侯君集(こうくんしゅう)は唐の太宗 李世民に仕え吐谷渾や高昌との戦いで功績をあげた将軍です。
凌煙閣二十四功臣(建国に功績のあった臣下)のひとりにもなっています。
しかし思慮の足らなさか、野心があるのか何度か問題を起こしています。そして李承乾の謀反に加わり処刑されました。
中国の歴史書では野心家と書かれています。
史実の侯君集はどんな人物だったのか紹介します。
侯君集の史実
いつの時代の人?
国:唐
生年月日:不明
没年月日:643年
唐の第2代皇帝太宗・李世民に仕えた武将です。
日本では飛鳥時代になります。
家族
母:竇娘子
妻:不明
侯君集:若き日の武勇から玄武門の変での活躍まで
おいたち
侯君集の一族は豳州三水県(現在の陝西省咸陽市旬邑県)出身。
両親や生年はわかりません。
侯君集は若い頃は武芸の才能に乏しく、やや軽薄なところがありました。でも隋の末期に李世民の配下に入ってからは、その才能を開花させます。
李世民の側近として頭角を現す
李世民に従って各地を転戦。数々の手柄を立てる中で、侯君集は次第に李世民から信頼されるようになります。
重要な政務の計画にも参加し、左虞候、車騎将軍という要職を任されるまでになりました。
玄武門の変での決定的役割
626年。唐の皇太子・李建成と弟の李世民の対立が激化。
李建成は李世民の側近であった尉遅恭を味方に引き入れようとしましたが失敗。焦った李建成は、尉遅恭を暗殺しようと試みます。
この状況を受け尉遅恭と侯君集は李世民に「このままでは命が危ない。李建成との関係を断つべきです」と早く決断するよう進言。二人の強い言葉を受け、李世民はついに決断します。
そして玄武門の変が勃発しました。
侯君集は自ら兵を率いて宮廷を制圧し、唐の高祖と朝臣たちを抑えました。尉遅恭らは李建と弟の李元吉の一族を殺害しました。
侯君集の太宗時代の活躍
李世民の即位後の昇進
玄武門の変により李世民は皇帝に即位しました。侯君集は、その功績により左衛将軍、潞国公に任命され。多くの恩賞を与えられました。その後も昇進を重ね、右衛大将軍という最高位の武官にまで上り詰めたのです。
630年。兵部尚書になって朝廷の政治に参加しました。
吐谷渾との戦い
唐の西には吐谷渾(とよくこん)という遊牧民国家がありました。
吐谷渾は西域につながる交易路を支配していたので南北朝や隋の時代から何度も周辺国と戦っていました。隋の時代に衰えていたものの唐の時代になって吐谷渾の力が強くなってきたので討つことになりました。
侯君集は副将としてこの戦いに参加します。
李靖の副将として活躍
635年、李靖率いる唐軍は吐谷渾へ侵攻。
すると吐谷渾は牧草地を焼き払って撤退しました。牧草が焼き払われると馬の餌が足りなくなります。ほとんどの武将は撤退を主張しましたが、侯君集は精鋭部隊による奇襲を進言。敵の意表を突く作戦を成功させます。
慕容伏允は敗れて砂漠へ逃走。侯君集は李道宗と共に南側から追撃を開始しました。夏にもかかわらず霜が降り雪が残る厳しい気候の中、侯君集は2,000里以上の長距離追撃を敢行。各地で吐谷渾軍を破り、多くの戦果を挙げました。
侯君集は河の源流まで到達した後、李靖と合流、見事に吐谷渾討伐を成功させました。
文官としても才能を発揮
戦いの後。侯君集は陳州刺史、陳国公に任命され、その功績を称えられました。
また学問にも励み吏部尚書として官吏の選抜にも携わるなど、文官としても才能を発揮しました。
吐蕃との戦いにも出陣しました。
高昌との戦いと投獄
唐と高昌の対立、侯君集の討伐
7世紀、唐と西域を結ぶ重要な交易路に位置するオアシス都市国家・高昌(現在の新疆ウイグル自治区トルファン)が、唐との通商を妨害しました。
639年、唐の太宗は高昌王・麹文泰に釈明を求めましたが、彼は病気を理由に応じませんでした。
太宗は侯君集を総大将に任命し、高昌討伐を命じました。
