洪熙帝 朱高熾の死因は病死?毒殺?短命皇帝の謎を徹底解説

洪熙帝の死因 2.1 明の皇帝・皇子
記事内に広告が含まれています。

明の第4代皇帝 洪熙帝(こうきてい)朱高熾は、わずか1年という短い期間だけの皇帝でした。

即位からわずか10ヶ月で突然この世を去ってしまいます。彼の死は当時から多くの憶測を呼び真相は謎に包まれています。

この記事では洪熙帝 朱高熾の死にまつわる謎を深掘りします。なぜ彼はこんなにも短命だったのでしょうか?当時の史料から読み取れる複数の死因説や、まことしやかに囁かれた噂まで比較してその真相に迫ります。

 

スポンサーリンク

死因の謎と突然の最期

洪熙帝(こうきてい)朱高熾(しゅこうし)は明の第4代皇帝です。

明 洪熙帝の全身肖像画

明 洪熙帝の全身肖像画

洪熙帝の崩御はあまりにも突然でした。

洪熙元年(1425年)5月、彼は48歳で急死します。『明仁宗実録』や『明史・仁宗本紀』といった当時の公式な記録には、「無疾驟崩(病気なく突然崩御した)」とだけ記されています。具体的な死因が書かれていないため、後世の人々は様々な想像をしました。

健康状態が悪かったとはいえ、まさかここまで急に命を落とすとは。この突然の死は当時の人々にとっても大きな衝撃でした。

 

スポンサーリンク

洪熙帝 朱高熾の有力な死因説を紹介

洪熙帝 朱高熾の死因については、主に以下の説が有力です。

暴飲暴食・不摂生による病死説

洪熙帝の死因として昔から言われてきたのが、暴飲暴食や不摂生が原因で命を縮めたという説です。

洪熙帝が即位した後、大臣の李時勉(りじめん)という人物がいました。彼は皇帝に対し、嗜欲(思うがままに飲み食いすること)を慎むよう意見した記録が残っています。

しかし、洪熙帝はこれに激怒。李時勉に厳しい罰を与えました。当時の洪熙帝は「時勉が私を辱めた」と恨みを口にしたほどです。他にも皇帝の健康を心配して生活習慣を改めるよう進言した臣下はいたようです。

でも洪熙帝はなかなか自分の習慣を変えなかったと伝わります。

彼は若い頃から肥満気味で足に持病があったため歩くのが不自由でした。このような体型と生活習慣から考えると、病気になったとしても不思議ではありません。

 

生活習慣病が原因?「陰症」の考察

上記の暴飲暴食説と関連しますが、より具体的な病気の可能性を示す史料もあります。

明代の陸釴(りくえき)が著した『病逸漫記(へいいつばんき)』には、洪熙帝の死について、次のような記述があります。

仁宗皇帝は崩御が非常に速かった。雷に打たれたという説や、宮人が張皇后を毒殺しようとして誤って上を毒殺したという説もある。かつて雷太監にその真相を尋ねたところ、すべて違う陰症であったと言っていた

出典:病逸漫記

ここでいう「陰症」とは、当時の中国医学の言葉です。現代医学の観点から見ると、これは生活習慣病、特に肥満が原因で起きやすい高血圧や心臓病といった疾患を指す可能性が高いでしょう。

この記述は、洪熙帝に仕えていた太監(宦官)の証言に基づいているため、かなり信頼性の高い情報と考えられます。

さらに、ある大太監の報告によれば洪熙帝は心臓病の発作で亡くなったともされています。

洪熙帝の肥満体型や足の病気を考えると、長年の不摂生な食生活が生活習慣病を悪化させ、最終的に心疾患で急死したというのが、最も真実に近い死因だと考えられます。

 

なお。この書物で書かれた「宮人が張皇后を毒殺しようとして誤って毒殺した」という部分はアレンジされて中国ドラマ「尚食」の朱高熾の最期の場面の演出に使われています。

 

ストレスと過労による心身の疲弊説

皇太子だった朱高熾は父である永楽帝のもとで非常に厳しい日々を過ごしました。温厚な性格の朱高熾は永楽帝に厳しく叱られても耐え抜いたと言われています。永楽帝が何度も遠征に出ていた間、皇太子の朱高熾は「監国」として留守を預かり、国の政治のほとんどを任されていました。

これは若い皇太子にとって、とてつもないプレッシャーだったでしょう。暴飲暴食も、もしかしたらそのストレスを発散するための手段の一つだったのかもしれません。

皇帝に即位してからは、永楽帝の強引な政策で疲弊した国を立て直すため、洪熙帝は精力的に改革を進めます。民衆の負担を減らす減税や恩赦、官僚制度の見直しなど、どれも重い責任が伴う仕事です。こうした精神的なストレスに肉体的な過労が重なることで、元々抱えていた生活習慣病をさらに悪化させた可能性も十分に考えられます。

