順治帝(じゅんちてい)は大清帝国の第3代皇帝。
名前は 愛新覚羅(アイシンギョロ)福臨(フリン)。
2代皇帝 ホンタイジの九男。
ホンタイジの死後、6歳で皇帝になりました。
摂政王ドルゴンが政治を行いましたが、順治帝が成人してもドルゴンは権力を握り続けました。ドルゴンのもとで清は山海関を超えて北京を占領。中華世界の支配者になりました。
順治帝はドルゴンに支配されたのが嫌だったようです。ドルゴンの死後、ドルゴン派を粛清しました。順治帝は中原王朝にあこがれ明の制度を取り入れた国作りを行いました。でも漢人や宦官を優遇する政策は満洲貴族には不評でした。
しかし天然痘にかかって22歳の若さで亡くなってしまいます。
史実の順治帝はどんな人物だったのか紹介します。
順治帝の史実
プロフィール
姓 :愛新覚羅(アイシンギョロ、あいしんかくら)
名称:福臨(フリン、ふくりん)
国:大清帝国
地位:皇帝
廟号:世祖
通称:順治帝
生年月日:1638年3月15日
没年月日:1661年2月5日
在位期間:1643~1661年。
彼は大清の第3代皇帝です
日本では江戸時代初期になります。
同時代の人物(内は在位年)
明:滅亡
17代 崇禎帝(1627-1644年)南明:滅亡
弘光帝(1644-1645年)
隆武帝(1645-1646年)
監国 魯王 (1645-1653年)
紹武帝(1646年)
永暦帝(1646-1661年)
順:滅亡
李自成(1644-1649年)
李氏朝鮮:
16代 仁祖(1622-1649年)
17代 孝宗(1649-1674年)
日本:
3代将軍 徳川家光(1623-1651年)
4代将軍 徳川家綱(1651-1680年)
家族
母:孝荘文皇后ボルジキト氏
妻:
静妃 エルデニブンバ(ボルジキト氏)
孝恵章皇后 アラタンキキゲ(ボルジキト氏)子供:康煕帝ほか
おいたち
崇徳8年8月26日(1638年3月15日)フリンが誕生。
父は大清の2代皇帝ホンタイジ。
母は永福宮荘妃ボルジキト氏ブムブタイ。
フリンはホンタイジの9男として生まれました。
5歳のとき、フリンはホンタイジやベイレ(王族)や大臣たちと狩りにでかけ鹿を仕留めました。このときの記録ではフリンは「ファンカラ・ジャンギン」と書かれています。ジャンギンは称号なので、幼い頃の名前は「ファンカラ(小さい人)」だったのかもしれません。
ホンタイジの後継者選び
崇徳8年(1643年)。大清皇帝ホンタイジが死去。ホンタイジは後継者を決めずに死去しました。満州人の習慣では王に後継者を決める権限はなく、死後。会議によって決めます。
このとき有力候補だったのはホンタイジの長男ホーゲとホンタイジの弟ドルゴンでした。
ドルゴン・アジゲ・ドドの同母兄弟は正・鑲白旗を配下にしていました。ドルゴン派の重臣たちもホーゲの即位には強硬に反対。ドルゴンを次の皇帝に支持しました。
ホーゲを支持するのは配下の正藍旗。ヌルハチの弟シュルハチの息子ジルガラン。ホンタイジの兄ダイシャン。ホンタイジの指揮下にあった正・鑲黄旗の将軍たちもホーゲを支持しました。
どちらが即位しても清が分裂しそうな勢いでした。ここで優柔不断なところのあるホーゲは「私は徳のない男だからその器ではない」と即位に消極的な態度をみせました。
正・鑲黄旗の将軍たちはホーゲにはこだわらず先帝(ホンタイジ)の息子ならよいと主張。その一方で「先帝の子以外の者が皇帝になったら地下にいる先帝のもとに行く(自害する)」と主張。そこでドルゴンは皇帝になるのを辞退。ホンタイジの息子から皇帝を選ぶことになりました。
ホンタイジには11人の息子がいました。このとき生きていたのはホーゲ(豪格)の他にイェブス(葉布舒)、シュウサイ(碩塞)、ガオサイ(高塞)、チャンスー(常舒)、フリン(福臨)、タオサイ(韜塞)、ボムボゴル(博穆博果爾)でした。
イェブス~チャンスーの母は地位が低く。正妻・四大妃の息子はホーゲ以外ではフリンとボムボゴルだけ。ボムボゴルは生まれて間もないです。
ジルガランがフリンを皇帝に提案しました(ホンタイジが提案したという説もあります)。
ホーゲ派もドルゴン派も将軍たちも賛成。フリンが皇帝に決まりました。