640年、唐軍が到着すると、麹文泰は既に亡くなっており、息子の麹智盛が王位を継いでいました。
高昌攻略
麹文泰の葬儀のため、高昌の民が集まっていました。部下たちは奇襲を提案しましたが、侯君集は正々堂々とした戦いを主張し、城を包囲しました。
降伏勧告に応じない麹智盛に対し、侯君集は攻城兵器を駆使して城を攻撃しました。麹智盛は西突厥が援軍に来ないので降伏を決意しました。
しかし侯君集は高昌を占領。麹智盛とその臣下を捕虜として長安へ連行しました。
高昌での不正と処罰
侯君集は高昌を滅ぼした後。皇帝・李世民に報告することなく、罪のない人々を流刑にしたり、高昌の宝物を私物化しました。
部下たちもそれを真似て略奪を始めましたが、侯君集は自身の不正が露見することを恐れ、彼らを罰することができませんでした。
都に戻ると侯君集は略奪で訴えられ投獄されました。
釈放
中書侍郎の岑文本は、漢の李広利や陳湯の例を挙げ、侯君集の功績を考えて罪を許すよう太宗に進言しました。
太宗はこれを受け入れ、侯君集を釈放しました。
略奪は罪?
しかし侯君集は大きな功績を上げたにもかかわらず逮捕されたことに不満を抱いていました。当時の戦争では略奪や拉致は珍しいことではなく、侯君集は「なぜ自分だけが罪に問われるのか」と感じていたのかもしれません。
ただし、君主によっては略奪や拉致を厳しく禁じる者もいました。
遊牧民の軍団では戦利品は共有されるべきものであり、私物化は許されませんでした。
侯君集の行いは政敵による言いがかりの可能性もありますが、当時の慣習から見ても「やりすぎ」と捉えられたのでしょう。
張亮との口論と凌煙閣
643年春。侯君集は張亮と口論になり、投獄されたのは陰謀ではないかと主張しました。張亮はこのことを太宗に報告しましたが、太宗は裏付けのない個人的な言い争いとして問題にしませんでした。
その後、太宗は凌煙閣二十四功臣の肖像画を作成し、その中に侯君集も含まれていました。
皇太子・李承乾の謀反
皇太子の焦りと侯君集の誘い
643年。皇太子・李承乾は廃太子になることを恐れていました。
643年。皇太子・李承乾は、父・太宗が弟の李泰を寵愛し、皇太子を交代させるのではないかと不安を抱いていました。そこで、李承乾は部下たちとクーデターを計画しました。
この計画に侯君集の義理の息子で李承乾の護衛隊長を務める賀蘭楚石も加わりました。
李承乾は以前から不満をもっていた侯君集に目をつけ、賀蘭楚石を通じて侯君集を誘い侯君集も計画に参加することになりました。
侯君集の苦悩と妻の忠告
しかし侯君集は計画に加わったことを後悔。不安から不眠症に悩まされるようになりました。
妻は侯君集の異変に気づき、
と忠告しました。しかし、侯君集は自首しませんでした。
謀反計画がバレる
その後、李承乾の部下である紇干承基が別の事件で捕まりました。
紇干承基は罪を軽くするために、李承乾の計画を暴露しました。
侯君集の最後
これにより李承乾の計画に関わった者は全員捕まり李承乾は流罪。侯君集を含む参加者は死罪となりました。
李世民は侯君集の功績を考慮し死罪を避けようとしました。しかし群臣の強い進言により、やむなく処刑を決断しました。
侯君集は処刑される前、役人に訴えました。
太宗はその訴えを聞き、侯君集の妻子は助けました。しかし財産は没収して広東地方にに追放しました。
まとめ
侯君集は若き日に李世民の側近として頭角を現し、玄武門の変での活躍を経て、唐の建国に大きく貢献しました。
その後も、吐谷渾討伐や高昌国攻略などで武勇を発揮、文官としても才能を開花させました。
しかし高昌国での不正行為や皇太子・李承乾の謀反への加担により、その生涯を終えることとなりました。
侯君集は大きな功績をあげたにもかかわらず、人生の最後で大きな過ちをおかしてしまいました。
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