北周皇帝一覧:全6人を紹介

北斉皇帝 6 南北朝
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北斉は北魏から分裂した東魏から誕生した王朝。鮮卑族の文化と仏教が栄えました。

高歓が基盤を築き、息子の高洋が建国しました。

しかし、歴代皇帝の多くは政治に無関心で朝廷内部でも争いが続いたため、政治は腐敗し国力は低下しました。

そして北周との戦いに敗れ、577年に滅亡しました。

この記事では北斉の建国から滅亡までの歴史、歴代皇帝一覧、歴代皇帝の特徴などを紹介します。

 

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北斉とは?

北斉(ほくせい)は中国の南北朝時代に存在した北朝の王朝の一つです。騎馬遊牧民出身の鮮卑(せんぴ)族の高氏が建てた国で550年から577年までの27年間存続しました。

北斉が建国するまで

北魏で高歓が台頭

後に北斉を建国する高洋は北魏の重臣・高歓の息子。高洋が北斉を建国できたのは高歓が築いた権力と基盤があったからです。

北魏の末期は内紛が続き、混乱した状態にありました。鮮卑族の軍人・高歓はその中で着実に勢力を拡大し、軍事的な才能を発揮して頭角を現しました。

北魏の分裂と東魏の成立

北魏の孝武帝(こうぶてい)の時代になると、高歓と宇文泰(うぶんたい)という二人の有力者が対立するようになりました。

この対立が激化して北魏は分裂。

孝武帝は宇文泰を頼って長安へ入り、高歓は孝静帝(こうせいてい)を擁立して鄴(ぎょう)に都を置き、東魏を建国しました。

高歓が東魏で権力を握る

東魏では高歓は実質的な権力者として君臨しました。

彼は軍事力と政治力を巧みに使い、反対勢力を抑え込み自らの地位を確固たるものとしました。

後継者の死亡

高歓の跡継ぎは長男の高澄でしたが暗殺されてしまいます。その弟の高洋が高歓の後継者となります。

高澄の息子が蘭陵王 高長恭(こうちょうきょう)です。

高洋が北斉建国

高歓の死後、その息子 高洋(こうよう)が後を継ぎました。
高洋は父の築いた基盤を受け継ぎ、さらに勢力を拡大しました。

高洋は東魏の臣下では満足できなくなり550年に東魏の孝静帝から皇位を奪い皇帝となり、国号を「斉」と定めました。

南朝の斉(南斉)と区別するため「北斉」または高氏の斉という意味で「高斉」と呼ばれます。

特徴

斉(北斉)の領土。

6世紀中ごろの東アジア

6世紀中ごろの東アジア

  • 北斉は騎馬遊牧民出身の鮮卑族の王朝。軍事力を重視する傾向がありました。
  • 文化的には仏教が盛ん。多くの寺院が建立されました。
  • 農業技術や製鉄技術も発展しました。

北斉の簡単な年表

  • 550年 高洋が東魏から禅譲を受け、北斉を建国。
  • 559年 文宣帝(高洋)が死去、子の高殷が即位(廃帝)
  • 560年 孝昭帝(高演)が廃帝を廃位し、即位。
  • 561年 孝昭帝が死去、弟の武成帝(高湛)が即位。
  • 565年 武成帝が譲位、子の後主(高緯)が即位
  • 577年 北周が北斉を攻撃、首都の鄴が陥落。後主は捕らえられ北斉は滅亡。

北斉の主な歴史

北斉は建国当初は軍事力も強く、周辺諸国に対して優位に立っていました。

しかし2代目以降の皇帝たちは酒色に溺れたり、政治を顧みなかったりと暴政を行う者が多く国内は次第に乱れていきました。

特に5代目の後主(こうしゅ)は政治を顧みずに贅沢三昧の生活を送り、国政は乱れました。

さらに後主は高長恭、斛律光ら有力な臣下を粛清。ますます国力が低下します。

その結果、北斉は西側の国である北周(ほくしゅう)との戦いに敗れ577年に滅亡。北周が華北を統一しました。

卓抜鮮卑系王朝

卓抜鮮卑系王朝の歴史

 

