和親王 弘昼:乾隆帝の弟の史実

弘昼 1.3 清の皇子・男の皇族
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愛新覚羅・弘昼は清朝の第5代皇帝・雍正帝ようせいていの皇子。

和親王・弘昼は清朝乾隆帝の時代を生きた皇族。

弘昼はそのおかしな行動で死で知られています。兄・乾隆帝の治世では様々な役職を歴任しましたが、一方では生前に自分の葬儀を行なったり、常軌を逸した行動でも有名でした。

この記事では、弘昼の生涯、逸話、そして死因の謎に迫ります。

さらに人気ドラマ「瓔珞<エイラク>」での描かれ方についても詳しく解説。

史実とドラマのギャップを楽しみながら、弘昼という人物の多面的な魅力に触れてみましょう。

 

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和親王・弘昼の史実

どんな人?

姓:愛新覚羅(あいしんかくら、アイシンギョロ)
名:弘昼(こうちゅう、ホンジョウ)
称号:和碩和親王 (わせきわしんおう)
諡号:恭 

生年月日:1712年1月5日
没年月日:1770年9月2日
享年58

彼が生きたのは清王朝の第6代皇帝・乾隆帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

家族

父:雍正帝
母:純懿皇貴妃耿氏
正室:吳扎庫氏
側室:章佳氏、佟氏、崔佳氏
子供 8男1女

 

弘晝?弘昼?名前について

旧字体では「弘晝」、新字体では「弘昼」と書きます。

「晝」は「ひる」の意味。「昼」の旧字体です。
似てますが「書」ではありません。

 

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弘昼の生涯

おいたち

弘昼(こうちゅう)は1712年に雍正帝(ようせいてい)の五男として生まれました。母は側室の耿氏(こうし)、後に皇貴太妃(こうきたいひ)という高い位になりました。

小さい頃、弘昼は嫡母である烏喇那拉(ウラナラ)氏の養子になりました。烏喇那拉氏には実の息子がいなかったからです。

1733年。弘昼は和碩和親王(わせきわしんのう)という位を与えられました。

後継者争いから脱落

雍正帝の晩年には、皇位を継ぐ可能性のある息子が三人いました。四男の弘暦(こうれき、後の乾隆帝)、三男の弘時(こうじ)、そして五男の弘昼です。

一番賢いと言われていたのは弘暦でした。弘昼は過去の皇位争いの悲劇を見ていたため争いに巻き込まれるのを恐れ、わざと無能なふりをしたと言われています。

仏教に興味

弘昼は僧侶や道士と親しく付き合い、一日中仏事をすることもあったそうです。弘暦とは仲が良く、兄弟で助け合っていたと言われています。

 

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乾隆帝の時代

1735年に雍正帝が亡くなると兄の弘暦が皇帝になりました。

その年の12月、弘昼は内務府と御書処の仕事をするように命じられました。

乾隆帝の時代になると弘昼は様々な役職を任されるようになりました。

1739年。雍和宮(ようわきゅう)の管理を任されました。雍和宮は父の雍正帝が皇子時代に住んでいた場所です。乾隆帝は父の財産も弘昼に与えました。

満洲白旗(まんしゅうはっき)の都統(ととう、長官)になりました。

大臣と喧嘩

乾隆帝の時代初期、弘昼は軍機大臣(ぐんきだいじん)の納親(ナチン)と喧嘩することがありました。納親の伯母は康熙帝(こうきだい)の正室、朝廷で力を持っていました。ある時、弘昼は納親と口論になり、納親を殴ってしまいます。乾隆帝はその様子を見ていましたが、弘昼を特に罰しませんでした。

