ドレゲネ・ハトゥンはモンゴル帝国2代皇帝 オゴタイ・カアンの第6夫人です。オゴタイの死後に皇帝の座が空席となった時期に監国として国を動かし、自分の子供を次の皇帝にしました。
ドレゲネがどのような出身で、どのような経緯でオゴタイの夫人となり、監国として政治を行ってグユクを即位させたのか。そしてどのような最後だったのか紹介します。
この記事で分かること
- ドレゲネの出身や家族構成、オゴタイの夫人となるまでの流れ
- オゴタイ死後に監国となり、実権を握った背景
- グユク即位をめぐる政治工作とバトゥら王族との対立
- ファーティマ・ハトゥン重用とドレゲネ最期の経緯
ドレゲネはどんな人?
プロフィール・家族構成
- 名前:ドレゲネ
- 地位:モンゴル帝国のハトゥン、監国
- 夫:オゴタイ・カアン
- 立場:オゴタイの第6夫人、グユクの生母
- 監国期間:1242年ごろ〜1246年
- 没年:1246年
- 諡号:昭慈皇后
- 出身:ナイマン部(クチュウト・ナイマン族とみられます)
家族
- 父:クト・ブカ・テギンと推定されます
- 母:不明
- 最初の夫:ダイル・ウスン
- 子供:グユク、コデン、コタン、コチュ、カラチャル、カシの6人
- 孫:カイドゥ(カシの子)
ドレゲネの生涯年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 生年不明 | ドレゲネがナイマン部で誕生。 |
| 時期不明 | ウハズ・メルキト部族長ダイル・ウスンの妃になる。 |
| 1204年 | チンギス・カンがメルキトを討伐。ドレゲネは捕らえられ、オゴタイの夫人になる。 |
| 1206年 | グユク出産。その後、コデン、コタン、コチュ、カラチャルも出産。 |
| 1236年11月 | オゴタイが後継者に考えていたクチュが南宋遠征中に徳安府の戦線で陣没。クチュの子シレムンが後継候補として浮上。 |
| 1241年12月 | オゴタイ・カアンが死去。後継者問題が本格化しました。 |
| 1242年ごろ | ドレゲネが監国となる。オゴタイ旧臣を遠ざけ、ファーティマ・ハトゥンやアブドゥッラフマーンを重用。 |
| 1242年ごろ | チンギス・カンの末弟テムゲ・オッチギンが帝位を狙うが、ドレゲネは叛乱だとして牽制。 |
| 1242年〜1246年 | バトゥがクリルタイ召集に応じず、カアン位は空位のまま続く。 |
| 1243年 | キョセ・ダーの戦いでバイジュ率いるモンゴル軍がルーム・セルジューク朝軍を破る。ドレゲネ監国期に、モンゴル帝国の西方支配が拡大。 |
| 1244年〜1246年 | バイジュの軍がアッバース朝カリフの勢力やアイユーブ朝支配下のシリア方面へ圧力をかける。 |
| 1246年6月 | クリルタイ招集。 |
| 1246年8月 | 長男グユクが第3代皇帝カアンに即位。 |
| 1246年10月 | ドレゲネが死去。 |
| 1265年〜1266年 | フビライによってドレゲネに「昭慈皇后」の諡号が贈られる。 |
ドレゲネの出自と両親
ドレゲネはもともとナイマン部の出身でした。
12世紀から13世紀初めにかけてモンゴル高原西部で勢力を持っていた遊牧部族です。チンギス・カンのモンゴル部族とは別の集団です。ナイマン部は有力な勢力でしたがチンギス・カンとの戦いに敗れ、モンゴル帝国に組み込まれていきます。そのため出身部族としてはナイマンでも、後にはモンゴル帝国の中で活動する人々が現れました。
ドレゲネの父はクト・ブカ・テギンといわれます。
クト・ブカ・テギンの詳しい素性は伝わっていませんが「テギン」は王族や有力者の称号として使われました。そのためナイマン部の中でも有力な家系の人物だったと考えられます。
ドレゲネの母は不明。
最初の夫ダイル・ウスンとの別れ
歴史書『集史』によれば、ドレゲネはウハズ・メルキト部の部族長であったダイル・ウスンと結婚したといいます。ダイル・ウスンは、チンギス・カンの第二皇后クラン・ハトゥンの父でもあります。そうなるとかなりの歳の差婚と言えそうですが、遊牧民社会の王族では珍しくありません。
1204年、チンギス・カンがメルキト部を討伐した際、ドレゲネは捕らえられました。その後、ドレゲネはオゴタイの夫人となりました。
ただし、一部の資料では彼女の最初の夫はメルキト部のトクトア・ベキの子であるクドゥともいわれます。
いずれにしてもメルキト部の有力者と結婚したわけです。
12世紀のモンゴル高原で大きな力を持っていた遊牧部族。セレンゲ川やオルホン川下流の地域に住み、チンギス・カンが草原を統一する前から独自の勢力を保っていました。もとはモンゴル部族とは別の勢力ですが、モンゴル帝国の一員になりました。
オゴタイの第6夫人となる
当時のオゴタイには複数の后妃がいました。第一皇后はコンギラト部族の出身であるボラクチン・ハトゥンです。このボラクチン・ハトゥンは、オゴタイの三男であるクチュの母です。
ドレゲネはオゴタイ・カアンの第6夫人となりました。
ドレゲネはグユクを出産。他にもグユク、コデン、コタン、コチュ、カラチャル、カシという6人の息子が誕生したと言われます。このうちカシの子が後にオゴタイ家の有力者となるカイドゥです。
ドレゲネは第6夫人でしたので本来は筆頭皇后であるボラクチン・ハトゥンに比べて地位が低かったようです。
ところがオゴタイの死の前後にボラクチン・ハトゥンをはじめとする有力な皇后が相次いで亡くなりました。
そのためオゴタイの皇后の中で年長の立場にあったドレゲネがオゴタイ没後の政権を主導することにになりました。
オゴタイの後継者問題
夫のオゴタイ・カアンは第一皇后の子 クチュを後継者に指名していました。ところが、クチュは1236年11月、南宋遠征中に徳安府の戦線で死亡してしまいます。
そのためオゴタイはクチュの長男シレムンを後継者にしようと考えました。またオゴタイはトルイ家の当主で自分の甥にあたるモンケも候補として考えていたらしいとされています。
少なくともオゴタイがグユクを後継者にしようとしていた様子はありません。
もちろんドレゲネは実の子のグユクをカアンにしたいと考えました。
オゴタイの死とドレゲネの「監国」就任
1241年12月、オゴタイは過度の酒色がたたって死去しました。
カアンの座が空席になったので本来なら、クリルタイという親族会議を開いて次のカアンを決める必要があります。
しかし、当時の帝国にはオゴタイ家、チャガタイ家、トルイ家、ジョチ家など、チンギス・カンの子孫たちの勢力がそれぞれ存在していました。
その中でドレゲネは「監国」となり帝国の実権を握りました。
ドレゲネは第6皇后でグユクの母ですが最初から大きな支援勢力を持っていたわけではなかったようです。トルイ家やジョチ家はもちろん、身内のオゴタイ家内部でさえ彼女を強く支える勢力は多くなかったと考えられています。
そのためドレゲネの政治は強引なものになりました。ドレゲネの置かれた立場を考えると、支持基盤の弱さを補うために、都合のいい人事を行い財政を握り、後継者選びを自分の望むように進めようとしたのかもしれません。
テムゲ・オッチギンの動きを阻む
オゴタイが死去した直後、チンギス・カンの末弟 テムゲ・オッチギンが大軍を率いてカラコルムへ上京してきました。
テムゲ・オッチギンは帝位を狙うそぶりを見せたとされます。ドレゲネはこの動きを反乱だとして激しく非難しました。
