宣帝 宇文贇(うぶん いん)は北周の第4代皇帝です。歴史上は酒色に溺れた暴君とされますが、法律整備や宗教政策も行いました。
しかし即位からわずか2年で北周は滅亡。楊堅が隋を建国してしまいます。
この記事では史実の宇文贇の生涯や後宮や政策、北周滅亡との関わりまでをわかりやすく解説します。
北周の他の皇帝は 北周の歴代皇帝一覧 からご覧ください。
宣帝・宇文贇の史実
いつの時代の人?
- 生年月日:559年
- 没年月日:580年6月22日
- 在位:578年-579年
- 姓:宇文(うぶん)
- 名称: 贇(いん)
- 称号:宣帝
同時代の君主
宣帝 宇文贇は中国南北朝時代末期の人物で、北周の第5代皇帝。日本では飛鳥時代になります。
同時代の主要君主(579年ごろ)
大陸 | |
南朝:陳 | 宣帝 陳頊 |
突厥 | 他鉢可汗 |
朝鮮半島 | |
高句麗 | 平原王 |
百済 | 威徳王 |
新羅 | 真平王 |
日本 | |
倭(やまと) | 敏達天皇 |
家族
- 父: 武帝 宇文邕
- 母:李娥姿
- 妃
- 天元大皇后(楊麗華)
- 天大皇后(朱満月)
- 天中大皇后(陳月儀)
- 天左大皇后(尉遅熾繁)
- 天右大皇后(元楽尚)
- 王姫
- 皇甫姫
- 高氏
- 子供:宇文衍ほか2男1女
北周皇帝の系図

北周 宇文氏皇帝系図
おいたち
559年。宇文贇(うぶん いん)は同州(現在の中国陝西省渭南市)で生まれました。父は魯国公で後の武帝 宇文邕、母は妻の李娥姿。
560年。父 宇文邕が北周皇帝になりました。翌年561年には宇文贇が魯国公に任命され、572年4月には皇太子になります。このとき13歳。
573年。武帝から西域の視察を命じられました。同じ年。隋国公 楊堅の長女・楊麗華と結婚しました。
574年。文宣太后 叱奴氏が死去。武帝は喪の期間の政治を皇太子 宇文贇に任せます。喪が開けて50日後に再び武帝が政治を行いました。武帝が視察に出かけるときは朝廷の政治を宇文贇に任せることが多かったようです。
吐谷渾遠征で王軌に告げ口される
576年2月。武帝の命令を受けて吐谷渾(とよくこん)討伐に向かいました。武帝は軍の指揮は王軌に任せ、宇文贇は彼に従うだけでした。
あるとき宇文贇は軍中で鄭譯とともに不適切な行為をしました。
帰還後に王軌らは武帝に報告。武帝は激怒して宇文贇を鞭で打ち、鄭譯の官職を剥奪し棒で打ち据えました。そのため宇文贇は王軌を恨みました。
重圧と父からの家庭内暴力
北周の歴代皇帝は宇文護のような強い重臣との対立に悩まされてきました。武帝は宇文贇が皇帝の重責に耐えられないのではないかと心配します。さらに王軌のように宇文贇の廃位を進言する重臣もいました。
そこで武帝は宇文贇をさらに厳しく躾けました。
武帝の行った厳しすぎる教育
- 毎朝の朝見で大臣と同じ作法をさせ、酷暑や厳冬でも休ませない
- 宴席でも酒を禁止、臣下にも皇太子への酒の贈与を禁止。
- 失敗すれば鞭や棒で打ち、体に痣が残るまで叩く。
- 「皇太子はいつでも廃せる」と公言
- 宦官に日常の行動を監視・記録させる
その結果、宇文贇は廃太子になるのが怖くて規則通りの行動をするようになりましたが。本音を言わなくなりました。
心の変化
でも厳しすぎる武帝の教育は逆効果でした。従順さではなく、憎しみを育てました。
やがてその反動は武帝の死後に宇文贇の行動や政策となって実現したのです。
父への最後の言葉
578年6月。武帝が崩御。。
宇文贇は棒で殴られて足についた傷跡をさすりながら、悲しむことなく武帝の棺に向かって次のように叫びました。「ようやく死んだか!」と。
こうして押さえつけるものがなくなった宇文贇は、今までの憂さを晴らすかのように好き放題するようになります。
宣帝の時代
規則では先帝が死去すると1ヶ月の喪に服しなければいけません。でも宇文贇は武帝が死去した翌日に即位。先帝の正室・阿史那氏を皇太后。生母の李娥姿を帝太后にしました。息子の宇文衍を皇太子にしました。
10日後。武帝を埋葬して喪服を着るのを止め、即位式を行いました。
先代からの重臣を粛清
武帝依頼の重臣を粛清。北斉の討伐で功績のあった宇文憲を嘘の罪で処刑。かつて武帝に皇太子に廃位を進言したことのある王軌を処刑しました。
宣帝は宮殿を五色の土で飾ったり、洛陽に豪華な宮殿を建てたりしました。
過剰に重い刑罰を行いました。とくに鞭打ちの刑を好みました。自分の寵姫にも罰を与え、鞭の跡が残ることもありました。これは宣帝が父から受けていた体罰そのものです。自分が受けた痛みを他の者に与えているのです。
法律を作る
悪評ばかり目立つ宣帝ですが何もしなかったわけではありません。
新しい法律を作り各州や郡に役人を派遣しました。
- 犯罪者を裁くときは法律通りにしなければいけない。
- 母方の喪があけた者は再婚できる。