怪しい薬「金石の方」服用説

さらに、洪熙帝の死因には怪しい薬の服用が関係しているという説もあります。

明史・羅汝敬伝』には、次のような記述があります。

…先皇帝(洪熙帝)が帝位を継いで間もなく…金石の方を献じられ、これにより病に至った

出典:『明史・羅汝敬伝』

この「金石の方」とは不老長寿や精力増強があるとされた錬丹術の薬のことです。錬丹術とは道教の技術のひとつで、不良長寿若さを目指す技術です。でも錬丹術で作られた薬には水銀や鉛などの有害な鉱物成分が含まれていることがあります。

現代の知識では毒ですが、当時は本気で信じていました。実際に歴代の中国皇帝の中には、これらの薬を服用して命を縮めたとされる人物が何人もいます。洪熙帝もような有害な薬を服用していたとしたら、それが急死の原因の一つとなった可能性もあります。

 

スポンサーリンク

ありえない、死因の珍説:「長男による殺害」説

ここからは非常に衝撃的な洪熙帝の長男・朱瞻基(後の宣徳帝)による殺害説についても紹介します。

これは歴史書には記されていない一部の研究者が主張した珍説です。

客観的に見ればありえませんが、こういうことを言う人もいるのだと思ってください。

この説を唱える人たちは以下のような状況を指摘します。

  • 朱高熾と朱瞻基の性格の違い: 朱高熾が温厚で享楽を好んだのに対し、長男の朱瞻基は騎射に優れて武勇を好み、権力欲が強く計略に長けていたとされます。
  • 急な父子別れ: 洪熙元年(1425年)3月、朱高熾は朱瞻基に鳳陽と南京の皇陵を祭るよう命じました。朱瞻基は4月14日に北京を出発します。
  • 親信宦官の関与: 朱高熾に仕えていた宦官の海濤(かいとう)は、朱瞻基の親しい部下でした。この海濤が朱瞻基と事前に謀議を交わし5月13日に洪熙帝を加害したというのです。
  • 朱瞻基の行動: 朱瞻基は命じられた日程通りには動かず、直接南京へ向かいました。そして北京から発喪の報が届く前に、南京で「仁宗上賓(皇帝が崩御した)」という噂が流れていたと言います。
  • 帰京時の発言: 朱瞻基は北京へ急いで戻る途中、奉詔を待つ海濤と合流し、6月3日に北京へ到着します。その際、大臣たちが「人心がざわついているので慎重に」と促したのに対し、朱瞻基は「天下の神器は智力で得られるものではない。祖宗の成命があるのだから、誰が邪心を抱くものか!」と答えたとされます。この発言は、全てが彼の計画通りに進んだことへの自信と、父を弑したことへの自得を示唆していると解釈されています。

この説は歴史書にはありません。非情に大胆な解釈で具体的な証拠もないので信憑性は低いです。

でも、洪熙帝の突然の死と朱瞻基の迅速な行動がこのような憶測を生んだのかもしれません。

 

結論:洪熙帝 の死因

洪熙帝の死因については決定的な証拠はありません。でも、これまでの有力な説を総合すると次のような真実が見えてきます。

  • 洪熙帝はもともと肥満体質で足にも持病がありました。
  • 好物である肉料理をたくさん食べるなど、生活習慣が乱れていた可能性が高いです。
  • これらが原因で現代でいう生活習慣病(高血圧や心臓病など)を患っていた。

と考えられます。当時の大太監の報告が心臓病発作であったと述べている点も、これを裏付けます。

加えて

  • 皇太子時代から続く永楽帝からの重圧。
  • 兄弟との後継者争いと父からの低い評価。
  • 即位後に精力的に行った改革の重責。

などが大きなストレスと過労になったと考えられます。そして心身ともに疲弊した状況が生活習慣病をさらに悪化させたのでしょう。

さらに「金石の方」のような有害な薬を服用していたのなら、それがさらに悪化させた可能性も考えられます。

つまり洪熙帝の死は一つの原因ではなく、長年の不摂生とストレス、過労、そして可能性として有害な薬の服用といった複数の要因が重なり合って起きたものだと想像できます。

朱瞻基による殺害説は、あくまで「噂」や「物好きな陰謀論者の珍説」です。

 

まとめ

洪熙帝の死は在位期間の短さもあって歴史上の大きな謎の一つでした。当時の史料や後世の記録を総合すると、彼の死因は暴飲暴食による生活習慣病の悪化が最も有力な説です。さらに永楽帝の厳しい重圧によるストレスや過労、そして一部には有害な薬の服用が影響した可能性も指摘されています。

短命でしたが洪熙帝は疲弊した明を救い、その後の「仁宣の治」の礎を築いた名君でした。

彼の死の背景には皇太子や皇帝としての重責、彼自身の人生の苦悩があったのかもしれません。

 

洪熙帝の短い生涯と謎の多い死の背景には、彼の苦労や、成し遂げた偉大な功績、明朝の未来を左右した重要な判断がありました。彼の生涯やその「仁政」が明朝にもたらした影響について、さらに深く知りたい方はこちらの記事もご覧ください。

洪熙帝 朱高熾:短命ながら明を救った仁君の功績と生涯

 

コメント

error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました