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曹爽の生涯と最期:高平陵の変司馬懿に敗れた魏の権力者

曹爽(そうそう)は魏の国で司馬懿(しばい)と激しい権力闘争を繰り広げた人物。

魏の名将・曹真の息子として生まれた曹爽は曹叡の信任を受け、8歳の皇帝・曹芳を支える最高権力者へとのぼりつめました。

しかし、司馬懿を遠ざけて政権を握った後、興勢の戦いでの敗退や側近政治の乱れが重なり、正始10年の高平陵の変で地位を失い粛清されます。

この記事では、今回は、そんな曹爽の生涯を、当時の立場や具体的な行動とともに紹介します。

この記事で分かること

  • 曹爽のプロフィールと曹真を中心とした家族関係
  • 曹叡に重用され、曹芳の補佐役となった経緯
  • 司馬懿を遠ざけて権力を独占した流れ
  • 高平陵の変で敗れ、処刑に至った理由

 

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曹爽とは?

プロフィールと家族構成

まずは曹爽がどのような環境に生まれたのか、基本情報と家族のつながりを見てみましょう。

  • 本名(諱):曹爽(そうそう)
  • 字:昭伯(しょうはく)
  • 幼名(小字):黙(もく)
  • 出身地:沛国譙県(現在の安徽省亳州市)
  • 主君:魏明帝(曹叡)、曹芳
  • 爵位:召陵侯(しょうりょうこう)のち武安侯(ぶあんこう)
  • 最期:正始10年(249年)に処決
  • 父親:曹真(そうしん)※魏の大司馬(最高位の軍事職)を務めた重臣
  • 弟:曹羲(そうぎ)、曹訓(そうくん)、曹彦(そうげん)
  • 妻:劉氏(りゅうし)

 

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皇帝の親友から国の最高権力者へ

曹爽は魏の基盤を支えた名将・曹真の息子として生まれました。彼は若い頃から宮中に出入りしており、当時の皇太子だった曹叡(そうえい)と大変仲が良かったようです。

その後、曹叡が2代目の皇帝(明帝)として即位すると、曹爽は散騎侍郎(さんきじろう・皇帝の側近)に任命され、城門校尉(じょうもんこうい・都の城門を警備する官職)や武衛将軍(ぶえいしょうぐん・近衛兵の将軍)へと次々に昇進していきました。皇帝からの寵愛は特別に深かったようです。

太和5年(231年)に父親の曹真が亡くなると、曹爽はその爵位である召陵侯を受け継ぎました。そして景初3年(239年)、病に倒れて先が長くないことを悟った皇帝・曹叡は、曹爽を大将軍(だいしょうぐん・軍事の最高職)に任命します。さらに、符節と斧(仮節鉞・皇帝の権限を代行する証し)を与え、国内外の諸軍事を統括させ、宮中の実務(録尚書事)も任せました。

皇帝は、わずか8歳の跡継ぎ・曹芳(そうほう)の未来を、曹爽と宿老の司馬懿の2人に託したのです。こうして曹爽は、幼い主君を支える臨時の最高政務官(輔政の臣)となりました。

新しい皇帝が即位すると、曹爽はさらに武安侯に格上げされ、1万2千戸の領地をもらい、靴を履いたまま殿上に上がり、皇帝の前でも名乗らなくてよいという、破格の特権を授かったのです。

 

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司馬懿を遠ざけて権力を独占

当初は曹爽も経験豊富な司馬懿のことを父親のように敬っていました。何か決め事があるときは必ず司馬懿に相談し、自分だけで勝手に物事を進めるようなことはしなかったようです。

ところがある丁謐(ていみつ)という人物から知恵を授けられると、曹爽の態度が変わっていきます。丁謐の策に従って司馬懿を太傅(たいふ・皇帝の最高位の精神的お目付け役)という名誉職に祭り上げ、これを機に司馬懿から軍や政治の実権を奪い取ってしまいました。

