明帝 宇文毓(うぶんいく)は北周の第2代皇帝。
宇文護によって即位させられたものの、自ら政治を行い人々から人望を集めました。その結果、宇文護に毒殺されてしまう悲劇の皇帝です。
でも彼の死は北周の歴史に大きな影響を与えました。最終的に彼の選択が宇文護を倒し北周を最盛期に導くことになります。
明帝・宇文毓の生涯を詳しく見ていきましょう。
北周2代皇帝 宇文毓とはどんな人物か?
基本情報
- 名称: 宇文 毓(うぶん いく)
- 称号: 明帝(追諡)
- 生年:534年
- 没年:560年
宇文毓が生きた時代は日本では飛鳥時代にあたります。
家族
宇文毓の家系図
宇文毓の父・宇文泰は北魏の国境を守る武川鎮軍閥の総帥。西魏では大冢宰(宰相)となり実権を握りました。宇文毓は宇文泰の長男ですが、母は側室です。そのため北周初代皇帝にはなれませんでした。

宇文毓の生い立ち
北魏で誕生
宇文毓は永熙3年(534年)に生まれました。
宇文毓は北周の礎を築いた実力者宇文泰(うぶんたい)の長男でした。
父 宇文泰が夏州へ赴いたときに統万城で誕生したため幼名を統万突(とうまんのとつ)と名付けられました。
幼少期は西魏で育つ
大統14年(549年)。寧都郡公に任命され3千戸の土地を与えられました。大統16年(551年)には華州の政務を代行しています。その後は開府儀同三司都督宜州諸軍事宜州刺史といった役職を歴任し地方行政に携わりました。
西魏恭帝3年(556年)。23歳で大将軍に任命され、隴山より西の地域を守備しました。これは彼が軍事的な才能も持ち合わせていた証拠ですね。
北周建国で弟が皇帝になる
孝閔帝元年(557年)正月。宇文護によって西魏の皇帝が廃されました。宇文護は宇文泰の子供を次の皇帝にしようとします。
宇文毓は長男ですが側室の子でした。そのため正妻の子である異母弟の宇文覚(うぶんかく)が即位したのです。
宇文毓は柱国の地位を与えられ岐州諸軍事岐州刺史へと転任しています。
宇文毓は岐州での仕事で素晴らしい実績を上げ、民衆から深く感謝されました。地方官としても経験を積みました。
宇文毓 有能さが光る治世の始まり
皇帝即位への道のり
孝閔帝元年(557年)9月。晋公 宇文護は孝閔帝を廃位しました。
宇文護は自分の勢力がまだ十分ではないと感じたため、自ら皇帝になることはしません。岐州に使者を送り宇文毓を迎え入れて即位させます。9月27日に宇文毓は都に到着。9月28日には天王(皇帝)の位につき国の囚人を赦免しました。
この時代の北周では皇帝のことを天王と呼んでいました。
武成元年8月(559年10月1日)。宇文毓は天王という称号だけでは天下を統率するのに足りないと考え、皇帝と名乗ることに改めました。
父 宇文泰を文皇帝と追尊し、全国に大赦を行い年号を武成と定めています。
これは宇文護からの権限移譲が進んだことや、君主としての権威を高めようとする宇文毓の強い意志を表していますね。
学術文化への貢献
宇文毓は即位後に学問の素養がある80名以上の人々を麟趾殿に集め経史の校訂を行いました。宇文毓は学問への理解も深かったようです。また多くの書物を集め『世譜』全500巻を編纂しました。彼自身も大変な読書家で、文章に優れ10巻の著作を残しています。
これらの出版は当時の学術文化の発展に大きく貢献しました。
さらに在位中には漢の文化が広まりを加速させたと言われています。これは後の北周武帝が漢文化を学ぶ基礎を築いたとも言えるでしょう。
積極的な政治と民への配慮
宇文毓は在位中に国を豊かにするために努力し、民衆から慕われました。彼は寛容な人柄で臣下との関係も良好だったため人望は日ごとに高まります。
宇文毓は主体性があり、宇文護に擁立されたにもかかわらず彼の言いなりになろうとはせず、自ら政務を執ることを強く望んでいたのです。
彼の政治は節約を重んじ、絹織物や刺繍彫刻品の使用を禁じました。また役人の汚職を厳しく取り締まり、不正のない政治を確立しようと努めています。
