懐王は古代中国の春秋戦国時代。楚の国の王。
名前は 羋槐(び・かい)。
熊槐(ゆう・かい)ともいいます。
歴史上は楚の懐王という意味で「楚懐王」と呼ばれます。
中国の歴史書「史記」なんかでは愚かな王の代表格とされる人物。秦の策略に振り回され領土を失い、最後は秦の捕虜になってしまいます。確かに情けないところが多いです。
史実の懐王はどんな人物だったのか紹介します。
懐王の史実
プロフィール
姓 :羋(び)氏
氏 :熊(ゆう)
名称:槐(かい)
国:楚(そ)
地位:楚王
称号:懐王(かいおう)。
在位:紀元前329年~ 紀元前299年
生年月日:紀元前355年
没年月日:紀元前296年
日本では弥生時代になります。
家族
母:
正室:南后
側室:鄭袖、魏美人子供:
楚頃襄王、子蘭、阳文君
おいたち
紀元前328年。楚威王が死去。息子の羋槐が即位しました。
この年。楚威王の喪中に魏が攻めてきました。楚は景山を奪われましたが、反撃しませんでした。
紀元前323年。楚王は魏の公子高を魏に送り返すのを大義名分にして。昭陽に軍隊を指揮させて魏を攻めました。楚の軍は襄陵で魏軍を破り8つの町を占領しました。燕、趙、魏、秦、韓の6ヶ国はこの出来事に驚きました。
このころの楚は大きな領土を持ち、西の秦、東の斉とともに三大強国といえる大国でした。
秦の領土拡大を心配している燕、趙、魏、韓は楚が秦に対抗できる国だと考えました。
函谷関の戦い
紀元前319年。魏・趙・韓・燕は楚の懐王を取り込んで同盟しました(国が南北に縦に並んでいるので合縦といいます)。
遊牧民の義渠(ぎきょ)と協力して秦に攻め込むことになりました。合縦軍の総大将は懐王が務めることになりました。
ところが五カ国の意見がまとまりません。楚は秦から遠く離れ国力もあります。秦に近く驚異にさらされている魏・趙・韓とは危機感が違いました。
それに楚はかつて威王の時代に越の首都を占領。領土の大半を奪っていました。ところが広大で文化も民族も違う越の領土の支配に手間取っていました。広い地域のあちらこちらで反乱が起きたりして同盟に加わって戦う余裕はありませんでした。都市部が集中する中原を支配している魏・趙・韓とは支配の難易度が違うのです。
紀元前318年。合縦軍で実際に兵を派遣したのは秦に近い魏・趙・韓だけでした。義渠は秦軍に勝ちましたが、魏・趙・韓の連合軍は秦軍に敗退しました。
秦に騙され丹陽・藍田の戦いで大敗
その後、楚は斉と同盟。
紀元前313年。楚は斉は秦に攻め込み勝利しました。
紀元前313年。秦の張儀が交渉にやってきました。秦が600里四方の領土を楚に譲るかわりに斉との同盟を破棄して欲しいというのです。懐王は喜んで斉との同盟を破棄。秦から領土を受け取るために将軍を派遣しました。ところが張儀が「6里しか約束していないと」言いました。将軍が抗議しましたが張儀はとぼけるばかりでした。
報告を聞いた懐王は激怒して軍を派遣しました。秦は韓と同盟して迎え撃ちました。両軍は丹陽で戦いになりました。楚軍が8万の兵を失い、70人以上の武将が捕らえられてしまいました。
そして秦は楚の領土だった漢中に漢中郡を設置。懐王は激怒して軍を派遣しました。楚と秦は藍田で戦闘になりました。この戦いでも楚軍は敗北しました。
紀元前311年(懐王18年)楚と秦は和平交渉を行いました。秦は漢中の半分の領土を楚に差し出すと提案。ところが懐王は「領土はいらないが張儀が欲しい」と主張しました。
やってきた張儀を牢に入れて処刑の準備をします。ところが張儀に懐柔されていた大臣の靳尚(きん・しょう)と側室の鄭袖(てい・しゅう)に説得され張儀を釈放してしまいます。
楚は同盟国を失い領土も得られず張儀を処刑することもできません。
楚は大きな損害を受けることになってしまいました。その後、屈原が戻ってきます。
紀元前306年。このころまでに越の残党を制圧。越の残党は山東に逃げます。
秦の標的にされる
紀元前302年。秦の人質になっていた太子・横が秦で役人を殺害して逃亡。楚に戻ってきました。
紀元前301年。秦は報復のため斉・韓・魏と同盟して楚に攻めてきました。
趙・韓・魏は同盟して秦が東に領土を広げるのを防いでいました。そこで秦は南の楚を攻めることにしました。太子の逃亡は楚を攻める大義名分です。
秦は韓、魏と休戦、楚と仲の悪い斉を誘って楚に攻めてきました。
懐王は将軍の唐 眜(とう・ばつ)を指揮官にして迎え撃ちました。楚と連合軍は垂沙で戦いが起こります。秦は楚の守りの手薄な所をみつけて攻撃。この戦いで楚軍が敗退。戦いの指揮をとっていた唐 眜(とう・ばつ)が戦死しました。
紀元前300年。秦がまた攻めてきました。将軍の景缺を指揮官にして迎え撃ちましたが楚軍は敗退。秦の強さに恐れをなした懐王は太子を人質として斉に送って同盟します。
秦の人質になってしまう
紀元前299年。秦が楚に攻め込み8つの都市を占領しました。秦の昭王は和平のため懐王に直接交渉を提案。懐王は臣下の昭雎(資料によっては屈原になってることもあります)が反対するのを押し切って昭王との交渉にでかけました。
ところが秦の罠でした。懐王は秦に捕らえられてしまいます。
斉に人質に出ていた息子・羋横(頃襄王)が楚に戻って即位しました。
紀元前297年。懐王は脱出に成功して趙に逃げました。ところが秦を敵にしたくない趙は懐王を秦に送り返してしまいます。
紀元前296年。懐王が死去。
まとめ
楚の懐王は父・威王の後を継いで楚王になりました。当初は強大な国力を持つ楚を率い、秦に対抗する勢力として注目されていました。
ところが秦の策略にはまって合従の失敗、領土を失い自身も秦の人質になってしまいます。楚が衰退する原因のひとつになりました。
わざわざ敵と交渉するため自ら出ていくところは無謀と思えますが。トップ会談は前例があったので懐王はそれにかけたのでしょう。ところが秦はそんなに甘い相手ではありませんでした。
懐王は強大だった楚の国を没落させた愚かな王とされます。懐王に仕えていた屈原が後に美化されたおかげで愚かさが強調されてしまったところもあります。
秦の猛攻がはじまるまでは領土を広げてうまくやっていたのですから無能とまでは言えないかもしれません。
確かに賢い王でなかったのでしょう。大国同士が争っている春秋戦国時代はお人好しでは生きていけない時代なのです。
ドラマの楚の懐王
ミーユエ 2015年、中国 演:曹征
昭王〜大秦帝国の夜明け 2017年、中国 演:彭波
思美人 2017年、中国 演:喬振宇
コメント