘブラエウスは「女性の中にこのような人物がもう一人いるなら、女性は男性より優れていると言いたくなる」という趣旨の言葉を残しました。

またローマ教皇の使節プラノ・カルピニは、モンゴルの女性の中でグユクの母ドレゲネに次いで名高い女性としてソルコクタニ・ベキを挙げました。当時のヨーロッパにも彼女の名は知られていたようです。

ペルシアの歴史家ラシードゥッディーンは彼女の知恵と能力によって息子たちが従兄弟たちより高い立場に進んだと見ました。トルイ家にカアンの位が移ったことについて、ソルコクタニ・ベキの判断力とバトゥの助力があったと書いています。

歴史家ジュヴァイニーも、ソルコクタニ・ベキの政治判断、息子たちの教育、家政の運営を高く評価しました。オゴデイが大きな事柄を行うとき、彼女に相談したとも書いています。

これらの評価には、書き手の立場や時代の見方も入っています。それでも、複数の地域の人々が、ソルコクタニ・ベキをトルイ家の政治的な支えとして見ていたことは伝わってきます。

 

ヨーロッパに広がった「プレスター・ジョン伝説」とのつながり

ソルコクタニ・ベキの叔父オン・カンはヨーロッパで語られた「プレスター・ジョン」伝説と結びつけられることがありました。

プレスター・ジョン
ヨーロッパの人々が信じた伝説上の人物。東方にいると信じられたキリスト教徒の伝説の王。東からやってきて異教徒を倒すと信じられていました。

オン・カンはケレイトの有力者でケレイトにはキリスト教徒が多くいました。そのため、ヨーロッパの人々は、遠い東方のキリスト教君主の話とオン・カンを重ねて見たのでしょう。

モンゴル側もヨーロッパとの外交で、この伝説を利用することがありました。ソルコクタニ・ベキや、のちにフレグの妻となるドクズ・ハトゥンのようなモンゴルの王族女性をプレスター・ジョンの娘や孫とするような説明が行われたとされます。

モンゴルはヨーロッパの伝説をうまく利用する形で交渉を有利に進めようとしたのですね。

 

まとめ:史実と説を切り分けて見てみると

ソルコクタニ・ベキは事実や伝説も含めて様々な話がつきまといます。

史実として言えることは、彼女がケレイト部族の王族に生まれ、トルイの正妃となり、モンケ、クビライ、フレグ、アリクブケという4人の息子を生んだことです。夫の死後はオゴデイ家からの圧力の中でトルイ家の財産と息子たちの立場を守り抜いたことも事実です。

その一方で、第3代大カアンのグユクが急死した事件をめぐって「彼女が裏でバトゥに密告してバトゥがグユクを暗殺した」という話は、後世の人が書いた説のひとつですが、それが事実かどうかはわかりません。

さらに彼女の息子たちが偉大な皇帝になったことやキリスト教、イスラム教に寛容だったこともあり、後世の記録は彼女を「完璧な賢母」や「宗教に寛容な聖女」として描きがちです。

でも彼女の功績をそうした言葉だけで片付けてしまうと、彼女が実際に行った具体的な努力が見えなくなってしまうと私は思います。

彼女は自分の家を守るためにオゴデイからの再婚話を断り、夫の形見である河北の領地を渡すようカアンを相手に堂々と主張しました。帝国の実力者バトゥと手を結び、息子をトップに就けることに成功しました。

そして自分がキリスト教徒なのに領民のためにイスラム教の学校を建てるという柔軟な政治を行いました。

こうした行動を見ていくと、ソルコクタニ・ベキは様々な場面で、その都度自分の頭で判断を重ねて生き抜いた人物だったのだなと感じられます。

 

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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

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京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

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