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北斉皇帝一覧

北斉(550年-577年)の歴代皇帝の一覧を紹介します。

称号 廟号 在位期間 備考
初代 文宣帝 顕祖 高洋 550 – 559年
北斉を建国。
2代 廃帝   高殷 559 – 560年
叔父の孝昭帝によって廃位。
3代 孝昭帝 粛宗 高演 560 – 561年
甥の廃帝を廃位し即位。
4代 武成帝 世祖 高湛 561 – 565年
兄 孝昭帝の死後即位。
5代 後主   高緯 565 – 577年
政治に無関心、国を混乱させた。
6代 幼主   高恒 577年
北周に敗れ捕らえられた。

 

北斉皇帝の家系図

以下に北斉皇帝の系図を紹介します。

高歓(北斉の実質的な創始者)
  ├─ 高澄(後継者とされるも暗殺)
  ├─ 高洋(文宣帝)(初代皇帝, 在位:550-559)
  │     ├─ 高殷(廃帝)(第2代皇帝, 在位:559)
  │
  ├─ 高演(孝昭帝)(第3代皇帝, 在位:559-560)
  │
  ├─ 高湛(武成帝)(第4代皇帝, 在位:560-565)
  │     ├─ 高緯(後主)(第5代皇帝, 在位:565-576)
  │          ├─ 高恒(幼主)(第6代皇帝, 在位:576-577)
  │
  ├─ 高湝
  ├─ 高恪
  ├─ 高儼
  ├─ 高紹義

 

系図の補足

  • 高歓 は北魏の宰相、事実上の北斉の創始者。
  • 高澄 は高歓の後継者だったが暗殺され、弟の 高洋(文宣帝) が皇帝となりました。高澄の息子が蘭陵王 高長恭。
  • 高殷(廃帝) は父・高洋により皇太子に立てられ父の死後即位。しかし叔父の 高演、高湛 によって廃されます。
  • 高演(孝昭帝) は即位から1年ほどで崩御、弟の 高湛(武成帝) が即位。
  • 高湛 は在位5年で譲位、息子の 高緯(後主) が皇帝となります。
  • 高緯 は幼帝の 高恒(幼主) に譲位するも、実権は持ち続けます。
  • 577年 に北斉は 北周 に滅ぼされる。

北斉はわずか27年間しか続かず、内紛や北周の侵攻により滅亡しました。

 

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北斉皇帝一覧

初代:文宣帝(ぶんせんてい)

建国者は二つの顔を持つ皇帝
諱:高洋(こうよう)
廟号:顕祖(けんそ)
生没年:526年 – 559年
在位:550年 – 559年
父:高歓(こうかん)
母:婁昭君(ろうしょうくん)

主な出来事・功績

建国初期の安定

高洋は父 高歓の築いた基盤を受け継ぎ、東魏から皇帝の座を奪い北斉を建国。
初期の治世には内政に力を入れ法律を整備したり人材を登用したりするなど国家の基礎を固めることに努めました。

周辺諸国との関係も安定させ北斉の国力を高めました。

後期に見られた暴政

治世の後期になると、高洋は酒乱となり暴政を敷くようになりました。
気に入らない臣下を処刑したり、民衆を虐待したりするなど残虐な行為が目立つようになります。

また、贅沢な生活を送り国庫を浪費したため国家財政も悪化しました。

 

2代:廃帝(はいてい)

傀儡として終わった若き皇帝
諱:高殷(こういん)
廟号:無し
生没年:545年 – 561年
在位:559年 – 560年
父:文宣帝(高洋)
母:李祖娥(りそが)

主な出来事・功績

短期間の治世

文宣帝(高洋)の長男として生まれた高殷は父の死後に即位しました。

当時まだ幼かったため、高洋の任命した楊愔たち重臣と叔父の高演、高湛の共同で政治が行われました。そのため高殷自身が政治に関与する機会はほとんどなく傀儡に近い状態でした。

