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蘭陵王 高長恭の史実と最後・家系図

蘭陵王・高長恭は北斉の皇族。前線に立ち続け多くの戦功を挙げましたが、名声ゆえに皇帝の疑念を招き毒殺された将軍です。あまりにもの美形故に仮面で素顔を覆っていた。という伝説がある人物ですが、実際はどうだったのかも解説。

蘭陵王の史実をもとに、その生涯を紹介します。

 

この記事で分かること

  • 皇族でありながら高長恭が戦場に立ち続けた理由
  • 邙山の戦いを中心とした実際の軍事的功績
  • 皇帝から警戒されるようになった背景と最期の経緯
  • 美貌の仮面将軍というイメージが生まれた理由と史実との差

 

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蘭陵王 高長恭の史実

  • 姓:高(こう)
  • 名:肅(しゅく)
  • 字:長恭(ちょうきょう)
  • 称号:蘭陵郡王(蘭陵王)
  • 生年月日:541年頃
  • 没年月日:573年7月28日
  • 享年:不詳

 

家族

  • 父:高澄(北斉 文襄帝)
  • 母:不詳(史書に記載なし)
  • 正室:鄭氏
  • 側室:1名。
  • 子供については記録がありません。

 

蘭陵王の家系図

北斉家系図

北斉家系図

家系と立場 皇族なのに最前線に立った理由

高長恭が理解しにくい人物になりやすい理由は、皇族でありながら前線で戦い続けた点にあります。
北斉では、皇族は政治の象徴であると同時に、軍事力そのものでもありました。したがって、戦場で成果を挙げれば称賛されますが、その名声はそのまま警戒の対象にもなります。高長恭は、まさにその重さを背負った立場にいました。

祖父は 高歓、父は 高澄

高長恭の祖父は高歓です。高歓は東魏の実力者として政権を掌握し、北朝世界の勢力図を決定づけた人物でした。

父の高澄は高歓の長男で優れた政治家でした。父の地位を継ぎましたが、蘭京に殺害されました。

弟の高洋が地位を受け継ぎ北斉を建国しました。文宣帝 高洋によって高澄は「文襄皇帝」の称号が贈られました。

北斉の皇帝一家は高洋の子孫ですが。高長恭の父・高澄は高洋の長兄。高澄が存命なら北斉の皇帝になっていたかも知れない人物です。

高氏としては高澄の家系が本家ですが、北斉としては高洋の家系が主流となるのです。高長恭は皇族として扱われましたが、この家系に生まれたというだけで目立ちすぎれば警戒される運命にあったかも知れません。

 

生母は不明・側室の子には違いない

高長恭の生母については史書に記録がありません。他の兄弟は皆、母が書かれていますが、高長恭だけがありません。当時の史料の書き方を考えると、母の身分が高くなかった可能性が高いです。

そのため高長恭は皇族ですが母系の後ろ盾を持たな勝った可能性が高いです。だからこそ戦功をたてて自分の位置を築く必要があったとも言えます。

 

高長恭は四男か三男か?

父・高澄には六人の男子がいました。いずれも側室の子です。六人の兄弟はまとめて「文襄六王」と呼ばれます。

高長恭の兄弟順位は史料によって食い違いがあります。正史の『北斉書』や『北史』では、四男と書かれています。でも高長恭の『墓碑文』では三男と記されています。

研究者の多くは碑文を重視して「三男」とすることが多いです。『北斉書』『北史』が編纂されたのは唐時代ですが、墓碑は当事者に近い時代に作られました。そのため家系についてはより正確な情報が書かれていると考えられているからです。

 

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生涯の流れ 仕官から最高位級の官職まで

蘭陵王高長恭は541年に東魏で生まれました。

しかし高長恭が幼い頃。549年に父・高澄が梁から寝返った蘭京に暗殺されてしまいます。高洋が蘭京を討ち、その年に東魏の孝静帝を廃して北斉を建国しました。

天保年間の仕官と封爵の積み上げ

天保8年(557年)。高長恭は散騎侍郎に任命されました。

散騎侍郎(さんきじろう):
皇帝のそばに仕え、命令の伝達したり儀礼に参加する役目。特に権限はなく皇族や有力者の若者が任命されることの多いポジション。皇帝のそばに仕えて政治を学ぶのが目的といえます。

 

以後は若くして要職を歴任しています。

乾明元年(560年)3月。兄弟と一緒に蘭陵郡が封土が与えられ。長恭は蘭陵王(蘭陵郡王)とよばれることになります。

封土
収入源になる土地。封土を持つと地名にちなんだ王号を名乗ることができます(蘭陵郡の場合は蘭陵郡王)。封土から入る税収が収入の一部になります(他にも財源があることが多い)。しかし土地を管理しているのは朝廷が任命した役人。蘭陵郡王は蘭陵郡の領主ではありませんし、蘭陵王が蘭陵郡で暮らすこともありません。都かその周辺で暮らします。

