尉遅迥(うっちけい)は西魏・北周の重臣。彼の生涯と最後を紹介。宇文泰の親族として厚い信頼を得、弱冠30代で大将軍に昇進。最大の功績である「蜀の平定」から、対北斉戦での殿軍としての活躍、そして北周末期の政変で楊堅に抗い自害するまでの、栄光と激動の歩みをまとめました。
この記事で分かること
- 宇文泰の甥であり皇帝の娘婿という、北周における圧倒的なエリート背景
- 困難な地形を克服し、南朝・梁から蜀の地を奪取した卓越した軍事戦略
- 敗戦の中でも殿(しんがり)を務め上げ、味方を救った責任感と勇気
- なぜ国の重鎮であった彼が、死を覚悟して楊堅への挙兵に踏み切ったのか
尉遅迥(うっちけい)の史実
尉遅迥の基本プロフィール
- 姓:尉遅(うっち、尉遲)
- 名:迥(けい)
- 字:薄居羅(はくきょら)
- 本貫:代郡
- 生年:516年
- 没年:580年
家族
- 父:尉遅俟兜(うっち しとう)
- 母:宇文泰の姉(のちに長楽公主)
- 正室:金明公主(西魏文帝の娘)
- 後妻:王氏
- 子:尉遲誼、尉遲寬、尉遲順
- 孫:尉遲熾繁(順の娘)
尉遅迥の一族
尉遅氏は鮮卑の貴族。
尉遅迥の祖先は北魏の皇族・拓跋氏から別れた一族です。尉遅部と名乗ったところから尉遅を姓としました。
父・尉遅俟兜は宇文泰の姉と結婚
父の尉遅俟兜(うっち・しとう)は寛大で人を見る目に長けた人物でした。北周の文帝・宇文泰の姉である昌楽大長公主を妻に迎え、尉遅迥と尉遅綱の兄弟を授かりました。
しかし尉遅俟兜が7歳のとき父は病死。そのとき迥と綱の兄弟をよんで「お前たちには貴人の相がある。残念ながら私はそれを見届けることはできないが、互いに励み、精進しなさい」と言い残して亡くなったと言います。
母は宇文泰の姉
尉遅迥の母は北周の事実上の創始者といえる宇文泰(文帝)の姉・昌楽大長公主です。尉遅迥は宇文泰の甥になるわけです。そのため尉遅迥は宇文泰から厚い信頼を寄せられ若くして宿衛(近衛兵)として側に仕えることができました。
若い頃の尉遅迥:北魏に生まれ西魏で頭角を現すまで
尉遅迥は北魏の時代516年に生まれました。幼い頃から聡明で容姿も端正。将来を期待される若者でした。尉遅迥は宇文泰・独孤信らよりは一回り後の世代。宇文護とは同世代。楊堅よりは一世代前の人物です。
535年に西魏が建国。
西魏は皇帝はいるものの実権は宇文泰が握り、武川軍閥出身の有力者が八柱国となって国を支えていました。尉遅迥はその中にあって宇文氏を支える身内として長く重用されました。この宇文氏とかなり近い関係が後に尉遅迥と楊堅の対立のもとになります。
成長した尉遅迥は私財を投じて困窮した人々を助け、知識人を厚遇して人望を集めます。その才能を見込まれて西魏の文帝の娘を妻に迎え、皇帝の娘婿となりました。
戦場では叔父の宇文泰に従って弘農奪還や沙苑の戦いなどで次々と武功を挙げます。尉遅迥は才能を高く評価され、異例の速さで朝廷の要職を歴任しました。行政や軍事の両面で優れた実務能力を発揮したため宇文泰から絶大な信頼を寄せられ、30代半ばにして大将軍の地位にまで登り詰めました。
蜀の平定
尉遅迥の人生で最も輝かしい功績は「蜀(現在の四川省)地方の平定」です。
梁の内乱に介入して蜀方面を平定

540年ごろの西魏
当時、南方の王朝であった「梁」は、部下の侯景による大規模な反乱(侯景の乱)によって大混乱に陥っていました。中央の統制が完全に失われ、地方の有力者が自立していく中、西魏はこの隙を見逃さず南方への影響力拡大を狙って介入を開始します。このとき宇文泰は蜀を攻めるか諸将に相談した所否定的な意見が多かったのですが、尉遅迥は賛成。尉遅迥が遠征軍を率いて蜀を攻めました。
553年。彼は軍を率いて剣閣を越え蜀の地に攻め入りました。難所として知られる地形を克服し短期間でこの広大な地域を制圧しました。これによって西魏の領土は南に大きく伸びることになります。
以下の地図は北周時代のものですが、540年ごろの西魏より南に大きく伸びているのは蜀の地を獲得したことも大きな理由です。

