洪熙帝(こうきてい)こと朱高熾(しゅこうし)は、穏やかで学問を好む皇帝として知られます。
しかし彼の皇太子時代は、父 永楽帝(えいらくてい)からの厳しい重圧と、兄弟との確執に満ちた苦難の連続でした。
この記事では彼がどのようにして皇太子の座を勝ち取り、困難な時代を乗り越えていったのかを紹介します。靖難の変での意外な活躍や、監国(かんこく)としての実績にも注目しましょう。
病弱な朱高熾を祖父・洪武帝は期待
若いころの朱高熾は物静かで威厳があり言葉遣いも丁寧だったと伝わります。彼は弓術も得意で儒教にも深い関心を持っていました。
特に祖父で初代皇帝の洪武帝(こうぶてい)朱元璋(しゅげんしょう)に可愛がられました。洪武帝は朱高熾の穏やかな性格と臣下や兵士への思いやりを高く評価。
1395年。洪武帝は彼を燕王 朱棣(しゅてい)の世子(せいし:後継者)に任命したのです。
しかし朱高熾は肥満気味で足に持病があり、歩くのが不自由でした。時には「太りすぎで歩けない」と言われたこともありましたが、これは持病による負担が大きかったのでしょう。
当時の社会には体の不自由な人に対する差別的な風潮もあったのです。
朱高熾の靖難の変での活躍と苦難
北平防衛の奇跡
洪武帝の死後、父の燕王 朱棣が甥の建文帝に反乱を起こし靖難の変が始まりました。
建文元年(1399年)。朱棣が遠征に出る間、朱高熾は父の本拠地 北平(現在の北京)の防衛を任されます。
当時、朱高熾の手元にいたのは老兵や病人ばかりのわずか1万の兵。対する敵は建文帝の大将・李景隆率いる50万の大軍でした。北平城は完全に包囲され、九つの城門全てに激しい攻撃が加えられました。
朱高熾は昼夜問わず守備を指揮。城内の兵士や民衆を励まし「父が危険を冒しているのに、子が安逸に過ごせるはずがない」と自らも率先して奮闘しました。
母で燕王妃の徐氏とも相談し城内は一丸となって戦ったのです。
李景隆の大軍が攻めあぐねる中、朱高熾は夜中に兵を出して敵陣に奇襲をかけたこともありました。敵軍は混乱して同士討ちまで起こすほどでした。
攻城戦が膠着する中、遠征から朱棣の軍が戻ってきました。朱高熾は城内から打って出て、父の軍と内外から挟み撃ちにし李景隆軍を敗走させました。
朱高熾はわずか1万の兵で、50万の大軍から北平城を見事に守り抜いたのです。
この北平防衛戦は靖難の変の行方を左右するとても重要な戦いでした。病弱と思われていた朱高熾が優れた指揮能力を持っていたことを証明したのでした。
弟 朱高煦の妨害
しかし朱高熾の功績を喜ばない者もいます。
燕王 朱棣の次男・朱高煦は朱棣の側近で宦官の黄儼(こうげん)を買収。朱高熾を陥れようとします。黄儼は永楽帝に「朱高熾は建文帝と通じている」と嘘の報告をしました。
朱棣は最初は信じませんでしたが朱高煦がさらに「兄は洪武帝の時代から建文帝と仲が良かった」と追い打ちをかけると永楽帝も朱高熾を疑い始めます。
それを知った建文帝側の家臣・方孝孺(ほうこうじゅ)は、朱高熾に寝返りを促す手紙を送ります。方孝孺はそれを意図的に広め、父子の関係をさらに引き裂こうとしました。
でも朱高熾は冷静でした。彼は手紙を開封せず父の元へ送り届けます。これで朱棣は朱高熾を信じ北平を任せました。
朱高熾が皇太子になる
永楽帝の重圧と兄弟との確執
父・朱棣は靖難の変で勝利し永楽帝となりました。
でも永楽帝は病弱な長男・朱高熾に不満を持っていました。一方で戦場で活躍した次男・朱高煦や三男・朱高燧を可愛がりました。彼らは次期皇帝の座を狙い、兄を中傷するようになります。多くの武官も勇猛な朱高煦を支持します。
朱高熾にとって、父からの期待に応えられない苦悩と弟たちの陰謀に晒される大きな精神的な重圧になりました。
皇太子冊立をめぐる争い
永楽2年(1404年)。永楽帝 朱棣は皇太子を誰にするか朝廷で議論させました。
靖難の変で活躍した武将たちは朱棣が寵愛する次男・朱高煦を推しました。もし朱高煦が太子になれば、自分たちの利益が増えると考えたからです。
永楽帝は朱高熾を皇太子にしようと思っていましたが、決意が揺らいてしまいます。
しかし兵部尚書・金忠(きんちゅう)は長男が継ぐべきと朱高熾を支持。さらに解縉(かいしん)、黄淮(こうわい)、尹昌隆(いしょうりゅう)も同意見でした。
特に解縉は朱高熾の仁孝さを強調。さらに永楽帝が溺愛していた孫の朱瞻基の存在を挙げました。最終的に永楽帝は朱高熾を皇太子に決定。朱高煦は漢王、朱高燧は趙王となりました。
終わらない兄弟との争い
皇太子 朱高熾を襲う弟たちの陰謀
正式に皇太子になった朱高熾でしたが、弟の朱高煦と朱高燧は地位を諦めません。
永楽帝は朱高煦の野心を察し、遠隔地への異動を命じますが朱高煦は拒否。さらに「自分は唐の太宗・李世民のようだ」と言って不満を表明。永楽帝は溺愛していたためきつく叱ることはありませんでした。朱高燧も不正を働きますが、朱高熾がかばったので助かりました。
しかし永楽帝は朱高熾には満足していません。朱高煦は皇太子以上の寵愛を受けました。
臣下の解縉(かいしん)がこの状況を諫めると、永楽帝は激怒。解縉が都に来たとき永楽帝は遠征に出ていたので不在でした。代わりに留守の朱高熾に会ったことを朱高煦が報告。すると永楽帝は解縉を逮捕・処刑してしまいます。
犠牲になる臣下たち
永楽9年(1411年)。永楽帝朱棣は北伐から帰還後、皇太子・朱高熾の執務状況を尋ねました。大理寺右丞の耿通は「皇太子は大きな過ちはない」と擁護しましたが、朱棣は不快感を示しました。
永楽10年(1412年)秋。漢王 朱高煦が「耿通が皇太子のために罪人を弁護した」と訴えました。耿通は過去に酷吏・陳瑛を弾劾して、皇太子が処理したことがありました。それもあって耿通が楊士奇らと共に「太子党」を結成していると思い込み激怒。永楽帝は耿通を捕らえて「息子たちの仲を裂いた」として死刑を命じました。
永楽12年(1414年)。永楽帝の第二次北征中。漢王 朱高煦は皇太子の座を狙い、流言を飛ばして監国を動揺させ、皇太子を補佐する黄淮らを中傷しました。永楽帝はそれを信じ、黄淮は投獄されました。
ついに漢王 朱高煦が都から出される
永楽13年(1415年)。永楽帝は漢王 朱高煦を青州へ、趙王 朱高燧を彰徳へ異動させようとしました。しかし漢王 朱高煦は都を離れるのを拒みました。さすがに永楽帝は漢王の行動を疑い強制的に山東に向かわされましたが、漢王は反省しませんでした。
永楽14年(1416年)10月、南京に戻った漢王 朱高煦の不法行為が発覚。庶人に降格されそうになりましたが、皇太子 朱高熾がとりなして処罰を免れました。
永楽15年(1417年)。漢王 朱高煦が楽安に移された後も彼は密かに皇太子の座を奪おうと企み続けました。朱高熾は何度も忠告しましたが効果はありませんでした。
しかし漢王 朱高煦が都から遠ざけられたので、彼の野心は効果的に抑えられました。
監国としての実績
皇太子・朱高熾による監国と補佐体制
永楽帝 朱棣は度重なる親征や北京への遷都を行いました。その際に、皇太子・朱高熾に何度も監国を命じ政務を任せました。
最初の監国は永楽帝が初めてモンゴル親征を行った時期です。
永楽7年(1409年)2月から始まり、吏部尚書の蹇義、兵部尚書の金忠、大学士の黄淮、諭徳の楊士奇らが補佐しました。朱棣は彼らに「監国は重責である」と述べ皇太子を見張り、政治を正しく行うようきつく命令しました。この監国期間は1年10ヶ月でした。
その後も朱高熾は複数回監国を務めました。
- 永楽11年(1413年)2月からの北京巡幸時(約1年9ヶ月)
- 永楽15年(1417年)3月からの北京巡幸時(約3年10ヶ月)
- 永楽20年(1422年)3月からの三度目の漠北親征時(7ヶ月)
- 永楽21年(1423年)7月からの四度目の漠北親征時(4ヶ月)
- 永楽22年(1424年)4月からの五度目のモンゴル親征時(4ヶ月)
これらの期間中、金忠、黄淮、楊士奇、楊溥、梁潜、蹇義といった重臣たちが交代あるいは共同で皇太子の政務を支えました。
これは永楽帝が朱高熾の政治手腕を完全に信頼していたわけではなく、彼を有能な臣下によって補佐させて安定した政治が行われるのを期待していたのです。
朱高熾は、このような厳しい監視と重圧の下でも、冷静に職務をこなし内政を滞らせることはありませんでした。
朱高熾は長い間、監国として明の国内政務を担いその間に北京への遷都も進められました。
朱高熾の皇帝即位
永楽22年(1424年)7月18日。永楽帝・朱棣が北征からの帰途で崩御。遺詔により皇太子・朱高熾が帝位を継承することになりました。
混乱を避けるため張輔や楊栄らは崩御を隠し朱高熾へ密かに伝えました。朱高熾は直ちに息子の朱瞻基を派遣して父の柩を迎えさせました。
帝位継承後。朱高熾は速やかに情勢安定化に動きます。8月2日には蹇義や楊栄、楊士奇ら側近と防衛体制を話し合い首都・北京の防衛を強化。8月5日には南京の防衛も強化。皇太孫・朱瞻基が遺体と合流するまで崩御は公表されず、8月15日に朱高熾は正式に皇帝に即位しました。
翌年、年号が「洪熙」に変更。洪熙帝の時代が始まりました。
まとめ
洪熙帝 朱高熾の皇太子時代は父・永楽帝からの不信と、弟・漢王 朱高煦と趙王 朱高燧による執拗な皇位争いに苦しめられた日々でした。
病弱な体質でしたが靖難の変での北平防衛では、わずかな兵で大軍を防ぎきる軍事的才能を発揮しました。
皇太子になった後も弟たちの陰謀は続き、忠臣たちはその犠牲となりました。しかし、朱高熾は冷静に対処し幾度となく「監国」として国の政務を代行。永楽帝からの厳しい監視下でも有能な文官たちと共に内政を滞らせることなく、民を慈しむ政治手腕を磨きました。
永楽帝の崩御後は混乱なく帝位を継承。これは彼が苦難を乗り越えて培った実力と、周囲から信頼されていた証です。この皇太子時代の経験こそが、後の「仁政」の基盤となったのです。
洪熙帝の生涯全体や、その「仁政」が明朝にもたらした影響について、さらに深く知りたい方は、こちらの記事もご覧ください。
コメント