「臨海大長公主」は中国ドラマ『風起花抄』『風起西州』に登場する人物。
裴行倹の一族・河東裴氏の奥様として強烈な印象を残しているキャラクターですよね。
「臨海大長公主」のモデルになったのは実在した唐の皇女「臨海公主」です。史実ではどのような人物だったのでしょうか?
今回は、臨海公主の史実とドラマとの違いを徹底解説します。
ドラマ『風起花抄』『風起西州』の臨海大長公主とは?
『風起花抄』の臨海大長公主
ドラマ『風起花抄』(2021年・中国)には、唐の皇族として強烈な存在感を放つ女性、「臨海大長公主(りんかい・だいちょうこうしゅ)」が登場します。演じるのは女優・陳雨菲(チェン・ユーフェイ)さんです。
唐の建国者 高祖皇帝の娘
臨海大長公主は唐の建国者 高祖 李淵(り・えん)の第十六女。高宗・李治の叔母です。血筋的にはかなり地位は高いですね。
臨海大長公主は建国に貢献のあった裴家に嫁ぎました。今は名門・河東裴氏の河東公夫人として裴家を取り仕切る“奥の実力者”です。
裴行倹の財産を狙う長公主
大長公主が嫁いだ河東公府と裴行倹は親戚。裴行倹の祖父と河東公の当主は親しくて裴行倹の祖父に土地を与えていました。その財産は裴行倹が相続します。しかし臨海大長公主は裴行倹の財産を狙っていました。
裴行倹の最初の妻・陸琪娘を義娘と認め裴家の財産管理を任せましたが。裏では不正な操作を行い、陸琪娘を追い詰めて死に追い込みました。そして裴行倹を天涯孤独の星の元に生まれたと噂を広めました。裴行倹が結婚できず家が途絶えれば財産は河東公府の物になると考えたのでした。
そのため裴行倹と庫狄琉璃の結婚も阻止しようとします。
『風起花抄』では最期の数話に登場するだけであまり出番は多くありません。
『風起西州』の臨海大長公主
演じる役者が変わってボスキャラ感がアップ
続編の『風起西州』でも臨海大長公主は引き続き登場。設定は同じですが、こちらでは演じている女優さんが朱鋭(ジュー・ルイ)さんに変わっています。
『風起西州』では臨海大長公主の出番も多いです。ジュー・ルイさんの演じる臨海大長公主は貫禄十分で、怖い感じがよく出ていてドラマのボスキャラ的存在です。
しつこく裴行倹の財産を狙う
彼女は「臨海大長公主」という称号を持っているのですが、実は公主としての俸禄を十分に与えられておらず不満や野心を溜め込んでいました。だから人の財産を狙っているのですね。
それも河東公府を継ぐ息子のためなのですが。裴行倹としてはたまったものではありません。
臨海大長公主の嫌がらせはこれからが本番
『風起西州』では、臨海大長公主の策略が本格化。裴家の家産を独占するために、裴行倹一家を追い詰めていきます。自分が死に追い込んだ陸琪娘とそっくりの侍女を使って裴行倹と庫狄琉璃の関係を壊そうとしたり。政略に長けた「黒幕」のような立ち位置になります。
臨海大長公主は裴行倹にとって厄介な親戚なのですが、皇帝の叔母でもあるので非情に扱いに困る厄介な相手なのです。
公主・長公主・大長公主の違い
歴史的には「臨海大長公主」ですが、劇中では「大長公主」と呼ばれます。それはそのときの立場によって呼び方が変わるからです。
唐王朝の「公主」「長公主」「大長公主」の意味は次のような違いがあります。
公主(こうしゅ)
- 対象:皇帝の実の娘(皇女)。
- 地位:基本的な女性皇族の位階。唐代では特に尊重され、封邑(領地)と収入が与えられ、政治的にも一定の影響力を持ちます。
長公主(ちょうこうしゅ)
- 対象:皇帝の姉妹。皇帝の代替わりにより「妹」だった者が「姉」に変わることもあります。
- 地位:公主よりも高位。一般の公主より権威があり扱いも上。
特徴:礼制上、特別な地位が与えられることが多く、政治的にも影響力が強いことがあります。
大長公主(だいちょうこうしゅ)
- 対象:先代皇帝の姉妹や娘(現皇帝にとっては伯母や叔母)。または皇帝の養育者のような存在に対しても授与されることがありまう。
- 地位:女性皇族の中で最も高い称号のひとつ。儀礼的・象徴的な意味が強く、非常に敬われます。
備考:
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「大長公主」は実在する史料では限られた人物にしか使われませんが、ドラマなどでは威厳ある皇族女性を表現するためにこの称号が使われることがあります。
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唐代では女性皇族の影響力が比較的強く、「公主」でも政治的な影響力を持つことがありました。
臨海公主の史実
いつの時代の人?