北周成立後の地位と重臣としての役割
556年に宇文泰が死去。557年に宇文覚が即位して北周が成立。
尉遅迥は柱国大将軍になりました。その後、大司馬へと昇進。隴右の地を守備します。
芒山の戦いで北周軍が苦戦する中、殿軍を務める
保定2年(562年)。晋公 宇文護が北斉を攻めると尉遅迥も軍を率いて洛陽を攻めました。この戦いでは、北斉の斛律光や蘭陵王 高長恭らの活躍により、北周軍は混乱し敗走してしまいます。しかし尉遅迥は兵を率いて踏みとどまり、敵を食い止めたため、他の部隊の被害を抑えることに成功。他の将軍たちは無事に撤退することができました。
この功績により太保、さらには太傅へと昇進。
建徳年間(572年〜578年)の初期には太師に任命され、まもなく上柱国の位を加えられました。
この戦いで活躍した北斉の武将、蘭陵王 高長恭や斛律光については以下の記事もご覧ください。
宣政元年(578年)。宣帝・宇文贇(うぶん・いん)が即位すると、相州総管となり。孫娘の尉遅熾繁は、宣帝の皇后の一人となります。
楊堅との決戦・北周末の政変と尉遅迥の決断
迫り来る国難と楊堅の野心
580年。北周の宣帝が崩御して静帝 宇文衍が即位。幼い静帝を補佐しt外戚の楊堅が朝廷の全権を掌りました。楊堅は尉遅迥を恐れて相州総管の座から外し都への帰還を命じますが。長年北周を支えてきた尉遅迥はこれが彼から軍権を奪うためのものと気づきます。さらに楊堅が帝位を奪おうとしていると考え強い危機感を抱きました。
「匡復の志」に集った義兵たち
大象2年(580年)。尉遅迥は本拠地・鄴で楊堅を討ち、周室を救うために挙兵しました。彼は城壁に登り、集まった将兵や民衆を前に、楊堅の不忠不義を激しく糾弾。
「楊堅は幼主を脅かし、天下を私物化している。私は周室と血縁にあり、国難を傍観することはできない。今こそ義士と共に国を正そう」
この熱い訴えに、皇族や各地の諸将が次々と応じ、その勢力は数十万に達しました。尉遅迥は北周の危機に立ち上がった最後の希望でした。
誇り高き決戦と壮烈な最期
尉遅迥の挙兵に対して、楊堅は韋孝寛(い・こうかん)の軍を派遣。の軍に対し、尉遅迥は老骨に鞭打ち、自ら甲冑に身を固めて戦場の最前線に立ちました。
彼が率いる「黄龍兵」は、一時は討伐軍を圧倒する勇戦を見せます。しかし韋孝寛の攪乱作戦により軍が混乱すると次第に劣勢へと追い込まれ、鄴に籠城します。
韋孝寛は鄴を包囲。尉遅迥は最後は鄴の城楼に登り自ら弓を手に敵を討ちましたが。最後は追い詰められて自害しました。
歴史に刻まれた「不屈の忠義」
挙兵から68日という短い戦いでしたが。尉遅迥の死は、北周という国家が最後まで持っていた「誇り」の終焉でもありました。
後に唐の高祖の時代になり。北周の忠臣として認められ改葬が許されました。
尉遅迥の乱の経過と結末
誰が呼応し、どのように戦線が広がったか
尉遅迥の挙兵に呼応し、司馬消難(しば しょうなん)や王謙(おう けん)といった各地の総管が次々と立ち上がりました。戦線は現在の山東、河南、湖北、四川にまで及び、北周の領土の半分近くが楊堅に反旗を翻す事態となりました。
しかし、この広域反乱には致命的な弱点がありました。各地の勢力が地理的に分散しており、統一された指揮系統や共同戦略を欠いていたのです。それぞれの勢力は個別に戦わざるを得ず、楊堅軍に対して各個撃破される隙を与えることになりました。
なぜ尉遅迥の反乱は失敗したのか?
尉遅迥が挙兵すると司馬消難や王謙など各地で挙兵。その数は数十万になり。北周の領土の半分近くが楊堅に反旗を翻す事態となりました。なぜ尉遅迥は敗北したのでしょうか?しかしこの反乱には致命的な弱点がありました。
- 戦力が分散してまとまって動けない
各地の勢力が分散していてまとまって活動することができなかったのです。それぞれの勢力は個別に戦うしかなく。楊堅軍によって個別に撃破されていきました。 - 「中央」と「地方」の圧倒的な格差
また楊堅は都の正規軍と指揮命令系統を完全に抑えています。いくら尉遅迥が「正義」を掲げても、国家の軍を動かせるのは都にいる楊堅でした。 - 尉遅迥の高齢化
尉遅迥はすでに高齢(60代中ば)で判断を側近に委ねることが多く、かつてのような軍事的な強さは失われていたと伝えられています。
まとめ:尉遅迥はどんな人物だったのか
尉遅迥は、西魏から北周にかけての国家建設期を支え、蜀の平定という大功を立てた名将でした。
歴史はどうしても勝った楊堅の立場からみてしまい、彼が反乱を起こして負けたと言われがちですが。
尉遅迥にとっては楊堅こそが皇位を奪おうとするものであり。尉遅迥は北周を守るために戦ったという思いがあったでしょう。
結果として敗北。楊堅を止める者はいなくなり隋の誕生は決定的となるのでした。

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