そのため、人々は弘昼を恐れるようになりました。

様々な仕事を任される

1740年、満洲鑲黄旗(まんしゅうじょうこうき)の都統になりました。八旗軍(はっきぐん)の運用ルールを決める仕事を担当しました。

その後も、奉宸苑の管理を任されたり、内務府、法政大臣を担当しました。

1763年、正黄旗覚羅学(せいこうきかくらがく)の管理を任されました。覚羅学は皇族の子どもたちに教育を施す学校です。

弘昼の最後

1770年7月9日、乾隆帝は病気の弘昼を見舞いました。その数日後の7月13日、弘昼は亡くなりました。58歳でした。

弘昼の死後、乾隆帝は「恭(きょう)」という諡号(しごう、死後に贈られる名前)を与えました。「恭」には、「つつしむ、へりくだる」という意味があります。

息子の永璧(えいへき)が和親王(わしんのう)の位を継ぎました。

弘昼の逸話

自分で葬式、おかしな行動をとる弘昼

弘昼は、若い頃は気が強く短気な性格でしたが、年を取るにつれて奇妙な行動が目立つようになりました。

当時、死について話すことは縁起が悪いとされていました。

ところが弘昼は生前から自分の葬式を何度も行います。屋敷に祭壇を作り、棺桶に入って家来たちに泣かせ、その声を聞いて楽しんでいたと言われています。

また、自分の寝室にはたくさんの供え物を飾っていました。まるで死者のような扱いです。

そのため人々は「荒唐王爺」(デタラメ王)とあだ名しました。 

荒唐王爺
荒唐無稽の荒唐です。
意味は「とりとめのないこと、根拠のないこと、デタラメ」。「爺」は老人ではなくて「地位の高い男性」の意味です。

弘昼のおかしな行動は朝廷の内外で議論を巻き起こしました。でも乾隆帝は弘昼を責めたりはしません。

詩人でもあった弘昼

弘昼はたくさんの詩を作りました。

その中に「黄金の詩」とよばれるものがあります。その中で弘昼は「私は皇位を争いたいのではない、ただ願うのは酒を飲んで歌って楽しい時を過ごしたいのだ」と述べました。

この詩は後世には「命の詩」と言われました。

乾隆帝は弘昼が自分の地位を脅かす存在ではないと考えました。

 

弘昼の死因の謎

弘昼の最期は?

歴史上の弘昼は、決して評判の良い人物とは言えませんでした。そのため、ドラマでは悪役として描かれ、悲惨な死を迎えることもあります。

史実でも、乾隆帝が弘昼の屋敷を訪れた数日後に亡くなっていることから、「もしかして乾隆帝が何か命令をしたのでは」と考える人がいても不思議ではありません。

乾隆帝による暗殺説の真相

ドラマでは「問題ばかり起こす弘昼を、ついに乾隆帝が粛清した」という流れで描かれています。

確かにドラマとしては面白いかもしれません。でも中国の王朝では、皇族を処刑する場合は生前に位を剥奪し、自害させるのが通例でした。さらに死後も位は剥奪されたままとなり、子孫が継承することも許されません。

ところが、弘昼は死後も「和親王」として記録され、息子がその地位を継いでいます

もし乾隆帝が弘昼を殺めていたなら歴史書にその事実が記されているはずです。

また問題児であった弘昼を処刑したとしても、皇帝の威信が傷つくことはなかったでしょう。つまり、暗殺を隠蔽する必要はなかったのです。

真実は病死?

そうした理由で弘昼は病死した可能性が高いです。

酒好きだった弘昼は、飲み過ぎが原因で命を落としたのかもしれません。あるいは、日頃の暴飲暴食が祟ったとも考えられます。

乾隆帝の複雑な胸中

確かに弘昼は問題行動も多かったのですが、皇帝の地位を脅かすようなことは一切ありませんでした。

計画的なのか、それとも本当に愚かだったのかは分かりませんが、乾隆帝はそんな弘昼に莫大な財産を与え多少のトラブルも許していました。

もしかしたら乾隆帝にとって弘昼は手を焼くけれど憎めない、愛すべき弟だったのかもしれません。

 

テレビドラマの弘昼

瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜

 2018、中国
 演:洪堯

瓔珞での弘昼の描かれ方

傍若無人な皇族

乾隆帝異母弟なので権力を笠に着て傍若無人な振る舞いが目立ちます。

特に女性に対しては欲望をあらわにし強引な態度を取ることが多いです。ヒロイン 魏瓔珞(ぎえいらく)のを死に追いやったのも弘昼でした。

マザコンの一面

母親である裕太妃(ゆうたいひ)に溺愛されています。その影響のせいか精神的に未熟な部分があります。

母親の言いなりになることが多く、自らの行動に責任を持たない傾向があります。

コミカルな要素

その奇抜な行動や言動がコミカルな要素として描かれ、ドラマに緩急をつける役割も担っています。

途中からは今までの行いを後悔し改心していく姿も描かれています。

史実との違い

史実の弘昼は奇行が目立つ人物でしたが、ドラマのように悪逆非道な人物だったわけではありません。

ドラマでは弘昼の悪行が強調されています。これは物語をドラマティックにするための脚色です。

 

如懿伝〜紫禁城に散る運命の王妃〜

 2018、中国
 演:王啸

如懿伝ではあまり出番はありません。

 

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