武成帝・高湛(こうたん)は北斉の第四代皇帝。
中国ドラマ「後宮の涙」ではチェン・シャオが演じました。ドラマでは正義感あふれる皇子として登場する高湛ですが。史実ではどうだったのでしょうか?
史実の高湛も美貌と才能を兼ね備えた皇子でした。若いころは順調に出世街道を爆進!しかし、皇位をめぐるドロドロの争いに巻き込まれ波乱の人生を送ることになります。
皇帝になってからは、善政を敷いたかと思えば、寵臣・和士開を信用しすぎて国政を放置したり…。宣祖になれば抜群のリーダーシップを発揮したり。とらえどころのない人物です。
この記事では、高湛の生い立ちから最期まで史実を紐解きながら、彼の生涯を紹介します。
武成帝 高湛の史実
どんな人?
諱:湛(たん)
地位: 北斉 皇帝
称号:武成皇帝
廟号:世祖
在位:561年12月3日—565年6月8日
没年月日:569年1月13日
享年:32歳
北斉の第4代皇帝です。
日本では古墳時代末期になります。
高湛の家系図

北斉 皇帝一族 家系図
家族
母:婁昭君
子供:13男3女
高湛のおいたち
高湛は東魏の天平4年(537年)に高歓と婁昭君の間に生まれました。
父の高歓は東魏の権力者
高湛は幼い頃からその美しさで父の高歓に溺愛されました。当時、高歓は懐荒鎮に勤務しており、息子のために柔然の皇太子 庵羅辰の娘・郁久閭叱地連と婚約させました。
高湛はわずか8歳にしてその堂々とした立ち振る舞いで周囲を驚かせました。服装や帽子は正しく着こなし、表情は静かで奥深く漢人や西域の人達も彼に驚いたといいます。
母は婁昭君
母は高歓の妻・婁 昭君(ろう しょうくん)。鮮卑の出身。東魏の重臣・婁内干の娘。物事をはっきり言い、決断力のある女性で、婁昭君が高湛を好きになって夫に選びました。
高歓との間に6男2女をもうけ、高湛は九男でした。
順調な出世
東魏の元象年間(538年~539年)には高湛は長広郡公に任命され。北斉が建国されると長広王になり。進爵、尚書令、司徒、太尉と順調に出世を重ねていきます。
しかし順風満帆に見えた高湛の人生も決して平坦な道のりではありませんでした。
皇位をめぐる争い
北斉の2代皇帝 廃帝 高殷と重臣の楊愔は高湛と高演を警戒し遠ざけようとします。そこで高湛は高演と密かに協力し、楊愔を討ってしまいます。
婁太皇太后の命令で高殷は廃され、高演が孝昭帝(こうしょうてい)に即位。高殷は処刑されました。
高湛は太傅、録尚書事、京畿大都督に任命され国政を任されることになりました。さらに右丞相に昇進した高湛は高演が晋陽にいたことから、首都の鄴城を任され北斉の政治を主導していくことになります。
しかし高演が自分の息子 高百年(こうひゃくねん)を皇太子にしたことで不満を募らせます。かつて高演は高湛に皇太弟を約束していたからです。
高湛、皇帝への道!
兄の遺言、そして即位へ
皇建2年(561年)。高湛の兄・孝昭帝 高演が重い病に倒れました。
高湛は密かに甥の高元海(こうげんかい)や高帰彦(こうきえん)らと「兄上がダメになったら、俺たちが立ち上がって帝位を奪おうぜ!」などと計画を立てていました。
しかし、占い師に「今、兵を挙げるのはマズい」と言われ計画を中止しました。
そういう不穏な雰囲気を知った兄の孝昭帝 高演は臨終の際、自分の息子が高殷のように殺されないように、弟の高湛に「帝位を譲るから、息子は殺さないでくれ」と頼みました。
そして孝昭帝 高演が死去。兄の遺言に従って高湛が皇帝になりました。
武成帝 高湛:善政から暗愚へ?
新体制スタート!
