婁昭君は本当に悪女だったのか?北斉を支えた女傑の知られざる真実

婁昭君 6 南北朝
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婁昭君(ろうしょうくん)は北魏・東魏の宰相・高歓の妻。北斉の建国者・高演の母。
鮮卑族の名家に生まれ、聡明さと美貌を兼ね備えた女性でした。

彼女は自らの意志で高歓を夫に選び、夫の反乱参加や地位向上を支え続けます。渤海王妃、そして皇太后として、婁昭君は夫や息子たちの政治活動に深く関わり、時には国の命運を左右する決断を下しました。

しかし息子たちの相次ぐ死や権力闘争に巻き込まれる中で、彼女は深い悲しみと怒りを経験します。

中国ドラマ「後宮の涙」にも登場。史実とはかなり違う悪女・ラスボス的存在として描かれます。

この記事では、婁昭君の生涯を辿りながら、彼女が北斉の歴史に果たした役割を詳しく解説します。

 

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婁昭君の史実

どんな人?

姓:婁(ろう)→石(せき)
名前:昭君(しょうくん)
国:北魏→東魏→北斉
地位: 王妃→王太妃→皇太后→太皇太后→皇太后
生年月日:501年
没年月日:562年5月20日
享年:62歳

 

北斉系図

北斉 皇家 家系図

北斉 皇家 家系図

家族

父:婁内干(ろうないかん)
母:
夫:高歓
子供:
北斉文襄帝 高澄
北斉文宣帝 高洋
北斉孝昭帝 高演
襄城景烈王 高淯
北斉武成帝 高湛
博陵文簡王 高濟
魏孝武帝皇后(永熙皇后)
魏孝靜帝皇后(太原長公主)

日本では古墳時代末期になります。

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婁昭君のおいたち

婁昭君(ろうしょうくん)は、鮮卑の貴族・真定侯 婁提(ろうてい)の孫にあたり、贈司徒 婁内干(ろうないかん)の娘として生まれました。

鮮卑(せんぴ)
もとはモンゴル高原にいた遊牧騎馬民族。匈奴に敗れた東胡の末裔。漢の時代以降に中原に移住。北魏などの王朝を建てました。

婁家はその地域で大変裕福な名家として知られ、多くの使用人や数えきれないほどの家畜を所有していました。婁内干は気前が良く、困っている人々を助けることを惜しまなかったため多くの知識人たちと親しい交流があったそうです。

婁昭君は幼い頃から聡明だったので、その美しさから多くの名家が彼女を妻に迎えたいと願いました。

でも彼女はどの求婚者にも心を惹かれることはありませんでした。

 

自分で夫を選ぶ

ある日、婁昭君は城壁の上で兵士として立っていた高歓という男性を見かけました。彼の堂々とした姿に、婁昭君は高歓の堂々とした姿に強く惹きつけられ「この人こそ未来の夫だ」と心の底から感じました。

婁昭君は侍女を高歓のもとに送り、自分の気持ちを伝えました。さらに何度も高歓に贈り物を届けました。彼女のひたむきな想いと行動は高歓の心を動かし、ついに両親も二人の結婚を許しました。

 

夫が反乱に参加

孝昌元年(526年)。杜洛周(とらくしゅう)が上谷で反乱を起こしました。

高歓は反乱に参加。杜洛周の部下になりました。杜洛周の敗北後、高歓は朝廷軍の爾朱栄(じしゅえい)に仕えました。

高歓は財産を全て使って様々な人々と交流を深め朝廷でも地位を得ることに成功。婁昭君は夫のあらゆる計画に深く関わり、彼を支え続けたのです。

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渤海王妃になり夫を助ける

531年。夫の高歓渤海王に任命され、婁昭君も渤海王妃となりました。婁昭君は厳格で質素な生活を好み、身の回りの世話をする者もわずか十人ほどでした。

高歓が北魏の大丞相になる

532年。高歓は大丞相・柱国大将軍・太師に任命され朝廷のトップに立ち。その後は、後廃帝を廃して孝武帝を擁立。自身は北魏の実質的な支配者となりました。婁昭君も王妃として夫を支え、政治にも深く関わるようになりました。

北魏が東と西に分裂

534年。北魏東魏西魏に分裂。

537年。高歓は沙苑の戦いで西魏の宇文泰に敗れてしまいます。高歓の部下である侯景は、2万の騎兵を与えられれば必ず勝利できると主張したので高歓は悦びました。

しかし婁昭君は「侯景の言葉に従えば、彼は今後も忠誠を尽くすでしょうか?宇文泰を捕らえても、侯景を失うことは何の利益にもなりません。」と反対。高歓は婁昭君の言葉を聞き入れ、侯景に兵を与えませんでした。

 

婁昭君、国のために夫に正妻を迎えさせる

545年。西魏は強大な柔然と同盟。東魏を攻撃しようとしました。

柔然(じゅうぜん)
鮮卑が中原に移動した後にモンゴル高原を支配した遊牧民国家。

高歓は柔然と和睦を決め、柔然の王・敕連頭兵豆伐可汗(ちょくれんとうへいとうはつかがん)阿那瑰(あなかい)の娘を世子の高澄に嫁がせてほしいと頼みました。

しかし柔然王は「高歓自身が娘と結婚するなら」と条件を出します。高歓は困惑しましたが、義兄の尉景、婁昭君、高澄は国の利益を優先して柔然の王女と結婚するように勧めました。