しかし楊愔と皇太后 李祖娥は高演たちの排除を画策します。

叔父による廃位

高演と高湛は李祖娥たちの計画を知り重臣を捕らえ処刑、高殷を廃位。高演が皇帝に即位しました。

高殷はわずか1年足らずで皇帝の座を失うこととなりました。

 

3代:孝昭帝(こうしょうてい)

短くも安定をもたらした皇帝
諱:高演(こうえん)
廟号:無し
生没年:535年 – 561年
在位:560年 – 561年
父:高歓
母:婁昭君

主な出来事・功績

廃帝の廃位

560年。弟の高湛、母。婁昭君とともに甥の高殷を廃位、自ら皇帝に即位しました。これにより北斉の政治は安定を取り戻しました。

安定した内政

彼は文宣帝の暴政によって乱れた国内を立て直すために内政に力を入れました。
法律を整備したり、人材を登用したりするなど国家の基礎を固めることに努めました。

短期間の治世

しかし孝昭帝の治世は短く在位わずか1年余りで死去しました。
そのため彼の政策が十分に成果を上げることはありませんでした。

 

4代:武成帝(ぶせいてい)

北斉衰退の始まり 
諱:高湛(こうたん)
廟号:無し
生没年:537年 – 569年
在位:561年 – 565年
父:高歓
母:婁昭君

主な出来事・功績

前期の安定

孝昭帝(高演)の死後、即位した武成帝は、初期には比較的安定した政治を行いました。しかし次第に政治を顧みなくなり、贅沢な生活を送るようになりました。

後期の堕落

後期になると和士開(かしかい)ら気に入った臣下の言いなりになり、武成帝は酒色に溺れ政治を顧みなくなりました。そのため国政は乱れます。

息子の高緯に譲位して太上皇帝として力を持ちますが、3年ほどで病死。

 

5代:後主(こうしゅ)

 北斉を滅ぼした無能な皇帝
諱:高緯(こうい)
廟号:無し
生没年:557年 – 577年
在位:565年 – 577年
父:武成帝(高湛)
母:胡皇后

主な出来事・功績

政治に無関心

高緯は政治に関心がなく贅沢三昧の生活を送りました。
和士開・高阿那肱・穆提婆ら私利私欲にまみれた臣下を重用。乳母・陸令萱のいいなりとなり、国政を混乱させたため国内は荒廃しました。

嘘を信じて有力な臣下を排除

和士開や穆提婆などの佞臣を重用し、彼らの讒言を信じて高長恭、斛律光ら有力な臣下を粛清したり遠ざけました。そのため政治は腐敗し、軍事力も低下しました。

軍事の失策と逃亡

北周との戦いでは何度も失敗。北斉の軍事力を低下させました。
さらに敵軍が迫っている状況でも遊興にふけり、適切な対応を取らなかったため北斉は滅亡へと向かいました。

北周が迫ると高恒に譲位して逃亡、臣下にも見放され北周に囚われました。

6代:幼主(ようしゅ)

 9歳で滅びかかった国を押し付けられた滅亡の象徴 
諱:高恒(こうこう)
廟号:無し
生没年:570年 – 578年
在位:577年
父:後主(高緯)
母:穆皇后

主な出来事

短期間の治世

高恒は父の高緯(後主)が北周に敗れ、首都の鄴(ぎょう)を放棄した後にわずか9歳で即位しました。

皇太后や皇后たちを避難させた後、自分も避難。

逃亡と捕縛

その後、高恒は父と共に北周軍から逃れましたが、最終的に捕らえられ北周は滅亡しました。

在位期間はわずか20日ほどでした。

 

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まとめ

北斉は鮮卑族の高氏によって建てられた王朝です。

北魏や東魏を受け継ぎ、初期には大きな軍事力を持っていました。初期には政治も安定していたのですが。皇帝たちの暴政や内紛が続き、国力は急速に衰退しました。

特に後主の時代には邪な臣下の重用や有力な臣下の粛清が行われ、北周との戦いでも失策が続き滅亡。

北斉・北周・南朝の三国時代は終わり、北周対陳の二強対決へと時代は移り変わります。

 

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