大寧元年(561年12月3日)。高湛は南宮で正式に即位。
天下に大赦令を出し新しい役職を決め、孝昭帝の息子 高百年(こうひゃくねん)を楽陵郡王に任命。
次のような政策を行いました。
- 地方巡察の実施:大使を全国に派遣し、地方官の政治状況や民の苦しみを調査。
- 賢良な人材の登用:能力のある人材を積極的に抜擢し、昇進させる。
高湛が当初は民を想い、国を良くしようと努力していました。
しかし彼の心は次第に別の方向へと傾いていくのです。
寵臣・和士開との出会い
高湛の運命を大きく変えたのが寵臣・和士開(かしかい)との出会いです。和士開は西域出身の商人を祖先に持ち握槊(すごろくの一種)が得意な男でした。
高湛は即位前から握槊が好きで和士開の腕前に目を留めました。和士開は握槊だけでなく、機転の利く性格と胡琵琶の演奏といった多才ぶりで高湛の心を掴みます。
異常なまでの寵愛
高湛は和士開を異常なまでに寵愛しました。
- 身分を超えた親密な関係:「あなたは仙人だ」などと互いを褒め称え、君臣の礼を逸脱。
- 和士開の諫言:高湛は喘息持ちで飲酒をして発作を起こしていました。和士開は諌めましたが高湛は聞きません。高湛が次に酒を飲もうとした時は和士開は言葉をつまらせ何も言いません。そこでようやく高湛は酒を飲むのを止めました。
- 国政への介入を許す:「過去の帝王は皆灰になった。若いうちに思う存分楽しみ、国家の大事は全て大臣に任せるように」と勧めました。そのため高湛を堕落させた張本人と言われます。
- 皇后との私通:高湛の皇后・胡氏と密通しました。
寵愛が招いたもの
これらの行動から高湛が和士開にどれほど警戒心がなかったか分かります。
しかし、この寵愛は高湛自身を破滅へと導くだけでなく、北斉の国政を大きく乱すことになるのでした。
高湛は次第に政治に関心がなくなり国政は乱れていきました。そして高湛の死後、北斉は急速に衰退していくのです。
高湛と和士開の関係は皇帝と寵臣の関係を超え異常なまでに親密でした。その関係は国を滅ぼすほどの負の力を持っていたのです。
北斉の武闘派皇帝!?高湛の軍事手腕を徹底解剖!
でも高湛はただ堕落していたた皇帝ではありません。軍事では抜群の才能を持っていました。
国内の反乱は速攻で鎮圧!
高湛の軍事センスが光ったのは即位直後のこと。彼を皇帝にした功労者である叔父の高帰彦がまさかの裏切り!冀州で反乱を起こしたのです。
しかし高湛は慌てません。大司馬の段韶と司空の婁睿を派遣し、あっという間に鎮圧。高帰彦は捕らえられ息子たちもろとも処刑されました。
北周との激戦!洛陽を守り抜け!
高湛の治世、北斉は北周との戦いに明け暮れました。特に564年、北周軍が洛陽に迫った時は、まさに国家存亡の危機でした。
しかし高湛はここでも持ち前のリーダーシップを発揮。自ら晋陽から南下し、太師の段韶とともに北周軍を撃破!洛陽の包囲を解いたのです。この勝利で高湛は軍事的な才能を証明しました。
突厥との戦いは苦戦!?
北周との戦いの一方で、高湛は突厥の侵攻にも悩まされました。突厥軍は幽州に侵攻し長城を突破して略奪を繰り返しました。
これに対して高湛は防衛に苦慮した様子が伺えます。突厥軍の侵攻を完全に防ぎきることはできず、領土の一部を奪われることもありました。
高湛はただの暴君じゃなかった!