- 姓 :李氏
- 名称:不明
- 国:唐
- 地位:公主
- 称号:臨海公主
- 生年月日:不明
- 没年月日:不明
家族
- 父:唐高祖李淵
- 母:不明
- 夫:裴律師(はい・りつし)
- 子供:不明
日本では飛鳥時代になります。
唐の高祖李淵の十六女
臨海公主(りんかいこうしゅ)は、中国・唐の初代皇帝、高祖 李淵(り・えん)の娘の一人です。「新唐書」などの記録によると彼女は李淵の第十六女で母の名は不明です。
臨海公主という称号は「臨海郡」=現在の浙江省台州市にちなんだもの。公主に与えられる「封邑(ほうゆう/領地)」の名に由来します。ただし、当時の制度では女性皇族がその土地に住むことはまれで、公主は都やその周辺に住み。領地から得られる収益が公主の収入になっていました。
彼女の生年は不詳ですが、李淵の十二女・淮南公主が西暦622年に生まれているので臨海公主はそれ以降の生まれだと考えられています。
唐が建国したのは618年なので、臨海公主は唐ができたばかりのころに誕生した皇女ということになります。
名門貴族の河東裴氏と結婚
臨海公主は、有力な貴族一族の河東裴氏(かとうはいし)の男性・裴律師(はい・りつし)と結婚しました。裴律師の父・裴寂(はい・せき)は高祖皇帝 李淵からも信頼の厚い重臣。唐の建国にも大きく貢献し宰相も務めています。
こうした背景もあり臨海公主と裴律師の結婚は完全な政略結婚で皇室と有力貴族との結びつきを強めるための婚姻だったと考えられます。
実は記録があまりない臨海公主
ただし臨海公主に関する詳しい逸話やエピソードは史書にほぼ残っていません。彼女の生涯は断片的な情報しか伝わっていません。裴律師との間に子がいたかどうかもわかりません。でも裴律師には裴承光と裴承禄の息子がいました。裴律師の息子たちは裴氏の血筋を受け継いで活躍しており、彼らが臨海公主の息子だった可能性もあります。
唐の公主は地位が高かった
唐の時代は公主の地位が他の王朝に比べて高いのが特徴です。政治的な影響力を持つことも珍しくありませんでした。特に初期の唐朝では李氏一族と臣下の忠誠と団結を保つために、皇女を有力な臣下に嫁がせることがよく行われていました。臨海公主もその一例といえます。
皇帝の娘や妹、あるいは叔母ということで大きな顔をしていたのでしょうね。
当時の臣下の感想としては。出世や家の繁栄につながるのでありがたいけれど。公主はわがままのであまり嬉しくない。というのが一般的な感想だったようです。臨海公主もそうだったのかはわかりませんが。その可能性はあります。
河東裴氏の裴律師と結婚
時期は不明ですが。裴律師(はい・りつし)と結婚しました。
高祖 李淵、太祖 李世民は有力な臣下には積極的に娘を嫁がせました。王朝の建国時はまだ李一族の権力も安定していません。いつ反乱を起こされるかわからないので政略結婚で有力な臣下を仲間にして忠誠心を高めようとしたのです。
臨海公主の夫は河東裴氏でも中心的な河東郡公
河東裴氏はいくつかの家系に分かれています。裴寂・裴律師の家はその中でも数の多い「西眷裴」に所属します。裴律師は「河東郡公」の爵位を与えられていました。当時の河東裴氏の中では特に地位が高い人物です。
裴律師には裴承光と裴承禄の二人の息子がいました。この二人が臨海公主が生んだ子なのかはわかりません。
裴承光は武則天の時代に酷吏(密告制度を利用して人々を取り締まる役人、武則天が反対派の粛清に利用しました)に捕らえられて処刑されました。
裴承禄が河東郡公の地位を継いでいます。
裴行倹と河東郡公は遠い親戚?
裴行倹は「中眷裴」という分家。西眷裴からさらに分かれた一族になります。
ただし、歴史的には西眷裴(裴律師)と中眷裴(裴行倹)は300年以上前に分かれた家系です。臨海公主と裴行倹に実際に接点があったかは不明です。
でもドラマでは「親戚」という設定で描かれているので、ドラマチックな展開を楽しめるようになっています。
参考資料
・新唐書 列傳第八 諸帝公主
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