ドルゴンの摂政時代
でもフリンは当時6歳なので政治は出来ません。ジルガランとドルゴンが摂政になることも決まりました。
1643年10月8日。フリンが皇帝に即位。元号を「順治」に改元。
李自成の乱で明が滅亡
フリンが即位してしばらくしたころ。
順治元年(1644年)3月。大順の李自成が明の首都・北京を占領。崇禎皇帝が自害。明が滅亡しました。
戦場では強いジルガランでしたが政治は苦手でした。ジルガランは業務のほとんどをドルゴンが担当するようになります。
順治元年(1644年)4月1日。ドルゴンはホーゲが自分を批判しているのを知り、ホーゲに謀反の罪をきせて処分しようとしました。順治帝はホーゲの命乞いをしました。ホーゲは爵位の返上だけですみます。
北京に入城・李自成軍の壊滅
5月2日。ドルゴン率いる清軍は山海関を超えて北京を占領。
9月。順治帝は盛京から北京の紫禁城に入りました。
10月1日。ドルゴンや漢人の大臣から言われて天壇で天に捧げる儀式を行い、皇极門(太和門)で「中華の支配者」を宣言しました。
順治2年(1645年)。英親王アジゲと豫親王ドドの軍を派遣して陝西の李自成軍を攻めて壊滅させました。
明の残党との戦い
その後、揚州、鎮江を占領。
明の王族、福王 朱由崧が南京で皇帝(弘光帝)を名乗ったのでドドが兵を派遣して派遣。弘光帝を捕らえました。弘光帝は北京に連行されて処刑されました。
南京陥落後も各地で明の残党が抵抗を続けました。
このころドルゴンに「叔父摂政王」、ジルガランに「輔政叔王」の称号が与えられました。
順治3年(1646年)。張献忠が四川で反乱を起こし「大西国」の皇帝を名乗ります。ホーゲを大将軍にして張献忠を討たせました。凱旋したホーゲを順治帝は歓迎しました。
順治4年(1647年)。このころからドルゴンの横暴が強まります。ドルゴンは摂政ジルガランから摂政の位を剥奪。代わりに自分の弟・ドドを摂政にしました。
順治5年(1648年)。ドルゴンはジルガランを郡王に格下げしました。
ドルゴンはホーゲを謀反の罪で処刑しようとしました。このときも順治帝がかばい処刑を認めませんでしが、ドルゴンはホーゲを冤罪で捕らえて幽閉。
順治5年(1648年)。ホーゲは獄中死しました。
ドルゴンはホーゲとジルガランを排除してさらに独裁的になります。ドルゴンは「皇叔父摂政王」「皇父摂政王」と名乗りました。
順治6年(1649年)。ドルゴンの片腕としてドルゴンの支配に貢献していたドドが病死。
その後も清は占領地を拡大。
順治7年(1650年)。ドルゴンはもともと持病がありましたが、順治4年以降症状が悪化。11月狩りに出かけたあとはさらに体調が悪化。12月に病死しました。
順治8年(1651年)。でも宮中にはドルゴンの派閥が残っています。順治帝はドルゴンに「成宗」の廟号、「義皇帝」の称号を与えました。
順治帝 親政の時代
ドルゴン派の粛清
順治8年(1651年)1月。ドルゴンの同母兄アジゲは自分が摂政王になろうと考え配下の正鑲白旗の将軍に自分を支持するよう要求していました。
しかしドルゴンの配下だったオボイがアジゲの企みをジルガランに報告。順治帝はすぐに諸王を集めて話し合い、アジゲとその子らを捕らえて幽閉。その後、賜死にしました。
ジルガランは反ドルゴン派を集め、ドルゴンの配下にいたオボイやスクサハたちも味方にしました。
2月。ジルガランは「順治帝が親政を行う」と発表。摂政が廃止されました。ジルガランたち反ドルゴン派はドルゴンの称号や爵位を剥奪。財産を没収。ドルゴン派を粛清しました。
漢人官僚の腐敗と争いに悩まされる
順治帝はドルゴンが頼りにしていた北方漢人(北京とその周辺の人達)の 馮銓を排除。代わりに陳名夏たち南方漢人(南京とその周辺の人達)を採用しました。
でも漢人たちの派閥争いが起こります。その後、馮銓を再び採用。北方派と南方派のバランスをとって派閥争いを抑えようとしましたが。かえって漢人官僚達の派閥争いが激しくなります。
北京で科挙の受験生が試験官を買収していたことが分かり、数百人が追放・財産没収になりました。