高湛といえば酒と女に溺れた暴君というイメージが強いかもしれません。
しかし、彼は国内の反乱を迅速に鎮圧し北周との戦いでは勝利を収めるなど、軍事的な才能も持ち合わせていました。
もちろん突厥との戦いでは苦戦するなど課題もありました。しかし高湛がただの堕落した皇帝でなかったことは戦いの記録が証明しています。
高湛の最後
彗星の出現と譲位への道
565年3月。彗星が夜空に突如現れました。古来より彗星は不吉な出来事の前兆とされてきました。
案の定。太史官が
と、なんともそれっぽいことを上奏したのです。
高湛は、この上奏を「天意」と受け止めたのでしょうか。それとも何か別の思惑があったのでしょうか。彼は「天象に応じる」という名目のもと、皇太子・高緯に譲位を決意します。
6月8日。高湛は高緯に譲位しました。同時に大赦を行い、年号を天統に改めました。さらに、高緯の妃である斛律氏を皇后にして、自らは太上皇帝となりました。
太上皇帝としての権力と最期
でも高緯は9歳です。高湛は譲位後も太上皇帝として実権を握り続けました。軍事や政治の重要事項は、すべて彼に報告され彼の承認が必要だったのです。
しかし、その権力も長くは続きませんでした。
569年1月13日。高湛は鄴宮の乾寿堂で死去。享年32歳。若すぎる死でした。
諡号は武成皇帝、廟号は世祖とされました。
同年3月27日、永平陵に埋葬されたのです。
高湛の譲位、その真意とは?
高湛が譲位を決意した背景には様々な要因があったと考えられます。
彗星の出現と太史官の上奏、そして彼の健康状態。それもあったのでしょう。
一番大きな原因は皇太子・高緯の器量に不安を感じていたとも言われています。譲位後も実権を握り続け高緯を補佐しながら高緯に経験を積ませ北斉の安定を図るためだったのかもしれません。
しかし、彼に残された時間は思ったより短かったのです。
高湛の死後、朝廷の政治は和士開と高緯の乳母・陸令萱によって動かされることになります。
武成帝・高湛の冷酷非情エピソード
武成帝・高湛は美形で有能。皇帝としても奸臣に惑わされなければソコソコ優秀…というイメージがあるかもしれません。
でも高湛には冷酷で疑り深い一面もありました。
兄さえも…高湛の冷酷エピソード
高湛の冷酷さが際立つエピソードといえば、異母兄の高浚と高渙を陥れた事件でしょう。
兄の文宣帝 高洋が皇帝だった頃、異母兄の高浚と高渙は濡れ衣を着せられ一年間も地下牢に閉じ込められていました。
ある日、文宣帝は二人に歌を歌うよう命じました。恐怖で声も震える二人を見た文宣帝は、さすがに可哀想になって釈放しようとしました。しかし高湛は次のように言いました。
この言葉に、文宣帝は黙り込みました。二人は高湛に「天が見ているぞ!」と恨み言を吐いたそうです。周りの者は皆、涙を流したと言います。
その後、高浚と高渙は文宣帝の命令で処刑されました。
疑心暗鬼?高湛の慎重すぎる一面
高湛は、疑り深い男でもありました。
孝昭帝 高演が亡くなった時も、王松年が発表した遺詔を簡単に信用しなかったのです。
晋陽に向かう前に、まず側近の河南王 高孝瑜に宮中の禁衛兵を交代させ、それからようやく入城したというのですから、その慎重さがうかがえますよね。
高湛、二つの顔
高湛は冷酷な一面と慎重すぎる一面、二つの顔を持っていました。
高湛はいい面と悪い面があります。もしかすると繊細で疑り深い、ちょっと面倒くさい男だったのかもしれませんね。
ドラマ
後宮の涙 2013年、中国 演:陳曉、鄭偉
ドラマの高湛は婁昭君の子でではなく、高歓のもう一人の妻・郁久閭氏(郁皇后)の息子になってます。
史実では武成帝は母の婁昭君が亡くなったとき、喪服を着ずに酒を飲み音楽を演奏させていたといいます。親子の仲は良くなかったようです。ドラマでは婁昭君は母ではないという設定になっているのも、そのせいかもしれません。
蘭陵王 2013年、中国 演:何中華
独孤伽羅 2018年、中国 演:王爭
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