王女 郁久閭氏が嫁いでくると婁昭君は自分の部屋を王女に提供しました。

高歓は常に自分を愛してくれた妻が国のためにここまでしてくれることを知り、高歓は深く恥じて婁昭君に跪いて謝罪しました。

 

2年の間に夫と息子を失う

547年。夫の高歓が亡くなると、息子の高澄渤海王を継ぎました。婁昭君太妃(たいひ)の尊称で呼ばれるようになりました。

しかし549年、高澄から降伏した蘭京に暗殺されてしまいます。

婁昭君は2年の間に夫と長男を失い悲しみに打ちひしがれます。

北斉が建国。婁昭君が皇太后になる

次男・高洋(こうよう)高澄の仇を討つと後継者の地位を固め。翌年の550年には高洋孝静帝 元善見から位を奪い北斉(ほくせい)を建国。高洋は文宣帝(ぶんせんてい)として即位しました。

婁昭君皇太后(こうたいごう)となり、婁昭君が住む宮殿は「宣訓宮(せんくんきゅう)」と呼ばれました。

このように婁昭君は夫と息子たちの死を乗り越え、皇太后として北斉の歴史に関わっていくことになります。

北斉建国後の婁昭君

息子 高洋の栄光と堕落

婁昭君の息子、文宣帝 高洋は国を豊かにするため尽力しました。農業を奨励し、学校を建て、法律を整備し、優秀な人材を登用。周辺諸国との戦いにも連勝。名君と呼ばれるにふさわしい活躍を見せました。

しかし、働きすぎたせいか次第に心身のバランスを崩し酒色に溺れ、かつての勇敢さや聡明さを失ってしまいます

 

母子喧嘩

ある日、婁昭君は変わり果てた息子を見て、悲しみと怒りで杖で激しく打ちつけ「どうしてこんな息子になったのか!」と嘆きました。

文宣帝 高洋は酔った勢いで「お前を異人の嫁にしてやる!」と暴言を吐き、婁昭君を怒らせてしまいます。

少し冷静になった高洋は母親を喜ばせようと持ち上げましたが、誤って転ばせて怪我をさせてしまいました。

酔いが覚めた高洋は自分の行いを大変後悔して火の中に飛び込んで自殺を図りますが、婁昭君に止められます。

その後、高洋は家臣に自らを鞭打たせ禁酒を誓いますが、結局酒をやめることはできませんでした。

 

乾明の変

高洋の死と新たな権力闘争

559年。高洋が亡くなると皇太子の高殷(こういん)が15歳で皇帝になりました。

祖母の婁昭君太皇太后、高殷の母の李祖娥(りそが)は太后になります。

高洋は亡くなる前に弟の高演(こうえん)高湛(こうたん)が反乱を起こすと心配していました。そこで楊愔(よういん)ら4人重臣に高殷を補佐し安全を守るように命じました。

婁昭君は幽閉されてしまう

楊愔らも高演と高湛の勢力が強すぎることを恐れ警戒。高洋の葬儀の間、高演が代わりに政治を行いましたが、楊愔らは彼らを都から遠ざけようとしました。しかし高演と高湛は都に残り力を蓄え始めました。

そんな中、侍中の燕子献(えんしけん)婁昭君を北宮に幽閉、彼女の権力を奪い李祖娥垂簾聴政(すいれんちょうせい)をさせようとしました。

高演と高湛の反乱

北斉の権力争い

  • 恩賞の乱発と不満:557年以降、北斉では爵位の恩賞が乱発。国庫を圧迫していました。楊愔は自ら爵位を返上し、他の人々の恩賞も取り消しました。すると不満を持つ者が増え、彼らは高演に取り入ろうとしました。
  • 高演・高湛の排除計画:楊愔らは高演と高湛を都から追放しようと計画、太后の李祖娥に計画を説明しました。
  • 密告と反撃:しかし李祖娥と同族の宮女 李昌儀(りしょうぎ)がこの計画を婁昭君に密告します。
反乱を決意
密告により計画を知った高演高湛は先手を打つことにしました。高演と高湛は昇進することになっていたので就任祝いの宴で楊愔らを排除することにします。

 

高湛の策略と楊愔の捕縛

560年4月4日。高湛は家来を隠して宴会を開き楊愔たちを罠にかけます。

宴会の席で高湛は楊愔たちを捕らえました。楊愔が「王たちが反乱を起こし、忠臣を殺そうとしている!」と叫ぶと、高演は決心が揺らぎ彼らを助けようとしましたが、高湛に止められました。

その後、高演は楊愔たちを婁昭君のもとに連れていきました。

婁昭君は昭陽殿に堂々と座り、その側では李祖娥皇帝 高殷が怯えながら立っていました。

高演は「楊愔たちが朝廷を混乱させている」と訴え、彼らを処刑するよう婁昭君と高殷に求めました。

高殷の弱さと婁昭君の怒り

当時、殿内には2000人以上の衛士がおり、武衛将軍の娥永楽(がえいらく)高殷を守る覚悟でした。領軍将軍の劉桃枝(りゅうとうし)も高殷と李祖娥に期待を寄せていました。というのも高演に従う兵は80人ほどしかいなかったのです。

しかし高殷は臆病で恐怖のあまり怯えきって自分を守ろうとする娥永楽や劉桃枝に命令を出すことができません。

すると婁昭君が先に口を開き娥永楽らに退くように命じます。

娥永楽が動かずにいると婁昭君は厳しい口調で

「愚か者!言うことを聞かないと首を斬るぞ!」

と叱りつけました。

娥永楽は失望と悲しみで涙を流しながら2000人以上の衛兵と共にその場を去ったのでした。

楊愔の処分

婁昭君は連行された者を見て「楊愔はどこだ?」と尋ねました。家臣が「片方の目が潰れてしまいました」と答えると、婁昭君は悲しんで「彼に何ができるというのか。目が見えるようにしておいてあげればよかったのに」と嘆きました。

次に婁昭君高殷に向かって「楊愔らは謀反を企て私の息子たちを殺し私まで殺そうとしたのに、なぜお前は彼らを許したのだ?」と問い詰めました。しかし高殷は恐怖で何も答えることができませんでした。

婁昭君は今まで自分がないがしろにされた怒りと悲しみで「あなたたち母子に好き勝手にさせてなるものか」と言うと、李祖娥は顔面蒼白になり地面に跪いて謝罪しました。

すると婁昭君李祖娥を慰め「安心しなさい。高演は謀反を企てているわけではない。彼はただ身を守ろうとしただけだ」と言いました。

高演も高殷に何度も謝罪しました。婁昭君は高演を指して高殷に「なぜ六叔父(高演)を慰めてあげないのか?」と尋ねました。

すると高殷は「私は六叔に憐れみを乞う勇気もありません。楊愔の命を気にかける余裕などありません。どうか私の命だけは助けて、ここから逃がしてください。楊愔らは六叔に任せます」と答えました。

高殷の言葉を受け、高演は楊愔らを処刑することを決めました。

数日後。婁昭君は楊愔の葬儀に参列しました。婁昭君は悲しんで「楊愔は皇帝に忠誠を尽くしたために死んだのだ」と言い、自ら黄金で作られた眼球を楊愔の眼窩に入れました。

高殷の廃位と孝昭帝 高演の即位

乾明元年8月3日(560年9月8日)。婁昭君高殷廃位して済南王とし、別の宮殿に移しました。

高演を皇帝として即位させ孝昭帝としました。婁昭君皇太后に、李祖娥昭信皇后となりました。

高殷の処刑に怒り

婁昭君は高殷の殺害には反対。「決して高殷を殺してはなりません」と何度も高演に忠告しました。

しかし高演は密かに晋陽宮で高殷を殺害してしまいます。

その後、高演は不注意から肋骨を骨折、婁昭君が見舞いに訪れます。婁昭君は高殷の安否を気遣い高演に尋ねました。しかし高演は目をそらし何も答えることができません。

婁昭君は三度尋ねましたが高演はついに口を開きませんでした。

婁昭君は高演の態度から高殷が死んだのを知り激怒「もう殺したのね?答えなくていい。もう死んだことは分かっている!」

と、婁昭君は高演を激しく叱りました。

婁昭君は高演が自身の忠告を聞かずに高殷を殺害したことに、深い悲しみと怒りを覚えたのです。

武成帝 高湛の即位

皇建2年(561年)。高演が亡くなり、遺詔で高湛が武成帝として即位。

婁昭君は引き続き皇太后となりました。

婁昭君の最後

太寧二年(562年)の春、婁昭君は病に倒れます。その際、衣服がひとりでに舞い上がるという不思議な現象が起こったため、婁昭君は巫女の言葉に従い、姓を石氏に改めました。

河清元年4月2日(562年5月20日)。婁昭君は息を引き取りました。婁昭君は高歓と共に義平陵に埋葬されました。

その後、婁昭君の諡号は「献明皇后」から「武明皇后」に改められました。

まとめ

婁昭君は激動の時代を生き抜き、北斉建国に大きく貢献した女性です。夫・高歓の偉業を支え、二人の息子を皇帝に押し上げました。

しかし、その道のりは決して平坦ではありません。夫と息子たちの死、そして権力闘争の中で、婁昭君は常に冷静な判断力と強い意志を持ち続けました。

彼女の生涯は、愛と悲しみ、そして権力が複雑に絡み合ったドラマのようです。

婁昭君は北斉という短い王朝の中でひときわ輝く星のように、その名を歴史に刻んだのです。

 

ドラマ

後宮の涙 2013年、中国 演:劉雪華
 史実とは全く違う形で表現されています。

蘭陵王 2013年、中国 演:李文玲 役名:皇太后
 蘭陵王を可愛がる優しいおばあさん。

 

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