唐の2代目皇帝・太宗 李世民は唐を大帝国にした偉大な皇帝として知られています。
皇帝としての能力や実績もさることながら、14人の息子たちとの間に様々なドラマがありました。
特に跡継ぎでは太宗も頭を悩ませました。
この記事では太宗 李世民の14人の息子たちについて、その生涯やエピソードを紹介します。
太宗 李世民の嫡子
1. 李承乾(り・しょうけん)/皇太子
生年:618年
没年:645年
享年:28歲。陪葬昭陵。
太宗の長男。
李承乾は幼い頃から賢く太宗が行幸の際には監国を務めました。成長すると素行が悪くなり異国風の衣装や音楽を楽しんでいました。太宗は孔穎達らを教育係にしましたが、承乾の行いは良くならず逆に危害を加えようとします。
足が悪かった承乾は太宗が魏王李泰を可愛がると李泰を敵視。寵愛していた美男の称心を太宗に殺されその死を悲しみました。そして李泰の殺害を企てますが失敗。計画が漏れて廃位され庶民に落とされ、黔州に流されました。

4. 李泰(り・たい)/魏王
生年:620年
没年:652年
享年:33歲。
太宗の四男。
太宗は李泰が学問好きなのを知り王府に文学館を置くことを許し、体格上の理由から輿での参内も許可しました。李泰は蕭徳言らを集めて『括地志』編纂。550篇の大作を完成させました。
皇太子・李承乾は地位を奪われると思って李泰を敵視。李泰も支持者を集めて派閥を作り皇太子の座を狙いました。李承乾は李泰の命を狙おうとしますが失敗。
太宗は李泰を皇太子にしようと考えましたが長孫無忌が反対。李泰は東萊王に降格になり、李治が皇太子になりました。その後、李泰は順陽王に改封され均州で暮らしました。
9. 李治(り・ち)/高宗
生年:628年
没年:683年
享年:55歲。
太宗の九男。
皇太子 李承乾が李泰を排除しようとして失敗。代わりに李治が皇太子となりました。
太宗の死後、李治は皇帝に即位。呉王李恪を擁立する動きがあったので長孫無忌は李恪を自殺に追い込みました。
高宗の治世では、百済を滅ぼし白村江の戦いで勝利。高句麗も滅ぼし唐の領土を拡大。唐史上最大の領土を獲得しましたがチベット、突厥との戦いが起こり朝鮮半島経営を放棄しました。
太宗時代の重臣の影響を排除するため科挙出身者を採用。新しい宰相を任命して長孫無忌、褚遂良らを排除しました。
高宗は武則天を後宮に呼び戻すと王皇后を廃し武則天を皇后にしました。武則天の気の強さに嫌気がして廃位しようとしたこともありましたが断念。病により政務の処理が難しくなると一部の処理を武則天に任せました。しかし高宗の死後、皇帝の座は武則天のものになってしまいます。
太宗 李世民の庶子
2. 李寬(り・かん)
生没年:不明
早世。
3. 李恪(り・かく)/吳王
生年:於武德二年(公元619年)
没年:薨於永徽四年二月(公元653年)
享年34歲。
5.李祐
生年:不明
没年:645年
李祐は狩猟が好きで、側近には狩猟仲間を任命していました。注意する教育係を排除していたので太宗が権万紀を李祐の教育係にしました。権万紀は李祐の側近を排除、李祐に謝罪文を書かせました。
李祐は権万紀への不満を高めます。権万紀が李祐の罪を朝廷に報告したので李祐は怒りを爆発。権万紀を殺害して反乱を起こしました。
しかし逃亡者が続出。李勣らに捕らえられ長安に送られました。その後、自殺させられ庶人に落とされましたが国公として葬られました。
6. 李愔(り・いん)/蜀王
生年:不明
没年:667年
李愔は狩猟が好きで違法行為が多かったため、太宗から何度も叱られていました。しかし直そうとしなかったので太宗は怒って李愔の領地と配下の数を半分に削り、虢州刺史に左遷しました。
