衛王 朱瞻埏(しゅ・せんえん)「尚食」にも登場した皇子の生涯とは?

1.3 清の皇子・男の皇族
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衛王 朱瞻埏(しゅ・せんえん)は15世紀の明朝に生きた皇族です。

第4代皇帝である洪熙帝の第十皇子として生まれました。彼は第5代皇帝の宣徳帝の異母弟にあたります。

幼い頃から体が弱く病と闘いながら短い生涯を閉じました。そのため、藩王になりましたが、自身の領地に行くことはありませんでした。

それに彼の母と妻も殉葬されるという悲しい運命を辿っています。彼と家族の人生は明朝の皇族が置かれた厳しい運命を象徴するものでした。

 

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衛王 朱瞻埏とは

どんな人?

  • 姓 :朱(しゅ)氏
  • 名称:瞻埏(せんえん)
  • 国:明
  • 称号:衛王(えいおう)
  • 生年月日:1417年1月9日
  • 没年月日:1439年1月3日
日本では室町時代になります。

家族

 
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明の第四代皇帝 洪熙帝の息子 衛王 朱瞻埏の生い立ち

朱瞻埏は1417年(永楽15年)1月9日に誕生しました。

父は当時の皇太子 朱高熾、後の洪熙帝です。母は皇太子の側妃であった恭粛貴妃 郭氏でした。朱瞻埏は朱高熾の庶子で十男として生まれました。

幼い頃から朱瞻埏は病弱でした。そのため父の朱高熾からは特に深く愛情を注がれたと言われています。体が弱かったにもかかわらず、彼は学問に熱心な皇子でした。

1424年(永楽22年)。永楽帝が崩御し父の朱高熾が洪熙帝として即位しました。この時、朱瞻埏衛王の称号を授けられました。

 

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父の崩御と母の殉葬 明朝の悲劇的な慣習

洪熙帝は即位の翌年、1425年(洪熙元年)に崩御しました。

この時、朱瞻埏の母である恭粛貴妃 郭氏が洪熙帝の崩御に伴い殉葬されています。

明朝初期には主君が亡くなった際にその妻や側室、家臣などが後を追って殺害される殉葬という残酷な慣習がありました。永楽帝の時代から宣徳帝の時代にかけては皇帝の死に際して多くの妃嬪が殉葬させられるという悲しい慣習がありました。

幼い朱瞻埏にとって実の母が命を落としたことは、大変な悲しみと、その後の人生に影響を与えたのではないでしょうか。

 

異母兄 宣徳帝との絆

洪熙帝の死後は朱瞻埏の異母兄である宣徳帝 朱瞻基が帝位を継ぎました。

病弱ゆえの苦悩 藩地へ赴けなかった衛王

明朝の藩王制度では皇子たちは成人するとそれぞれ割り当てられた領地、つまり藩地に行って暮らすのが原則でした。

でも朱瞻埏は幼い頃から病弱だったので、この原則に従うことができませんでした。彼は生涯にわたって都の京師(南京や北京)で暮らしました。

宣徳帝も朱瞻埏の病弱さを理解して彼を気遣ったようです。あるいは母を失い悲しい思いをした弟に無理は言えなかったのかもしれません。

朱瞻埏は藩地へ行けないことをどう思ったのでしょうか?一人前の藩王として役目に答えられない悔しさでしょうか?それとも都で暮らせる喜びでしょうか?記録がないのでそれはわかりません。

衛王 朱瞻埏の果たした役割

朱瞻埏は藩地に行くことはなかったものの、皇族としていくつかの重要な役割を任されました。

彼は宣徳帝の命令を受け、皇陵を参拝して先祖を祀る祭祀を執り行っています。これは皇族にとって非常に重要な任務です。朱瞻埏は病弱でしたがその責務を果たしました。

 

衛恭王妃 楊氏との結婚と悲しい結末

朱瞻埏は東城兵馬指揮の楊順の娘と結婚しました。彼女は後に「衛恭王妃」の称号を与えられています。

しかし朱瞻埏の生涯は非常に短いものでした。

彼は1439年1月(正統3年11月)に、わずか23歳でこの世を去りました。「衛恭王」の諡号が贈られました。

そして彼の死後、衝撃的な出来事が起こります。

妻である衛恭王妃 楊氏殉葬されたのです。

明の殉葬制度とは?その歴史と背景

殉葬とは主君が亡くなったときに妻や側室、家臣などが後を追って死ぬという習慣です。

明朝初期には、この殉葬制度が一部の皇族や高官の間で行われていました。特に永楽帝の時代から宣徳帝の時代にかけては、皇帝の死に際して多くの妃嬪が殉葬させられるという悲しい慣習がありました。

母の郭貴妃や妻の衛恭王妃 楊氏が殉葬された理由には、このような明朝初期の残酷な慣習がありました。

楊氏は夫である朱瞻埏が若くして亡くなったために、その命を絶たれたのです。この制度は後の正統帝(朱瞻埏の甥にあたる)の時代に廃止され、二度と行われることはありませんでした。

衛恭王妃楊氏の死は、この非人道的な制度が終焉を迎える前の最後の悲劇の一つと言えるかもしれません。

絞首刑に使われる白い布のイメージ画像

白い布

中国王朝や明朝時代の殉葬については朝天女:殉葬の犠牲になった女性たち。中国王朝の残酷な慣習とその背景 で詳しく紹介しています

 

子孫不在と封国の撤廃が意味するもの

朱瞻埏には子供がいませんでした。これは病弱で短命だったからでしょう。

衛王の地位を受け継ぐ人のいなかったので「衛王」の称号は廃止されました。つまり彼一代で「衛王」の家系は途絶えたのです。

明朝の皇族制度では血筋が続くことが大事で。藩王の地位がずっと続くとは限らないということを意味します。

 

歴史ドラマ「尚食」の衛王 朱瞻埏 史実との違い

中国ドラマ「尚食」には、衛王 朱瞻埏が登場します。このドラマでの彼は、林靖喆が演じています。

ドラマ「尚食」では、朱瞻埏洪熙帝が最も愛する第十皇子として描かれます。

しかし母(郭氏)に似てわがままで、食べ物を粗末にする場面もあります。史実とは違う性格設定がされているようです。

劇中では注意した姚子衿(ようしきん)を恨む少し気難しい性格の皇子として描かれました。

史実の朱瞻埏はドラマのような具体的な性格描写は残されていません。病弱であったこと、学問に熱心であったこと、そして父である洪熙帝から愛されたことは共通していますが、食べ物を粗末にするような描写は史実にはないでしょう。

ドラマは歴史上の人物をモチーフにしつつ、物語を面白くするための脚色が加わっているのですね。

 

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まとめ

衛王 朱瞻埏洪熙帝に愛された皇子でした。でも病弱だったので、わずか23歳という短い生涯を終えた人物です。藩王に任命されましたが藩地へ赴くことはできず、都で暮らしました。

それでも兄の宣徳帝の命で皇陵の祭祀を執り行うなど、皇族としての役割も果たしました。

さらに妻の衛恭王妃 楊氏朱瞻の死後、殉葬されました。これは当時の明朝殉葬制度を物語る悲劇的な出来事です。子供がいなかったので「衛王」の称号は廃止されました。

ドラマ「尚食」で彼の存在を知った方もいるかもしれません。史実とドラマを比較するともっと楽しめると思いますよ。

 

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