 

并州方面の防衛と突厥への対応

高長恭が并州刺史に任命されたころ。

河清2年(563年)。北周の大将 楊忠が突厥の木杆可汗と連合して恒州から南下して北斉を攻め、并州に迫りました。

高長恭はこの突厥を撃退する作戦に参加して自ら前線に立って撃退しました。

 

邙山の戦い

河清3年(564年)12月、邙山の戦いが起こりました。

北周が洛陽を攻めるとp際、武成帝 高湛は高長恭を并州刺史の段韶や大将軍の斛律光と共に洛陽の救援に向かわせました。

当初、北周の兵力が強大であったため、軍は進軍を躊躇していました。しかし段韶が計略を用いて北周の軍を破ると、高長恭はわずか五百騎の騎兵を率いて北周軍の包囲網を突破しました。

そのまま金墉城(現在の河南省洛陽東北の古城)の城下まで到達しましたが、高長恭が兜を被っていたので城内の人々は敵か味方か区別できませんでした。

そこで高長恭が兜を脱いでその素顔をさらすと、城上の兵たちはようやく味方だと確認して弓で敵を攻撃して高長恭を援護しました。

こうして高長恭は金墉城の包囲を解くことに成功します。北周の軍は逃走、邙山から谷水にかけての三十里にわたる川や沢には、北周軍が投げ捨てた兵器や軍需物資が散乱していたといいます。高長恭はこの邙山の戦いでその名を大いに轟かせました。

兵士たちはこの勝利を称えて彼を歌い、それが後世に知られる「蘭陵王入陣曲」の元になったと言われます。

高まる評判

同年十二月十五日、高長恭は尚書令に任命されました。

その後も司州牧、青州・瀛州刺史を歴任しました。段韶とともに柏穀を討ち、さらに定陽を攻めています。

段韶が病に倒れると長恭が全軍の指揮を引き継ぎました。数々の戦功により、鉅鹿・長楽・楽平・高陽など複数の封土を与えられました。

軍事的な評価は極めて高いものでした。

 

評判を落とそうとする

高長恭が定陽にいたころ、部下の尉相願が「なぜこれほど貧浴に蓄財するのか」と聞きました。最初は答えようとしなかった高長恭でしたが、相願がさらに踏み込み、芒山の戦功による疑いを恐れ、あえて評判を落とそうとしているのではないかと指摘します。

すると長恭はそれを認めました。すると相願は、かえって朝廷が罪する口実をあたえるので止めたほうがいいと言います。すると長恭は涙を流して身を守る方法を教えてほしいと願いました。相願は病を理由に政治や軍事から距離を置くべきだと進言しました。

でも高長恭はそのとおりだと思ったものの、完全に退くことはできませんでした。

江淮で反乱が起きると再び将軍として呼び出されるのを恐れ「昨年は顔が腫れたが、なぜ今は腫れてくれないのか」と嘆き、病にかかっても治療を拒否するようになりました。

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蘭陵王 高長恭の最後

皇帝 高緯の疑い

芒山での勝利の後、皇帝 高緯は高長恭に「敵陣に深く入りすぎた、失敗したらどうするつもりだったのか?」と問い詰めると高長恭は「国を家のことのように思い、無我夢中でした」と答えました。

この「家事」という言葉が皇帝の疑念に疑いを持たせることになります。

高長恭としては「国の危機を家のことのように思った」と例えで言ったのでしょう。

でも皇帝 高緯はそうは受け取りませんでした。中国王朝では国は皇帝のものです。たとえ皇族でも国を一族のものにすることはできません。国を自分のものにするのは謀反に等しいです。

それに邙山の戦いは結果的に大勝利でしたが、高長恭は皇帝 高緯の想定外の行動をして戦場の優劣をひっくり返してしまい英雄になってしまいました。さらに高長恭の評判が高いのも皇帝 高緯にとっては不安材料のひとつでした。

高長恭は正統な血筋で、功績もあり、評判も高い。皇帝の想像以上の働きをして戦場を変えてしまう。皇帝としては頼もしいよりもむしろ恐ろしい存在になってしまったのです。

蘭陵王の最期

武平4年(573年)5月。後主の高緯は使者の徐之範を派遣して高長恭に毒酒を賜いました。

高長恭は王妃の鄭氏に「私はこれほど国に忠を尽くし、皇帝を裏切るようなことは一度もしていない。それなのになぜ毒酒を賜らねばならないのか」と訴えました。

王妃が「どうして直接皇帝に釈明なさらないのですか」と尋ねましたが、高長恭はもはや皇帝に会うことはできないと諦め、ついに毒酒を飲んで自害しました。その後、太尉の位を追贈されました。

