始皇帝・嬴政は古代中国を統一した人物。
始皇帝は古代の人物にしては数多くの記録が残っています。
誕生から秦に戻るまで、
秦王になって中国を統一するまで、
始皇帝を名乗ったあと。
始皇帝がいつ何をしたのか年表にまとめてみました。
3つの時代にわけてまとめてみました。
ドラマを見るときや漫画、小説を読むときの参考にしてください。
始皇帝 年表
いつの時代の人?
生年月日:紀元前259年2月18日
没年月日:紀元前210年9月10
姓名:嬴政(えい・せい)
別名:趙正(ちょう・せい)
称号:始皇帝(しこうてい)
在位期間:紀元前247年7月6日~前210年9月10日
国:趙(出生地)→秦
地位:秦太子 → 秦王 → 皇帝
父:荘襄王(そうじょうおう) 嬴子楚(えい・しそ)
母:趙姫(ちょうき)
配偶者:不明(多数)
子供:
長子:扶蘇
末子:胡亥(二世皇帝)
日本では弥生時代になります。
誕生から王太子の時代
紀元前259年(昭王48)正月 嬴政1歳(数え歳)
趙の都・邯鄲(かんたん)で嬴政誕生。
紀元前257年(昭王50)嬴政3歳
父・嬴異人が呂不韋とともに秦に帰国。
嬴政は母・趙姫とともに邯鄲に残り母の実家に匿われる。
紀元前251年(昭王56)嬴政9歳
昭王死去。孝文王が即位。
即位して1ヶ月以内に孝文王が死去、荘襄王が即位。
このころ母・趙姫とともに秦に帰国。王太子になる。
秦王の時代
紀元前247年(荘襄王3)嬴政13歳
荘襄王死去。嬴政が秦王に即位。
紀元前246年(始皇元)嬴政14歳
韓から鄭国が来て渠(水路)の工事を始める。
始皇帝陵(驪山陵)の工事が始まる。
紀元前243年(始皇4)嬴政17歳
燕太子丹が秦の人質になる。
紀元前242年(始皇5)嬴政18歳
衛国の濮陽を占領。荊軻(けい・か)は故郷を失う。
紀元前241年(始皇6)嬴政19歳
衛王を追放。
紀元前240年(始皇7)嬴政20歳
夏太后死去。
紀元前239年(始皇8)嬴政21歳
嬴政の弟、長安君 ・成蟜(せいきょう)が反乱を起こす。成蟜死去。
嫪毐が長信候になり、広大な領地を持つ。
のころ鄭国が韓の間諜(スパイ)だったことがわかる。
紀元前238年(始皇9)嬴政22歳
伝統に従い雍城に泊まって戴冠、剣を帯びる(元服)。
嫪毐(ろうあい)の反乱。
嫪毐の配下、一族を処刑。母后(趙姫)を幽閉。
紀元前237年(始皇10)嬴政23歳
嫪毐の反乱の影響で相国・呂不韋(りょふい)を罷免。
母后(趙姫)を咸陽に戻す。
逐客令(外国人を追放する法律)が出るが、李斯の反対で中止。
紀元前235年(始皇12)嬴政25歳
呂不韋を僻地の蜀に移動させようとしたところ、呂不韋が自殺。
紀元前233年(始皇14)嬴政27歳
韓非を秦に呼ぶ。李斯の進言で韓非を投獄、韓非は獄中で自害。
天下統一への動き
紀元前232年(始皇15)嬴政28歳
このころ、秦は大原郡の37城を占領。
燕太子丹、燕に帰国。
紀元前230年(始皇17)嬴政30歳
韓王安を捕虜にする。
韓滅亡
華陽太后が死去。
紀元前229年(始皇18)嬴政31歳
趙を攻撃。
紀元前228年(始皇19)嬴政32歳
趙王遷を捕虜にする。邯鄲が秦の領土になる。
趙の事実上の滅亡
趙の公子嘉が代に逃げて王になる。
嬴政、趙に行き母の実家に危害を加えたものを穴埋めにする。
嬴政が帰国。
母后(趙姫)死去。
紀元前227年(始皇20)嬴政33歳
荊軻の嬴政暗殺未遂事件が起きる。
紀元前226年(始皇21)嬴政34歳
燕を攻撃。太子丹の首をとる。
紀元前225年(始皇22)嬴政35歳
王賁に魏を攻めさせました。魏王仮を捕虜にする。
魏の滅亡
李信と蒙恬に楚を攻めさせたが敗北。
紀元前224年(始皇23)嬴政36歳
王翦に楚を攻めさせる。
