阿史那皇后(あしなこうごう)は北周の第3代皇帝・宇文邕(うぶんよう)の正妻です。突厥王族の出身です。
突厥から異国の北周に嫁いだ彼女は政略結婚とはいえ、突厥と北周の関係を安定させる役割を果たしました。武帝との関係は冷えていたようですが、北周では丁重に扱われ彼女の立場は尊重されていたようです。
この記事では、そんな阿史那皇后の人物像を史実をもとに紹介。どのような経緯で北周に嫁いだのか、そして彼女がもたらした文化的な影響や後世のドラマでどう描かれているのかについてわかりやすく解説します。
阿史那皇后とは?
阿史那皇后のプロフィール
- 生年:551年
- 没年:582年(32歳)
- 出身:突厥可汗国
- 称号:天元上皇太后、武徳皇后
- 父:ムカンカガン(木汗可汗)
- 兄弟:アパカガン(阿波可汗)
- 夫:宇文邕(北周・武帝)
- 子:なし
突厥とは何か?テュルク系遊牧民の大国

モンゴル高原
突厥の起源と特徴
突厥はモンゴル高原を中心に活動していたテュルク系の遊牧民国家です。
5世紀ごろには柔然の属国として製鉄を行っていました。6世紀ごろに独立して可汗国を建国。東は高句麗、西はアラル海まで勢力を拡大してモンゴル高原の支配者になりました。
突厥の支配者層であるアシナ(阿史那)氏は製鉄技術を持つ部族の出身で、文化的にも西域の影響を受けていました。
阿史那皇后の生涯と北周との婚姻
父:ムカンカガンは大帝国を築いた突厥の君主
父は突厥可汗国の君主・ムカンカガン(木汗可汗)。
ムカンカガンは柔然を滅ぼし突厥帝国を大帝国に育てた人物です。『北史』によれば「珍しい容姿で、顔は1尺(30cm)あまりあり、赤ら顔で、瑠璃色の目をしていた」と書かれています。コーカソイドかその血を受け継ぐ人物だったのでしょう。
白人?のような美貌の突厥の姫
阿史那皇后はムカンカガンの三女でした。美しく琴が得意だったといわれます。彼女もコーカソイド系の容姿だったかもしれません。モンゴロイド中心の北周では目立つ存在だったでしょう。
北周の皇后になったアシナ公主
なぜアシナ皇后は北周に来ることになったのか?

565年ごろの突厥帝国
ムカンカガンは突厥を東は高句麗。西はアラル海までとどく大帝国にしました。突厥は北周や北斉より圧倒的に大きく強い国でした。
北周と北斉はどちらも突厥と同盟して敵国を滅ぼそうとしました。
同盟交渉の始まり
北周の武成2年(560年)。武帝 宇文邕の即位後。突厥の助けを受けて北斉を滅ぼそうと、突厥に何度も使者を派遣。突厥と同盟しようとしました。を模索しました。
ムカンカガンは一度は娘・アシナ公主と武帝との婚姻を認めます。
迎えの儀式と外交の駆け引き
保定5年(565年)。陳国公の宇文純と宮女120人を含めた使節団が突厥に派遣され、アシナ公主を迎えるための準備を始めました。
ところが突厥に北斉からも婚姻の話が来ます。ムカンカガンは北斉と同盟しようと考え、北周の使節団を拘束してしまいます。宇文純たちは「先に約束していたのは自分たちだ」と抗議しますがムカンカガンは考えを変えません。
ところがそのとき落雷があって突風が吹き荒れ、ムカンカガンのゲル(大型のテント)が吹き飛ばされました。ムカンカガンは「天の怒り」だと思ってアシナ氏を北周に嫁がせることにしました。
宇文純たちは行宮を設置してアシナ公主を迎えました。その後、アシナ公主は北周の兵に守られながら北周の首都・長安に向かいました。
568年3月。アシナ氏は長安に到着。武帝・宇文邕に迎えられ婚儀が行われました。アシナ氏は北周皇后になりました。

