李承乾(り しょうけん)は唐の皇太子。
太宗・李世民の長男でした。
若い頃は有能だとされましたが、やがて奇行がめだつようになりました。
やがて謀反の疑いで廃位されてしまいます。
史実の李承乾はどんな人物だったのか紹介します。
李承乾の史実
どんな人?
字:高明
地位:中山王→皇太子→庶人
生年月日:618年
没年月日:645年
彼は唐の第2代皇帝・太宗李世民の長男。皇太子でした。
日本では飛鳥時代になります。
家族
おいたち
618年。唐が建国してまもないころに長安で生まれました。
父:太宗 李世民
承乾殿の父は秦王 李世民。
後の2代皇帝 太宗です。
母:長孫皇后
母は秦王 李世民の正妻。長孫氏。
後の長孫皇后(文徳皇后)です。
英才教育を受ける
李承乾は承乾殿という場所で生まれたので承乾と名付けられました。「承乾」には「皇位を継ぐ」という意味があります。
生後まもない620年(武德3年)には恒山王になりました。
李世民は嫡長子の承乾に大変期待して幼いころから最高の教育を受けさせようとしました。
- 儒学の基礎を学ぶ: 李世民は儒学の大家 陸德明と孔穎達を招き李承乾に儒教の経典を学ばせました。
- 側近を付ける: 長孫氏一族の長孫家慶や長孫祥を李承乾の側につけ、教育やサポートにあたらせました。
李承乾は幼いころから聡明だったといいます。
626年。父・李世民が皇帝になると、李承乾は皇太子になりました。8歳でした。
太宗 李世民はクーデターで兄弟を粛清、父を退位に追い込みました。そんとあめ太上帝・高祖 李淵は李世民とは仲は良句ありませんが。孫の李承乾は可愛がっていたようです。
632年に太宗が太上帝・高祖のために宴会をひらいたときも、太宗が自ら高祖の駕籠を担ごうとしましたが、高祖は拒否。承乾に担がせました。
皇太子として期待を受ける
唐の太宗・李世民は、愛息子の李承乾を将来の皇帝として立派に育て上げようと、様々な工夫を凝らしました。
政治の基礎を学ぶ
まだ12歳だった承乾に太宗は政治に関わる機会を与えました。訴訟を聞き、重病の大臣を見舞うなど政治感覚を養わせようとしたのです。
学問への励まし
太宗は承乾のために有名な学者を招き、将来の皇帝に必要な知識を身につけさせました。
承乾自身も非常に熱心に学び歴史書に注釈をつけたり、学者の集まる場で講義を行ったりしました。
民衆への理解を深める
太宗は承乾が民衆の生活について深く理解するよう、側近に命じて民衆の苦労話などを聞かせました。
厳しすぎる教育
学者たちは1日中、承乾に人々のさまざまな苦しみについて話し、承乾が日常生活で失敗をすると注意、詳しくアドバイスしました。
こうして幼いころから厳しい学者や臣下に囲まれ。自分の心を押さえつけ優等生として育ってきた李承乾でしたが。成長するにつれて反抗的な部分が目立つようになり、遊び歩くこともありました。
揺らぎ始めた皇太子の地位
相次ぐ理解者の他界
貞観9年(635年)。唐の高祖・李淵が死亡。
太宗は喪に服す間、16歳の李承乾に監国を命じました。李承乾は父の期待に応えて監国の役目を無事務めました。
それ以降、太宗が外出するときは常に李承乾が留守を守り国の政治を行いました。
貞観10年(636年)。李承乾の母・長孫皇后が病死。李承乾は深く悲しみました。
異国趣味
李承乾の周辺ではテュルク(突厥)の文化が流行、テュルクの服を来たり、テュルクの言葉を話したり、テュルク風のテントに泊まったりしました。
唐の時代には異文化が流行することはよくありました。特に若者は異国の文化に馴染みやすかったのです。
もともと李一族の祖先は遊牧騎馬民族の鮮卑です。遊牧民文化へのあこがれもあったのかもしれません。
しかし太宗は漢人の文化にあこがれていました。漢人官僚や年配の臣下からは遊牧民文化は評判はよくありませんでした。
反抗的になる李承乾
太宗は孔穎達・令狐徳棻・于志寧・張玄素・趙弘智・王仁表・崔知機を李承乾の教育係にしました。ところが李承乾は改めようとしません。
641年。太宗が洛陽に行く間、李承乾は長安に残り叔父の高石蓮の補佐をうけました。