軍事と行政の改革
明帝2年(558年)。宇文毓は雍州に12の郡を設置するよう命じました。各地に新たな州を設置しています。3月には雍州刺史を雍州牧に京兆郡守を京兆尹に改めました。4月には長安から万年県を分離し京城に役所を設けました。行政機構を整えようと努力したことがわかります。
武成元年(559年)3月。吐谷渾(とよくこん)が北周の国境を侵犯しました。3月23日宇文毓は大司馬で博陵公の賀蘭祥(がなんながよし)に軍を率いて吐谷渾を討伐させます。
5月 賀蘭祥は洮陽(とうよう)と洪和(こうわ)の二郡を攻略し吐谷渾を退却させました。
傀儡を望む宇文護との確執 権力闘争の深層
宇文護が宇文毓を即位させた背景
宇文護は宇文泰の甥です。彼は宇文泰が亡くなった後その絶大な権力を引き継ぎ若い皇帝たちを思い通りに操ろうとしました。最初の皇帝宇文覚は宇文護の言いなりになることを嫌い、彼を排除しようとします。
でもこの動きを知った宇文護は宇文覚を廃位、自分にとって従順だろうと考えた宇文毓を新しい皇帝に擁立したのです。
宇文護が権力を返上した理由
でも、宇文毓も宇文護のいいなりにはなろうとしませんでした。宇文護は彼が賢く有能であることを知って、武成元年(559年)正月21日に政権を返還しました。
これにより宇文毓は自ら国政の一部を執り行い、改革を進め始めます。でも兵権は依然として宇文護の手に握られていました。
宇文護は宇文毓を操りにくい皇帝だと感じ始めます。
なぜ宇文護は宇文毓の有能さを恐れたのか
宇文毓は宇文護の予想を超える「有能な皇帝」でした。外見は穏やかでしたが内面は賢く主体性があったのです。彼の学術の振興や、行政改革、軍事面での毅然とした対応などで実績を重ね、宇文毓は民衆の支持を集め人望を高めていきます。
宇文護は皇帝を自分の言いなりにして権力を維持しようと思っていました。でも宇文毓のように自ら積極的に政治を動かし人望を集める皇帝は、宇文護にとって非常に邪魔な存在でした。
皇后の死と宇文護の影響
558年。宇文毓の妻・明敬皇后 独孤氏は宇文護が政敵である独孤信を粛清した直後に亡くなりました。
死亡時期が近いので明敬皇后の死も宇文護が関係しているのではないか?という疑いがあります。はっきりした証拠はありませんがこの時代の権力争いの激しさを物語るエピソードと言えるでしょう。
暗殺の真相と宇文毓が遺した最期の言葉
毒殺の経緯
武成2年(560年)4月。宇文護は宇文毓を操るのは難しいと感じ、ついに毒殺を計画します。
李安という人物が料理の腕前で宇文護に寵愛され膳部下大夫に昇進していました。宇文護は密かに李安に命じ宇文毓の食事に毒を盛らせたのです。
4月(5月29日)。宇文毓は重体に陥りました。宇文毓は自分が宇文護に毒を盛られたのだと気づきました。
「生死は必然」最期の遺言
毒が回り死期を悟った宇文毓は弟の魯国公 宇文邕(うぶんよう)に帝位を継がせるという遺言を口述しました。
「生死は必然のことだ。私は未熟ではあったが書物を読み聖人や賢人たちと論議を重ね民の心を知ろうと努力した。でもまだ分からないこともある。家臣の皆が父である太祖宇文泰の頃からよく仕え働いてくれたことに感謝している。私は在位4年を過ぎたがまだ天下を統一できていないのが残念だ。皆で協力し太祖皇帝の遺志を成し遂げてほしい。私の子供はまだ幼く国を治めるには不十分だ。弟である魯国公の宇文邕は寛容で情け深く度量も大きい。どうか魯国公邕を支え天下人にしてほしい。」
出典:「資治通鑑·巻一百六十八·陳紀二」
この遺言は彼の最後の作戦と言えるかもしれません。
自身の死を目前にしても国の将来を心配し、幼い息子たちではなく有能な弟宇文邕に帝位を託すことで宇文護の横暴を牽制し北周の未来を安定させようとしたのでしょう。
明帝 宇文毓の最期
武成2年(560年)4月辛丑の日(5月30日)宇文毓は延寿殿で亡くなりました。享年27歳でした。
宇文毓が亡くなった後、宇文毓が残した遺言があったため宇文護はそれを変更することができず、宇文邕を帝位につかせるしかありませんでした。
これにより武帝 宇文邕が即位しています。宇文邕は即位後に宇文毓を明皇帝と追諡し廟号を世宗とし昭陵に葬りました。
なぜ息子ではなく弟・宇文邕に帝位を託したのか
彼には息子がいました。でも彼が次期皇帝に指名したのは幼い息子ではなく、すでに成人した弟でした。
宇文毓は家族を大切にする人物でしたが、弟の宇文邕とは特に仲が良かったと言われています。
彼は宇文邕の才能を理解していました。自らの死を招いた宇文護の暴走を止めるには宇文邕のような人物しかいないと考えたのでしょう。
彼のこの決断が後に宇文護を粛清し北周を最盛期に導く武帝・宇文邕の誕生へと繋がっていくのです。
短い生涯が北周に与えた影響
彼の短い生涯は北周に重要な影響を与えました。彼が示した政治手腕は家臣や民衆に大きな期待を抱かせました。
そして彼の死の直前の遺言が後の武帝・宇文邕の即位と宇文護を打倒するきっかけを作ったの間違いありません。彼のやる気と有能さが皮肉にも死を招きましたが、その死は北周の未来を大きく左右したのです。
悲劇の末裔 宇文毓の子どもたちの運命
楊堅による皇族粛清
明帝・宇文毓には長男の畢剌王 宇文賢次男の酆王 宇文貞三男の宋王 宇文実という3人の息子がいました。いずれも母は側室です。
父が宇文護に殺害された後も彼らは生き延びました。長男の宇文賢は後に太師という高い位についています。また娘の河南公主は尉遅綱の子である尉遅敬(うつち けい)に嫁ぎました。
でも北周の末期になると重臣 楊堅(ようけん)が力を持ち始めます。
580年。楊堅が独裁的な権力を握ると宇文賢は楊堅を排除しようと試みました。でもこの企みは失敗に終わり、宇文賢は楊堅に殺害されてしまいます。
宇文毓の子孫が絶えた背景
宇文貞と宇文実も581年に楊堅が隋を建国すると徹底した粛清の対象となりました。楊堅は北周の皇族の血筋を根絶やしにすることで自身の王朝の安定を図ったのです。
結果として宇文賢、宇文貞、宇文実の子たちも楊堅によって殺害され明帝・宇文毓の子孫は絶えてしまいました。これは中国の王朝が交代する時期によく見られる悲劇的な結末でした。
歴史ドラマから見る宇文毓の描かれ方
宇文毓の登場するドラマ
宇文毓はその悲劇的な生涯と実力者・宇文護との関係性から多くの歴史ドラマで描かれています。
- 蘭陵王 2013年、中国 演:宗峰岩(ゾン・フォンイエン)
- 蘭陵王妃 2016年、中国 演:沈建宏(シェン・ジェンホン)
- 独孤伽羅 2018年、中国 演:鄒廷威(ゾウ・ティンウェイ)
- 独孤皇后 2019年、中国 演:錢泳辰(チエン・ヨンチェン)
演出の都合で有能に描かれないことが多い
ドラマでは権力に翻弄される悲運の皇帝として描かれることが多いですね。特に宇文護の冷酷さと宇文邕の有能さを目立たせるため。宇文毓はやさしいいものの、あまり有能ではない人物に描かれることが多いです。
「独孤伽羅」では彼の妻になる独孤般若(明敬皇后)が野心的で有能な人物として描かれるため。宇文毓は気弱な人物として描かれています。ドラマの中でどのように描かれているかは「独孤伽羅のあらすじ」を覧ください。
まとめ
北周の第2代皇帝である宇文毓はやる気があり有能な人物でした。彼は父 宇文泰の遺志を受け継ぎ、周暦の作成や民への配慮、行政改革など政治面でも実績をあげていきました。
でもその才能が権力者宇文護の警戒を招き、毒殺という悲劇的な最期をむかえてしまいます。
彼の死の直前の遺言は弟の宇文邕に帝位と北周の未来を託すというものでした。この遺言が武帝・宇文邕の即位、宇文護の排除へと繋がったのです。
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