- 棒による罰則は法律どおりに行わなければいけない。
- 泥棒が出て捕まえられなかったときは報告しなければいけない。
- 過去に官職にいたもので今は民間にいる者で、文武の才能があるものは名乗り出ること(再就職の斡旋)。
- 州は才能のある博学者を推薦すること。
- 郡は親孝行な者は表彰すること。
- 70歳以上の高齢者には給料(年金みたいなもの)を与える。
- 未亡人、身寄りのない貧しい人を救済する。
など
宮廷内では問題行動も多い宣帝ですが。民衆のことを何も考えなかったわけではないようです。
宗教への弾圧を緩める
父の武帝は儒教を崇拝、仏教・道教は弾圧しました。宣帝は仏教と道教を一部許可。仏像や道教の神と一緒に自分を祀らせました。自分の権威を上げるために宗教を利用したのです。長安と洛陽に一つずつ寺を復活させました。
祖先祭祀用の食器を普段の食器に使いました。これは儒教に対する挑戦です。
父が重視した儒教に挑戦的な態度をとり、武帝が行った仏教や道教弾圧を緩めたのは父親への反発もあったのでしょう。
譲位する宣帝
579年2月。宣帝は1年足らずで長男・宇文衍(静帝)に譲位、太上皇帝となりました。宇文衍はまだ7歳なので、実権は宇文贇が握っていました。
5人の皇后
自らは「天元皇帝」と名乗り、楊麗華には「天元皇后」の称号を与えました。それだけでなく4人の側室にも皇后の称号を与えました。
中国王朝では普通は皇后は1人ですが、北周は鮮卑や匈奴系の遊牧民が建てた国です。遊牧民の一夫多妻制の風習が影響しています。実際、匈奴系の後趙や前趙の皇帝も複数の皇后を持つことがありました。
宣帝には正室と側室も合わせると8人の女性がいました。武帝は正室は一人でしたが側室もいれると8人以上の女性がいました。
宣帝の後宮に特別女性が多かったわけでではなく、他の中国皇帝も多くの側室がいます。違いは位の高い妃にも皇后の称号を与えたのです。その結果、皇后が二人以上なのは漢人や儒教を信じる人からは違和感があったでしょう。
宣帝は酒を飲み、女性たちと遊んでいました。ところが妻たちを大切にしたかというとそうではなく。自分への服従を強制し、従わないと暴力を加えました。皇后が5人もいるので女性たちの争いも激しくなったようです。
楊麗華と喧嘩して独孤伽羅が土下座
天元大皇后(楊麗華)は他の妃たちの争いには加わらず距離をおいていたようです。
楊麗華は宣帝を怒らせても受け答えが冷静でそれがさらに宣帝を怒らせました。宣帝は楊麗華に罰を与えようとしましたが、それを聞いた独孤伽羅が宣帝に土下座して謝ることもありました。
ドラマでは独孤伽羅が勇ましく宣帝を叱る場面ですが、実際には独孤伽羅が額を床に擦り付けて懇願したようです。
こういったことも楊堅・独孤伽羅夫妻が宇文一族の王朝を見限る原因の一つになったのでしょう。
宇文贇の最後と死因
580年5月。宣帝が死去。享年22。
死因は不明。遊びすぎて不摂生な生活で体を壊した。といわれますが。本当のことはわかりません。宣帝自身もこれほど早く死んでしまうとは思わなかったでしょう。
あとを継いだのは8歳の静帝・宇文衍でした。幼い皇帝の補佐を任されたのが楊堅です。宣帝の死後。楊堅は1年もしないうちに反乱を起こして皇帝になってしまいます。宣帝が事実上の北周最後の皇帝です。
まとめ
宣帝・宇文贇は酒色に溺れ残酷な皇帝と描かれます。
酒好き、女好きで情緒が不安定で暴力を振るう皇帝だったのでしょう。もともと奔放な性格だったのを武帝が厳しくしつけすぎたせいで余計に性格が歪んでしまったようです。
でも。王朝の最後の皇帝は悪く書かれがちです。宣帝も典型的な王朝末期の暴君として描かれています。
これは中国では反乱を起こして新しく王朝を作った者を正当化するため。滅びた王朝の最後の皇帝を必要以上に悪く書くからです。また儒教の価値観を否定する皇帝は必ずと行っていいほど悪い皇帝として描かれます。これは歴史書を書くのが儒教を学んだ知識人だからです。
もちろん。楊堅の独裁を招いたのは宣帝の責任です。有能な皇帝でなかったのは確かでしょう。武帝の功績が大きかっただけに臣下たちの落胆も大きかったかもしれません。
宣帝が即位してわずか2年で北周は滅びてしまいます。2年で急に悪くなったというより、戦争続きで国が疲弊して不満がたまっていたところに宣帝が即位してさらに悪くなったのかもしれません。
歴史書に書かれた宣帝は悪い部分が誇張された姿かもしれません。
ドラマ
・独孤伽羅~皇后の願い~(原題:独孤天下)
2018、中国 演:劉帥
・独孤皇后
2019、中国 演:王新宇
北周の他の皇帝や王朝の全体像を知りたい方は、こちらの 北周の歴代皇帝一覧 からご覧ください。
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