 

高長恭のエピソード

  • 高長恭は外見が穏やかですが、内面は意思が強いです。声や立ち居振る舞いも整っていて武将としては細かな点まで自ら気を配る人物でした。
  • 美味しい食べ物があれば、瓜や果物であっても必ず兵士と分け合いました。
  • 瀛州にいた時、部下の陽士深が汚職を告発され免官になります。後に同じ軍に属したときには長恭は小さな罪で杖打ち二十回にとどめ、命を守っています。
  • 朝廷からの帰路で従者が散り一人きりになっても、誰も罰しませんでした。
  • 武成帝から妾二十人を与えられても一人しか受け取りませんでした。
  • 死の間際、高長恭は貸金(蘭陵王は人に金を貸していた)の証文を全て焼きました。

 

 

蘭陵王はなぜ美貌の仮面将軍なのか?

伝承の内容 威圧のため仮面を作って出陣した

蘭陵王といえば美貌の将軍というイメージです。唐の崔令欽が著した『教坊記』には次のように記されています。

「大面」という舞踊は北斉の蘭陵王である高長恭から始まりました。彼は勇敢な性格でしたが、その容貌は女性のように美しいものでした。自らの顔立ちでは敵を威圧するのに不十分であると考えた彼は、木で仮面を刻み、戦いに臨む際にこれを着けるようになりました。そこからこの舞踊が作られ、歌曲としても広まっていきました。

出典:崔令欽『教坊記』

 

これは大面という演劇の元を書いた記述ですが。大面は仮面を被って演じる演劇のことで京劇のもとになったものです。

でもこれは史実ではありません。演劇の由来話としての伝説です。

 

蘭陵王はなぜ仮面をつけていたのか?

蘭陵王が仮面につけていたと言われるのは、芒山の戦いで「兜で顔が見えなかった」とあることから。戦闘の際には顔を覆い隠す兜をつけていたことが分かります。

古代中国には保護のために顔を覆う仮面がありました。蘭陵王もそういった保護具としての面をつけていたのでしょう。

でも当時は美貌を隠すためではなく、顔を保護するためのものだったと考えられます。

蘭陵王はなぜ女のような美形になったのか?

蘭陵王は現代では美形の将軍のイメージです。でも歴史書には女のような美貌とは書かれていませんが、唐代にはすでに美貌の将軍というイメージができていました。そのようなイメージができたのは以下のような理由があると考えられます。

  1. 異例とも言える「史料」の記述
    正史の『北史』では彼は「容貌が柔らかく、心も声も美しい」と記されています。武将の記録として勇猛さよりも先に「美しさ」が強調されるのは非常に珍しく、これが後世のイメージの出発点になりました。
  2. 「邙山の戦い」という英雄譚
    蘭陵王にはわずか500騎で敵陣を突破し、洛陽を包囲から救ったという圧倒的な戦功があります。蘭陵王は本物の英雄であったことが、さらにイメージを膨らませやすい原因となりました。
  3. 戦場での装備が生んだギャップ
    彼は前線に立つ将軍として顔を守る防具(面胄・面甲)を着用していました。現実には防御装備ですが、後の時代の人は顔を隠す理由を想像豊かに解釈。「美しい顔を隠すため」と考えました。
  4. 報われない最期という悲劇性
    蘭陵王は高い実績を残した皇族将軍でした。それだけに皇帝の嫉妬をかって毒殺されてしまいましす。報われずに散っていくという悲劇性がさらに蘭陵王を美化する原因になります。
  5. 芸能(舞楽)によるイメージ
    彼の勝利を祝って作られた「蘭陵王入陣曲」は、のちに仮面を用い優美に舞う「舞楽」へと発展しました。舞踊では次第に「勇猛さ」よりも「優美で神秘的な美しさ」が強調されるようになり。現実の蘭陵王も美しい姿だったのではないかとイメージが膨らみました。
  6. 後の世の「判官贔屓」
    非業の死を遂げた英雄に対して後世の人々は強い同情と愛着を持ちます。報われない最期があるからこそ、後の詩人や劇作家たちは、彼の姿をいっそう儚く、尊いものとして描写したのです。

結論
蘭陵王のイメージは史実の温和な容姿をもとに戦場の装備(仮面)と英雄的な功績、悲劇性が結びつき「美しく、強く、そして短命な皇族」としてイメージされ。美貌の将軍像が完成したと言えます。

 

 

南北朝
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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

著者 自画像

京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

詳しい経歴や執筆方針は プロフィールをご覧ください。

運営者SNS: X(旧Twitter)

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