北周 武帝 宇文邕の肖像画
皇后としての役割と冷えた夫婦関係
北周の皇后になった阿史那皇后は宮廷内で敬意をもって受けいれられました。でも武帝は「突厥に支配されるのではないか」と恐れていました。阿史那皇后の立場は尊重しても、寵愛することはありません。そのため二人の間に子供はできませんでした。
572年。父・ムカンカガンが死去。ムカンカガンの弟・他鉢可汗(タトパルカガン)が即位しました。阿史那皇后の叔父になります。
武帝の姪・竇氏の進言
572年。竇(とう)氏とその父・竇毅は武帝に進言しました。「四方は静まりません。突厥は強く勢いがあります。叔父上も感情を抑えて愛しんでください。そうすれば南の陳や東の斉に患わされることはないでしょう」
竇毅は匈奴系部族の出身。竇氏の母は宇文泰の五女・襄陽長公主です。竇氏はこのとき6、7。自発的に言うとは思えないので、父に言わされたのかもしれませんが。武帝も姪に言われるとそのとおりだと思い、竇氏の進言を受け入れました。竇氏は後に李淵(唐・高祖)の妻になります。
北周と突厥の軍事同盟で北斉が滅びる。
北周と突厥は良い関係が続きました。突厥は北斉を滅ぼすための強力な後ろ盾になり、577年に北周は北斉を滅亡させました。
実家が敵に?
北斉が滅亡すると、なんと叔父の他鉢可汗は北斉の残党を援助し始めました。そして北周が占領したばかりの幽州に攻め込んできたのです。
阿史那皇后にとっては実家が敵になってしまいました。
突厥は南に強力な統一国家ができて突厥に抵抗するのを嫌がっていました。中原王朝同士を戦わせて消耗させようとしていたのです。
ただしこれはお互い様で中国王朝側が仕掛けることもあります。
そこで武帝は突厥に攻め込む準備を始めます。ところが578年に武帝・宇文邕が病死すると突厥攻めは中止になりました。
阿史那皇后の晩年と死後
武帝の死後は皇太后になって
578 宣帝・宇文贇(うぶん いん)が即位。 宣帝は阿史那の実の子ではありませんが、阿史那氏は皇太后になりました。
宣帝の死後は「天元上皇太后」として静帝を支えます。
隋による政権交代と晩年
581年。隋が北周を滅ぼしたときも阿史那皇后は粛清されることなく、丁重に扱われました。
582年。32歳で崩御。諡号は「徳」とされ、宇文邕とともに孝陵に合葬されました。
阿史那皇后の功績と文化的影響
阿史那皇后は一人で北周に来たわけではありません。大勢の人々を引き連れてやって来ました。そのため北周に様々な西域文化が伝わります。
音楽と舞踊の伝来
阿史那皇后の婚姻により西域から数多くの音楽家が中原に渡来。その中でも亀茲出身の琵琶奏者・蘇祗婆は大臣・鄭譯に七音階理論を伝え『楽府声調』にその理論が採用されました。
西域音楽の伝来は中国の音楽に大きな影響を与え後の隋唐時代にも引き継がれます。私達日本人は唐の文化は中国由来だと思っていますが、実は西域の影響を受けたものなのです。
国際都市・長安の基盤を築く
突厥と北周の同盟により西域の人々が長安に移住、国際的な文化が花開きました。この動きは後の唐王朝の国際性につながっていくのでした。
参考文献:旧唐書、新唐書、資治通鑑など中国正史を元に編集
阿史那皇后が登場するドラマ
- 『蘭陵王』(2013年、中国)演:王笛
- 『蘭陵王妃』(2016年、中国)演:傅穎
- 『独孤伽羅』(2017年、中国)演:黄梓熙 役名:阿史那云
- 『独孤皇后』(2019年、中国)演:海陸 役名:阿史那頌
中国ドラマ『独孤伽羅~皇后の願い~』(2017年)は独孤伽羅を主人公に北周から隋にかけての激動の時代を描いたドラマ。このドラマではアシナ・ユン(阿史那云)の名前で登場します。
ドラマでは北周に嫁ぐまでがまず描かれますが。北周から使者としてきたのは宇文純ではなく楊堅でした。北周の使者が一時拘束されるのは史実どおりですが、史実のように天候に驚いた可汗(ドラマではアシナ大王)が釈放するのではなく。ドラマでは楊堅は自力で脱出して独孤伽羅・曼陀たちの強力でピンチを切り抜けます。
その後は、北周に迎えられ皇后となります。でも皇帝・宇文邕はアシナ・ユンの立場は尊重しつつも妻としては扱わないなど、冷遇される様子が強調されています。
ドラマの宇文邕は善人として描かれているので、アシナ・ユンがワガママな娘として設定されており、冷遇されるのはアシナ・ユンにも責任があるかのような描写になっています。
ドラマのアシナユンは史実の竇氏のような仲間はなく孤立した状態。そのため野心家の曼陀に唆されて権力争いに利用されてしまいます。
この演出は史実で「寵愛は薄かったが政治的には重用された」という阿史那皇后の記録に合わせつつ、ドラマとしての面白さを追求したからなのでしょうね。
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