ほどなくして、グユクが西方からオゴタイ家の領地があったイミル湖畔へ到着したという知らせが届きました。するとテムゲ・オッチギンは態度を変えて「自分はオゴタイの弔問に訪れたのだ」と弁明しました。
こうしてドレゲネは他勢力によるカラコルム占領を避けることができました。
オゴタイ時代の旧臣を遠ざける
ドレゲネは監国になるとオゴタイ時代の功臣たちを政治の中心から遠ざけました。
彼女の政策には新しく側近になった女性ファーティマ・ハトゥンの助言があったとされています。宮廷から遠ざけられた人物には耶律楚材、チンカイ、ヤラワチらがいました。
耶律楚材はオゴタイに仕えた契丹系の官僚で、チンカイはオゴタイの筆頭書記。ヤラワチも帝国行政に関わった人物でした。彼らはオゴタイ時代の政務を支えた人々です。
先代からいた重臣を排除してドレゲネはイスラム商人出身のアブドゥッラフマーンを高い地位に取り立てました。アブドゥッラフマーンは、オゴタイの治世晩年に中国地域の歳入監査で頭角を表した人物です。ドレゲネは帝国の財政運営を彼に任せました。
かつての重臣だった耶律楚材は、アブドゥッラフマーンの登用を批判しました。オゴタイ時代の政策をよく知る耶律楚材から見ると、ドレゲネの人事と財政方針は受け入れがたいものだったのでしょう。
側近ファーティマ・ハトゥンの重用
ドレゲネの側近として大きな力を持ったのがファーティマ・ハトゥンです。
ファーティマ・ハトゥンは中央アジア遠征の際に捕らえられたタジク系、またはペルシア系の女性とされています。シーア派のムスリムで聖地マシュハドからモンゴルへ移された人物でした。
ドレゲネはこのファーティマ・ハトゥンを側近として重用しました。宮廷ではファーティマ・ハトゥンが強い影響力を持つようになります。
女性の側近が政治の場で大きな存在になると、旧臣や王族たちの間には不満がたまりやすくなります。さらにドレゲネの監国時代には、人事、財政、後継者問題が重なって宮廷内の対立が深まっていきました。
ファーティマハトゥンについては以下の記事で詳しく紹介しています。
シタラのモデル? ファーティマ・ハトゥンはどんな人?『天幕のジャードゥーガル』
シレムンを後継候補から外すための工作
オゴタイが後継者に考えていたのはクチュの子シレムンでした。そこでドレゲネはシムレンの排除から手を付けました。
シレムンを後継者候補からはずす理由としては「シレムンがまだ成人に達していないこと」が挙げられました。
そしてドレゲネは実子のグユクを後継者にします。グユクはオゴタイの長男なのでカアンにふさわしいという理屈が用意されたのでしょう。
ここで大きな障害になったのがジョチ家のバトゥです。バトゥは西方の遠征諸軍を率いており、チンギス家の中でも大きな力を持っていました。
バトゥはドレゲネに反対してドレゲネが召集しようとしたクリルタイを拒否しました。そのためモンゴル帝国では約5年間カアンの座が空いたまま、ドレゲネの監国時代が続くことになります。
監国時代のモンゴル帝国の戦い
ドレゲネの監国期にもモンゴル軍は各地で活動を続けました。
中国方面では南宋との戦いが続きました。ドレゲネは和平交渉の使者を送りましたが、南宋側はその使者を発見して捕らえます。その後、モンゴル軍は杭州を占領して四川にも攻め込みました。
西方では、1243年の「キョセ・ダーの戦い」でバイジュ率いるモンゴル軍がルーム・セルジューク朝軍を破りました。この敗北の後、ルーム・セルジューク朝、トレビゾンド帝国、小アルメニアは、モンゴル帝国に服属しました。
さらに1244年から1246年にかけてバイジュの軍はアッバース朝カリフの勢力や、アイユーブ朝が支配するシリア方面にも圧力をかけました。
意外に思うかも知れませんが、ドレゲネが監国として実権を握っていた時期にもモンゴル帝国の軍事行動は中国方面でも西アジア方面でも続いていました。