その後、領地は戻されましたが李愔は再び狩猟に没頭。民を苦しめました。御史大夫の李乾祐が李愔を弾劾。すると高宗は怒って李愔を黄州刺史に左遷。
その後、同母兄の呉王 李恪が謀反を起こして罰せられると李愔も廃位されて庶民とされ巴州に移されました。死後、蜀王の爵位が回復しました。
7. 李惲(り・うん)/蔣王
生年:不明
没年:上元年間
李惲は贅沢な生活が好きで400両もの車を所有。各地で騒動を引き起こしていました。高宗に訴えられましたが処分はありませんでした。その後、各地の刺史を歴任。
ある時、録事参軍の張君徹が李惲の謀反を密告したため高宗の使者が取り調べに来ました。李惲はもう助からないと思い自殺しました。
その後、高宗は謀反が事実無根だったことを知り張君徹を処刑しました。
8. 李貞(り・てい)/越王
生年:626年
没年:688年
享年:62歲
李貞は皇帝になった武則天に危機感を抱き李氏による政権奪還を計画しました。
李貞は明堂完成を機会に武則天が李氏一掃を企てていると考え、李沖らと連携して挙兵しました。しかし李沖の部隊は大敗し殺害されました。
李貞も挙兵しましたが諸王の協力が得られず、武則天が派遣した大軍に敗れ服毒自殺しました。李貞の挙兵は失敗に終わりましたが、武則天の独裁政治に対する抵抗を示すものでした。
10. 李慎(り・しん)/紀王
生年:不明
没年:689年
学問が好きで、文章と歴史に越王李貞とともに「紀越」と呼ばれました。領主としても有能で、太宗も李慎の働きを褒めました。
李貞らが武則天打倒を計画したとき李慎は時機尚早として協力を拒否。李貞らが敗れた後、李慎は捕らえられましたが命は助けられ「虺」と氏を改められました。その後、巴州に流される途中に蒲州で死亡。
李慎はその能力と人柄から太宗から信頼され民衆からも慕われていましたが、政治的な混乱に巻き込まれ、不幸な晩年を送りました。
11. 李囂(り・きょう)/江王
生年:不明
没年:633年
12. 李簡(り・かん)/代王
生年:不明
没年:632年
若くして死亡。
13. 李福/趙王
生年:635年
没年:670年
享年:36歳
秦州都督・梁州都督などを歴任。赴任先の屋敷で死亡。子がなかったので蒋王李惲の孫の李思順が趙王を継ぎました。
14. 李明(り・めい)/曹王
生没年不明
李明の母・楊氏は元は巣王 李元吉の妃でしたが、玄武門の変で李元吉が殺害され。太宗の側室になりました。太宗に寵愛され皇后候補にも挙がりましたが重臣の反対で太宗は楊氏の立后を断念しました。
梁州都督、虢州・豫州・蘇州の刺史を歴任。高宗の命で李元吉の跡を継ぎましたが、皇太子 李賢の事件に連座して零陵王に降格され、黔州に流されました。
その後、都督の謝祐の脅迫を受け自害。李明の棺は長安に運ばれ昭陵に陪葬されました。
まとめ
太宗李世民と長孫皇后との間に生まれたのは、皇太子 李承乾、魏王 李泰、そして後の高宗となる晋王 李治の3人です。
長男の李承乾は聡明でしたが、成長するにつれて奇行が目立つようになり、廃太子とされました。四男の李泰は学問を好み、太宗からも寵愛されましたが、皇太子の座を狙い、兄弟間の対立を生みました。
九男の李治は、兄たちの争いを尻目に皇太子となり、太宗の死後、皇帝の座につきました。
庶子として生まれた息子たちもそれぞれ個性的な人生を歩みました。
狩猟を好んで反乱を起こした李祐、贅沢な生活を送った李惲など、その生き様は様々です。
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