紀元前223年(始皇24)嬴政37歳
楚王 負芻を捕虜にする。
楚の滅亡
紀元前222年(始皇25)嬴政38歳
王賁に燕を攻めさせる。燕王喜を捕虜にする。
燕の滅亡
王賁に代を攻めさせる。代王嘉を捕虜にする。
代の滅亡(趙の完全滅亡)
5大国を滅亡させ宴会を行う。
紀元前221年(始皇26)嬴政39歳
王賁に斉を攻めさせる。斉王建を捕虜にする。
斉の滅亡。
6大国を全て滅亡させ中華の統一
始皇帝の時代
紀元前221年(始皇26)嬴政39歳
始皇帝を名乗る。
郡県制を支配地域に採用。王が自分の領土を支配する封建制を廃止。
秦では嬴政以前から中央から郡や県に派遣された役人が地域を統治。それを秦以外の占領地域に適用。
占領国(六国)の兵器を集めて熔かし、釣鐘と台座、金人(金属製の偶像)を12体制作、宮中に置く。
度量衡の統一。長さ、重さの単位を統一。
車輪の幅を統一。
漢字の書体の統一。文書の書式を統一。
それまで国によって字の形や書類の書式はバラバラ。それを秦の形に統一。現在の漢字に近い書体がこのとき出来上がる。
その過程で秦以外の字を使った書物を処分。これがいわゆる「焚書」
紀元前220年(始皇27)嬴政40歳
始皇帝が秦の西の地に巡行(第一回巡行)。秦発祥の地に向かい、祖先の陵墓と廟(魂を祀る施設)に天下統一を報告。
都の咸陽を中心に伸びる道路を建設。
紀元前219年(始皇28)嬴政41歳
東方巡行(第二回巡行)嶧山や泰山に登って神を祀る。
紀元前218年(始皇29)嬴政42歳
東方巡行(第三回巡行)山東半島の山(斉の国では八神を祀る聖地)に登り、石碑に自分の顕彰文を刻む。
紀元前216年(始皇31)嬴政44歳
祭祀を行う。
兵士を連れて咸陽周辺を視察中に盗賊に襲われる。兵士が撃退。
紀元前215年(始皇32)嬴政45歳
(第四回巡行)渤海湾の碣石に行き仙人を探す。
部下に不老長寿の薬を探させる。
北の国境を視察。
将軍・蒙恬に匈奴を攻撃させる。
紀元前214年(始皇33)嬴政46歳
南方の百越に50万の大軍を送り長江以南の南方の占領をはじめる。
北西でも匈奴と戦う。
紀元前213年(始皇34)嬴政47歳
長城の建設。南方の越の地に砦を築かせる。
紀元前212年(始皇35)嬴政48歳
九原から雲陽まで山を削り直道を作る。
人が増えて咸陽が狭くなったので阿房宮を建設。
不老不死の薬を探している始皇帝につけ込んで、始皇帝を騙し巨額の出費をさせた上に暴言を吐いて逃げた術士たちと仲間や訴えのあった者たち 460人あまりを処刑、埋める。(この話が漢の時代に坑儒(儒教の弾圧)にすり替わってしまう)
紀元前212年(始皇37)嬴政50歳
第五回巡行
末子の胡亥と左丞相・李斯が同行。途中で始皇帝は病に倒れる。遺言を宦官の趙高に託す。その後、始皇帝死去。
始皇帝の死を秘密にしたまま都の咸陽に戻る。
遺言は処分され、趙高、李斯、胡亥によって偽の遺言が作られ。
太子・扶蘇は自害に追い込まれ、蒙恬が投獄される。
末子の胡亥が二世皇帝に即位。
まとめ
始皇帝 嬴政は紀元前259年に生まれ。若くして秦王に即位し国内をまとめたあと、天下統一のための戦いを行い中国史上はじめて統一を達成しました。その後も数々の改革を行い、強大な帝国を築き上げました。紀元前210年に巡行中に病死、その後、秦はわずか数年で滅亡しました。
始皇帝の生涯は中国の歴史において重要な転換期。始皇帝がいなければその後の中国がなかったとい言ってもいいくらいです。しかし急激な拡大と改革には反動も大きく、帝国は長続きしませんでした。その業績は今もなお評価が分かれています。
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