雍正帝(愛新覚羅 胤禛)は大清帝国の第5代皇帝。
その雍正帝の皇后と側室は、記録に残るだけでも合計32人いました。この記事ではドラマに登場する妃嬪を中心に。清朝第5代皇帝である雍正帝の私生活を支えた女性たちの素顔や、有名な歴史ドラマでどのように描かれているのかを紹介します。
ドラマでの描かれ方と史実を比較することで、さらに彼女たちの人生や当時の宮廷生活を理解できると思いますよ。
雍正帝と後宮の制度
雍正帝の生没年

雍正帝の肖像画
まずは雍正帝の基本的な情報を紹介。
- 生年:1678年12月13日(康煕17年)
- 没年:1735年10月8日(雍正13年)
- 皇帝在位 1722~1735年。
- 享年58。
妃嬪たちとの年齢差もみてみると面白いかもしれませんよ。
雍正帝本人の詳しい紹介はこちらを御覧ください。
・雍正帝・胤禛 過労死で倒れた勤勉な独裁者の生涯
後宮制度
清朝の皇帝には、皇后が一人、そして多くの側室がいました。側室には「皇貴妃」「貴妃」「妃」「嬪」「貴人」「常在」「答応」「格格」といった細かな位階がありました。
それぞれの位階には序列と人数制限があります。位が高いほど後宮での発言力も増しました。産んだ子供の身分にも影響しました。
雍正帝の正室
孝敬憲皇后 烏喇那拉氏(ウラナラ)氏

孝敬憲皇后 烏喇那拉氏
- 地位:嫡福普 → 皇后
- 生年:1681年(康煕20年)
- 没年:1731年(雍正9年)
- 享年:51
- 皇后在位:1723~1731年。
- 民族:満洲人
孝敬憲皇后の出自と雍正帝との出会い
孝敬憲皇后 烏喇那拉(ウラナラ)氏は、満洲正黄旗の名門出身です。康熙30年(1691年)。彼女が10歳のときに当時まだ皇子であった胤禛(いんしん)と結婚しました。胤禛の嫡福晋(正妻)として彼を支え続けました。
皇后としての役割と苦悩
烏喇那拉氏は穏やかで物分かりの良い性格だったと伝えられています。康熙36年(1697年)には長男の弘暉(こうき)が生まれますが、残念ながら8歳で亡くなりました。
雍正帝が即位すると彼女は皇后となります。でも最愛の息子を失った悲しみや後宮の複雑な人間関係の中で、決して幸せだけではなかったようです。雍正9年(1731年)に病気で亡くなりました。
孝敬憲皇后のドラマでの描かれ方
ドラマ「宮廷女官 若曦」「宮廷の茗薇」「花散る宮廷の女たち」では、第四皇子 胤禛の嫡福晋として登場します。多くの場合、控えめで「いい人」として描かれていますが、あまり幸せそうには見えません。
一方、ドラマ「宮廷の諍い女」では皇后 烏喇那拉氏が二人いる設定です。ドラマ開始時にはすでに故人である姉が嫡福晋で、彼女の死後に妹が皇后になったという設定です。この妹の皇后はヒロインの鈕祜禄・甄嬛(ニオフル・しんけい)と激しく対立する悪役として描かれています。
「如懿伝」のヒロイン烏喇那拉・如懿(にょい)は、この皇后 烏喇那拉氏の姪という設定です。彼女は皇后の遺言を受け復讐を誓うことになります。
このようにドラマでは史実とは違う脚色が加えられることも多く、その違いを知るのも歴史ドラマの楽しみの一つですね。
子供
- 端親王 弘暉
雍正帝の側室
敦粛皇貴妃 年氏
- 地位:側福晋→貴妃→皇貴妃
- 生年:不明
- 没年:1725年(雍正3年)
- 享年:?