世界中が集まったクリルタイ
ドレゲネは政治工作を重ね、1246年6月にクリルタイが招集されました。このときモンゴル王族の大部分を参加させることに成功。東方諸王家の統括者テムゲ・オッチギンとその一族、トルイ家からはソルコクタニ・ベキとその息子たちが参加しました。
チャガタイ家からは第2代当主カラ・フレグ、イェス・モンケ、ブリ、バイダルらが加わりました。さらに、マー・ワラー・アンナフル総督のマスウード・ベク、イラン・ホラーサーン総督のアルグン・アカも参加しました。
アルグン・アカには、ルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン4世も随行していました。ウラジーミル大公国からはヤロスラフ2世。グルジア王国からはダヴィド兄弟が参加しました。そのほかアッバース朝やアラムートのニザール派などの使節も訪れました。
バトゥ自身は参加しませんでしたが、異母兄のオルダをはじめ、シバン、ベルケ、トカ・テムルらを代表として派遣しました。
この顔ぶれを見ると1246年のクリルタイがモンゴル高原だけの会議にとどまらなかったことがわかります。東アジア、中央アジア、西アジア、ルーシ、コーカサス方面まで関係する帝国規模の集まりでした。
長男グユクの即位
1246年8月、クリルタイが開催され、ドレゲネは当初の目的どおり子のグユクをカアンに即けることに成功しました。
ただし、グユクの即位は多くの不満も残しました。バトゥは東欧遠征中にグユクと険悪な関係になっていました。モンケも、グユクの擁立には好意的とは言いにくいです。
ドレゲネの政治工作によるグユク擁立は、のちのモンゴル帝国分裂の一因になったとみられています。
息子との対立とドレゲネの最期
グユクがカアンになると、ドレゲネとグユクの関係はしだいに悪化したと伝わります。
問題の中心にいたのが、側近のファーティマ・ハトゥンでした。グユクの弟コデンは「ファーティマ・ハトゥンが妖術で自分の体を害した」と訴えました。コデンが数か月後に亡くなると、グユクは母ドレゲネにファーティマ・ハトゥンを引き渡すよう求めました。
ドレゲネはファーティマ・ハトゥンを守ろうとしたようです。
ところが、グユクの部下たちはファーティマ・ハトゥンを捕らえ処刑しました。同じころ、アブドゥッラフマーンたち宮廷内のドレゲネ支持者たちも粛切されました。
この事件の後、ドレゲネは1246年10月に亡くなりました。グユクが1246年8月にカアンに即位したので、そのわずか2か月後の死でした。
彼女の死の詳しい事情については、はっきりしていません。
のちにフビライは、ドレゲネに「昭慈皇后」という諡号を贈りました。
ところが息子のグユクの即位期間も長くはありませんでした。1248年4月、グユクは遠征の途上で急死しました。
グユクの死後、モンゴル帝国のカアン位をめぐる争いはさらに続き、やがてトルイ家のモンケがカアンとなります。
ドレゲネをどう見るか
ドレゲネの政治には後世から多くの批判もありました。オゴタイ時代の旧臣を遠ざけたこと、財政をアブドゥッラフマーンに委ねたこと、ファーティマ・ハトゥンを重用したこと、そして強行的なグユク擁立が、他の王族や有力者の不満を招いたのでしょう。
一方で、当時のドレゲネは強い支持勢力を持たない第6皇后という立場から、カアン死後の監国という立場になりました。彼女の行動には強硬な部分もありますが、息子を即位させたい母としての思いと、オゴタイ家の中で主導権を握らなければならない政治上の事情が重なっていたのかもしれません。
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