その後、曹爽は丁謐をはじめ、何晏(かあん)、鄧颺(とうよう)、李勝(りしょう)、畢軌(ひっき)といった自分の好む仲間たちを朝廷の重要な役職につけました。

さらに弟の曹羲を中領軍(首都の禁軍を統括する将軍)に任命して、自分たち兄弟で都の軍権をがっちりと握ってしまいます。他の弟たちもみんな官職をもらい、宮中を自由に出入りするようになりました。

こうして司馬懿を完全にのけ者にした曹爽は、もはや政令を出す際にも司馬懿にお伺いを立てなくなり、政治を独占するようになったのです。

 

興勢の戦い:功績を焦って敗退

政権を握った曹爽のグループですが、側近の鄧颺らは「曹爽様自身の軍功による名声が足りない」と考え、蜀漢への遠征を提案します。

曹爽はこの勧めに従い、正始5年(244年)、長安へと西進し、6〜7万の兵を率いて駱谷という険しい谷から蜀へと攻め入りました。

しかし、この遠征は無謀なものでした。地元の盆地や現地の羌族・氐族の輸送力では、これだけの大軍が進軍するために必要な物資や食糧をまかないきれず、前線も地元も大飢饉のような状態になってしまいます。

さらに蜀の総司令官である費禕(ひい)がいち早く山々に陣取って行く手を阻んだため、曹爽は一歩も進めなくなってしまいました。

作戦を補佐する参軍の楊偉や、征西将軍の夏侯玄(かこうげん)から「これ以上は危険です、撤退してください」と強く説得され、曹爽はついに退却を決めます。

しかし退却する背後を蜀の軍勢に激しく追撃され、多くの死傷者を出し大変な損害を被ることになってしまいました。

 

驕りと奢りの日々

軍事での失敗はあったものの、朝廷内での曹爽の権力は揺るぎませんでした。司馬懿はすっかり蚊帳の外に置かれ、政治に関わることができなくなったため、病気を理由に自宅に引きこもるようになります。

ライバルがいなくなった曹爽は、いよいよ大胆に政治を動かし仲間たちのやりたい放題を認めました。

たとえば何晏は洛陽などの公的な公田を自分の財産にしてしまい、官物の横領や、地方への無理な要求を繰り返しました。これに異を唱えた盧毓(ろいく)や傅嘏(ふか)といった実務派の大臣たちは、些細なことを理由に免官されてしまいます。

曹爽自身の生活もエスカレートしていきました。食べるもの、乗る馬車、着る衣服はすべて皇帝そっくりになり、珍しいお宝を山ほど集め、たくさんの妻や妾を囲いました。

さらに、亡くなった先代の皇帝が残した宮女(才人)たちを勝手に連れ去って自分の宴会の芸人(家妓)にし、国の楽団の楽器を持ち出しては、武器庫の禁衛兵を使って豪華に飾り立てた秘密の部屋(窟室)を作らせました。そこで何晏たちと夜な夜な酒を酌み交わし、贅沢の限りを尽くしたようです。

こうした状況を弟の曹羲は深く心配していました。何度も「兄上、このような振る舞いは控えてください」と諫めたのですが、曹爽は聞く耳を持たず、むしろ弟に対して不満を抱く始末でした。

また、曹爽はよく弟たちを連れて洛陽の郊外へ遊びに出かけていました。大司農(財務大臣)の桓範(かんはん)は「朝廷の権力と禁軍を握る兄弟が、揃って都を留守にするのは危険です。もし誰かが城門を閉じて反乱を起こしたら、都に戻れなくなりますよ」と警告しましたが、曹爽は「いまさら俺を脅かす者などいるわけがない」と笑い飛ばして相手にしませんでした。

一方、病気で引きこもっていた司馬懿ですが、実は密かに兵権を奪い返すチャンスを狙っていました。曹爽の息がかかった李勝が様子を探りに来たとき、司馬懿はわざとヨボヨボの老人を演じて見せました。これを聞いた曹爽は「司馬懿はもう長くないな」と完全に信じ込み、警戒を怠ってしまったのです。