しかし口うるさい于志寧に腹をたてて彼を殺害しようとします。刺客を送り込みましたが、親の喪に服している于志寧を見て刺客達は于志寧の殺害を諦めました。
足が不自由になり皇太子としての地位が揺らぐ
李承乾はある時から足が不自由になりました。はっきりとした記録はありませんが、狩りの際に怪我をしたという説もあります。
李承乾は歩くこともままならなくなり、以前のような活発な姿を見せることができなくなりました。
このころ唐太宗は側近の前で弟の魏王・李泰を称賛、李承乾が後を継ぐことに不安を感じている様子を見せるようになりました。
もともと李承乾の行動を快く思っていない大臣たちの間からは李承乾は皇太子としてふさわしくないという声が上がり始めます。
李承乾の足の病は彼の健康だけでなく皇太子としての地位を揺るがす結果をもたらしたのです。
李泰を溺愛する太宗
魏王 李泰は李承乾とわずか1歳しか違わず母も同じです。李泰は皇位を奪おうと行動するようになりました。
李泰は知性と文学の才能があると考えられたので父・太宗から可愛がられていました。
李泰が多くの学者を雇っているのを知った太宗は李泰の俸禄を上げました。すると李承乾よりも俸禄が高くなってしまいます。
朱水良は兄弟の間で争いが怒ると考えて反対。太宗は李承乾の支出の制限をなくして自由にお金を使えるようにしました。
しかし太宗が李泰を気に入っていることが明らかになり、朝廷内の臣下たちは李承乾派と李泰派に分かれてしまいました。
称心との関係
李承乾は称心という寵童をかわいがっていました。おそらく同性愛だったのではないかとも言われます。
642年。皇太子の行いにふさわしくないとして太宗は称心を処刑しました。
また李承乾は、韋靈符という道教の導師を雇って、道教のまじないをさせていました。
儒教を信じている臣下たちは道教は邪道だと思っていたので太宗に訴えます。太宗は導師を皆殺しにしました。
李承乾は称心や導師のことを太宗に知らせたのは李泰だと信じて恨みました。
称心の死を悲しんで宮中に承心の祠を建て。数カ月間、皇室の集会に出席するのを拒否して供養しました。
李泰は自分の派閥の者たちを使って自分の良い評判を流させます。国民に皇太子にふさわしいのは李泰だと信じ込ませようとしました。
謀反の計画
李承乾はますます不安になって自分の派閥を集めて話し合いました。
李承乾は師進・張師政・紇干承基らに命令して李泰を暗殺させますが失敗。
そこで叔父の李元昌、侯君集・宮殿の守備隊長・李安儼、従兄弟の趙節・杜荷とともに、父・太宗に対してクーデターを起こすことも考えました。
李承乾の護衛隊長の賀蘭楚石も加わりました。
ところが関係ないところで李承乾の弟・李祐が反乱を起こしました。李祐の反乱はすぐに鎮圧されましたが李祐の共謀者に李承乾の支持者・紇干承基もいました。
紇干承基は保身のため李承乾の計画もばらしてしまいます。
太宗はショックを受けて調査を開始。李承乾の計画が明らかになりました。
643年。李承乾は皇太子の地位を奪われ庶人に落とされ、黔州に流されることになりました。
李元昌は自害を命じられ、他の共謀者は処刑されました。
李承乾の最後
李承乾が流刑先に向かう前のことです。李承乾のもとに太宗が訪ねてきました。
李承乾は「私はすでに皇太子になっていたのになぜあんな事をしたのか。それは李泰はよく陰謀をたてていたからです。私は身を守るために部下たちと相談しなければいけませんでした。野心家たちは私に反逆させようと提案しました。もしあなたが李泰を皇太子にしたら、彼の策略にはまることになるのです」
太宗は次の皇太子を李泰にしようと考えていました。
でも李承乾の言葉を聞いて李泰が李承乾を追い詰めたと考えるようになりました。
そして李泰ではなく、李治が皇太子になりました。
645年。李承乾は流刑先で亡くなりました。
罪人ではなく、国公の礼で葬られ、愍の諡が贈られました。
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