- 民族:漢人
敦粛皇貴妃 年氏:悲劇の寵妃の生涯
敦粛皇貴妃 年(ねん)氏は、雍正帝が皇子時代からの側室(側福晋)です。彼女は漢軍鑲白旗の出身で、兄には清朝の重要人物である将軍の年羹堯(ねん・こうぎょう)がいました。
雍正帝が即位すると年氏は異例の速さで「貴妃」になりました。生前の最高の称号は「皇貴妃」です。死の直前に皇貴妃に封じられたため、ほとんどの期間は貴妃として過ごしました。「敦粛皇貴妃」は死後に贈られた称号です。
年氏は雍正帝から深く寵愛されましたが体が弱く、産んだ4人の子供たちは皆幼くして亡くなるという悲劇に見舞われました。彼女の死後、雍正帝は非常に悲しんだと伝えられています。
ドラマで描かれる年氏:華妃との比較
ドラマ「花散る宮廷の女たち」のヒロイン年姝媛(ねん・しゅえん)は、敦粛皇貴妃 年氏がモデルです。しかし、ドラマの中での彼女と皇太子との恋愛関係は史実にはありません。
「宮廷の諍い女」では華妃 年世蘭(ねん・せいらん)として登場します。彼女はヒロインをいじめる悪役として描かれ、視聴者に強い印象を与えました。
「宮廷の茗薇」では、茗薇と対立するものの雍正帝の危機には協力する場面もありました。ドラマによって描かれ方が違う点も、歴史ドラマの魅力ですね。
子供:
- 皇四女(夭逝)
- 福宜(夭逝)
- 懐親王福恵(夭逝)
- 福沛(夭逝)
4人の子供を生みましたがいずれも幼くして死亡。
熹貴妃 鈕祜禄(ニオフル)氏
- 生年 1692年1月2日(康煕30年)
- 没年 1777年3月2日(乾隆42年)
- 享年 86
- 民族:満洲人
熹貴妃 鈕祜禄氏:乾隆帝の生母としての絶大な影響力
熹貴妃 鈕祜禄(ニオフル)氏は後の乾隆帝の生母です。雍正帝が皇子だった頃は「格格」(妾)でした。側室時代は皇后や年貴妃よりも地位が低かったのですが、息子である弘暦(こうれき)が康熙帝からも寵愛され、早くから後継者候補と噂されていたため彼女の立場は徐々に強くなっていきました。孝敬憲皇后が亡くなると後宮で最も影響力を持つ存在となります。
彼女は清史上、最も皇帝から大切にされた皇太后と言われています。乾隆帝からの深い孝行を受け、86歳という当時の女性としては非常に長命を全うしました。西太后も鈕祜禄氏の待遇に憧れました。
ドラマで描かれる鈕祜禄氏:甄嬛のモデルと史実のずれ
ドラマ「宮廷の諍い女」のヒロイン、鈕祜禄·甄嬛は彼女がモデルです。ただし劇中の甄嬛は元々「甄玉嬛」という漢人という設定。後に「鈕祜禄·甄嬛」という名前を与えられるという脚色が加えられています。実在の鈕祜禄氏は満洲人です。
「如懿伝」「瓔珞」では皇太后 鈕祜禄氏として登場します。歴史上は乾隆帝の生母であるにもかかわらず、ドラマや小説ではことごとく養母にされるなど、気の毒な描かれ方をされることが多い妃嬪です。これは乾隆帝を漢民族の母親から生まれたことにしたいという、中国人の願望のため。
子供
- 皇四子 弘暦(乾隆帝)
裕妃 耿氏
- 格格→裕妃→裕太妃→純懿皇貴妃
- 生年 1689年12月14日(康煕28年)
- 没年 1785年1月27日(乾隆49年)
- 享年 97
- 民族:漢人
驚異的な長寿を全うした妃
非常に長生きした妃。当時としては驚異的な高齢。息子は問題行動の多い和親王 弘昼。鈕祜禄氏にうまく取り入って後宮での地位を築きました。
雍正帝時代の側室として登場することは殆どありません。
「瓔珞」では和親王 弘昼の母・裕太妃として登場します。
子供
皇五子 和親王 弘昼
斉妃 李氏
- 格格→斉妃
- 生年 1676年(康煕15年)
- 没年 1737年(乾隆2年)
- 享年 62
- 民族:漢人
しかし弘時が将軍 年羹堯から借金をしたり問題行動が多かったので、雍正帝によって追放されてしまいます。弘時追放後は斉妃の影響力も大きく落ちてしまいました。
ドラマ「宮廷の諍い女」にも登場しています。
子供
- 皇二女 和碩懐恪公主
- 皇二子 弘昀(夭逝)
- 弘昐(夭逝)
- 皇三子 弘時
謙妃 劉氏
- 生年 1714年(康煕53年)
- 没年 1767年(乾隆32年)
- 享年 54
- 民族:漢人
子供
- 皇六子 果郡王弘曕
寧妃 武氏
- 生年 不明
- 没年 1737年(乾隆2年)
- 享年 不明
- 民族:漢人
彼女については詳しい生没年や子女の記録があまり残っていません。これは彼女の地位が比較的低かったことや、子がいなかったことなどが影響していると考えられます。当時の下位の妃嬪は記録が少ないことが一般的でした。
懋嬪 宋氏
- 生年 不明
- 没年 1729年(雍正8年)
- 享年 不明
子供
- 皇長女(夭逝)
- 皇三女(夭逝)
貴人 李氏
- 生年 不明
- 没年 1760年(乾隆25年)
小説やドラマでは乾隆帝の生母として描かれることがあります。ドラマ「宮廷の諍い女」や「如懿伝」では「李金桂」という名前で登場し、乾隆帝の生母とされています。
しかし史実では李貴人には子供はいませんでした。これは、漢民族を乾隆帝の親にしたいという、中国人の願望から生まれた脚色です。史実と作り話の区別は、歴史を楽しむ上で大切なポイントです。
その他の側室。
他にも雍正帝には
貴人 5人
常在 6人
答応 6人
格格 4人
の側室がいました。いずれも詳しい記録は残っていません。
まとめ
清朝第5代皇帝 雍正帝の皇后と側室について詳しく解説しました。正室の孝敬憲皇后から、敦粛皇貴妃 年氏、熹貴妃 鈕祜禄氏といった寵愛を受けた妃嬪たち。その他の側室たちの人生を簡単に紹介しました。
人気の歴史ドラマで描かれる妃嬪たちの姿と、史実との違いにも焦点を当てました。
雍正帝の側室たちは皇帝の飾りではありません。それぞれが人生を歩み、清朝の歴史に確かな足跡を残しました。この記事を通して彼女たちの魅力や、当時の女性たちの生き方に興味を持ってもらえたなら嬉しいです。
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