 

高平陵の変で司馬懿に敗れる

高平陵の変

正始10年(249年)、運命の日が訪れます。若き皇帝・曹芳と曹爽の三兄弟は、先代皇帝のお墓参りのため、都の外にある高平陵(こうへいりょう)へと出かけました。

この隙を突いて、都にいた司馬懿がクーデター(高平陵の変)を起こします。司馬懿は「曹爽は国を乗っ取ろうとしている」と主張し、皇太后の命令(懿旨)を得て曹爽の官職を剥奪。洛陽の城門を閉鎖し、曹爽兄弟の軍営を占領してしまいました。

この知らせが届いたとき、曹爽はパニックに陥りました。皇帝を連れているもののどうしていいか分からず、伊水の南にとどまり、木を組んでバリケード(鹿角)を作り、数千の兵を集めて身を守るのが精一杯でした。

そこへ、都から逃げ出してきた桓範が合流します。桓範は曹爽に「このまま皇帝を連れて臨時の首都(許昌)へ行き、皇帝の命令として全国の軍隊を呼び集めて司馬懿を討ちなさい!」と熱く語りかけました。さらに、司馬懿側からも陳泰(ちんたい)や尹大目(いんだいもく)といった使者がやってきて、「権力を諦めて降伏すれば、命までは取らない。大名格(侯爵)としての贅沢な暮らしは保障する」と説得してきました。

曹爽は一晩中悩み続けました。そして出した結論は戦うことではなく司馬懿への降伏でした。「権力を失っても、富豪として一生を過ごせるならそれでいい」と考えたのでしょう。こうして曹爽は皇帝とともに洛陽へ戻りました。

免職されて自宅に戻った曹爽兄弟ですが、司馬懿はその屋敷の四隅に見張り台を建てさせ、昼夜を問わず監視させました。不安になった曹爽たちが「食べ物が足りない」と訴えると、司馬懿から食糧が届けられました。曹爽たちは「これなら殺されることはない」と喜んだそうですが、それは一瞬の安心に過ぎませんでした。

最期

まもなく、宮中の役人(黄門)である張当(ちょうとう)が取り調べを受け、「曹爽や何晏らは謀反を企てていた」と自白します。

これを大義名分とした司馬懿によって曹爽と側近たちは逮捕され、曹爽の三族(父母・兄弟・妻子の一族)はすべて処刑されてしまいました。

その被害は、すでに他家に嫁いでいた叔母や姉妹にまで及び、名将・曹真の血筋はここで一度途絶えてしまうことになったのです。

この容赦ない粛清を見て曹爽の親族であった夏侯覇(かかはお)は恐怖を抱き、のちに敵国である蜀漢へと亡命することになります。

その後、数年が経ってから、司馬懿を補佐していた蒋済(しょうさい)が「名将だった曹真の血筋を完全に絶やすのは忍びない」と言い出し、曹真の遠い親戚にあたる曹熙(そうき)が新しい爵位を与えられて、ようやくその後継者として認められました。

 

まとめ

物語やテレビドラマの『三国志』では、曹爽は司馬懿の偉大さを際立たせるための「傲慢で無能な悪役」として描かれる作品が多いです。

ただ、当時の実際の記録を見てみると、彼が若き日の皇帝の親友として信頼を得ていたことや、父親の地盤を引き継いで魏のトップに立ったこと、そして彼なりに一族や側近を固めて政権運営を行っていた事実が見えてきます。

最終的には司馬懿の老獪な策略の前に敗れ去ってしまいましたが、もしあのとき桓範の言葉を信じて許昌へ逃げていたら……と想像すると、歴史の IF としては非常に面白いスリルがありますよね。

 

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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

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京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

詳しい経歴や執筆方針は プロフィールをご覧ください。

運営者SNS: X(旧Twitter)

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