その後、南京でも似たような不正があきらかになり。漢人官僚の不正が深刻なことがわかりました。
中原王朝にあこがれる順治帝
明などの中原王朝の文化にあこがれていた順治帝は明王朝式の制度を復活させたり、漢人官僚を多く採用しました。
ドルゴン時代には活動が制限されていた宦官に様々な役目を与え、満洲貴族や内務府の力を抑えようとしました。宦官たちは皇帝と官僚のつながりを邪魔して自分たちが皇帝を動かそうとします。
満洲貴族たちは明時代のような宦官の横暴を恐れました。順治帝も漢人官僚の汚職に悩まされ宦官達の横暴を抑えようと不正を取り締まったりしましたが。満洲貴族の不満は溜まっていきます。
ホンタイジやドルゴンは明の強い部分と弱い部分を研究して明のいいところは取り入れ、満洲らしさは失わないようにしました。でも彼らの苦労を知らない順治帝は明に憧れるだけで悪い部分も真似てしまったのです。
明の残党との戦い
清朝の北京占領後も明の残党は南部に逃れて抵抗活動をしていました。唐王 朱聿鍵(隆武帝)や福王 朱由崧(弘光帝)など王族が各地で旗揚げして皇帝を名乗り清に抵抗していました。
彼らをまとめて南明といいます。南明勢力もドルゴンの時代に次々と討伐されます。
順治帝が親政した時代に残っていたのは明の王族・朱由榔(しゅ・ゆうろう、永暦帝)でした。朱由榔はかつての明の武将・李定国、鄭成功たちの協力を得て抵抗を続け、清が占領した地域を奪い返すこともありました。
順治10年(1653年)。清の朝廷は洪承疇に朱由榔の討伐を命令。1659年に朱由榔はビルマに逃亡しました。
貿易商だった鄭成功(てい・せいこう)は水軍を編成して清に抵抗していました。
順治16年(1659年)。南京を攻めようとした鄭成功軍を清軍が撃退。鄭成功は台湾に逃れました。
各地で抵抗運動は続いていたものの、ほぼかつての明の領土を支配下におきました。
妃との関係
皇后エルデニブンバを降格
順治帝は幼少期にドルゴンが決めた許嫁のエルデニブンバ(ボルジキト氏)がいました。エルデニブンバは孝荘文太后ブムブタイの姪です。
孝荘文太后の働きかけもあり、順治帝が親政をはじめた1651年にエルデニブンバと結婚、皇后にしました。でも順治帝はドルゴンが決めた許嫁は嫌いでした。
順治帝は1651年に皇后エルデニブンバを静妃に降格させてしまいます。
孝荘文太后ブムブタイは次の皇后にやはり姪のアラタンキキゲ(孝恵章皇后ボルジキト氏)を選びました。
でも順治帝は孝恵章皇后も嫌いで二人の仲は冷えていまいた。
ドンゴ氏を寵愛
順治帝が寵愛したのがドンゴ(董鄂)氏でした。孝恵章皇后を廃して董鄂氏を皇后にしようとしますが。孝荘文太后が反対。
順治17年(1660年)。董鄂氏は病死。嘆き悲しんだ順治帝は董鄂氏に「孝獻端敬皇后」の称号を与えました。
天然痘で最期を迎える
順治帝は晩年の数ヶ月間は天然痘にかかって苦しんでいました。
順治18年1月7日(1661年2月4日)。順治帝は側近の王熙と麻勒吉を呼び命令を書かせました。第三皇子の玄燁が天然痘にかかっても回復して元気に成長していたので皇太子に指名。でも玄燁はまだ7歳です。
順治18年1月8日(1661年2月5日)。四人の大臣 スクサハ・ソニン・エビルン・オボイに幼い玄燁を支え4人で話なって政治をするように命令しました。
その日のうちに順治帝は死去。享年22歳。
玄燁(げんよう)が即位。4代皇帝 康煕帝(こうきてい)になりました。
順治帝の生涯・まとめ
順治帝は6歳で即位。叔父ドルゴンの摂政の下、明滅亡後の北京を首都にして清の支配を確立しました。
親政後は明の文化に憧れ、漢人官僚を重用するなど、満洲人と漢人の融合を目指しました。しかし宦官の横暴や漢人官僚の腐敗に悩まされ、晩年は天然痘に倒れ22歳で亡くなりました。
その後、玄燁が即位し康煕帝として清朝を大きく発展させることになります。
テレビドラマ
宮廷の泪・山河の恋 2012年、演:呉俊余
鹿鼎記 2014年、中国 演:劉德凱
皇后の記 2015年、中国 演:高基才
皇貴妃の宮廷 2015年、中国 演:高雲翔
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