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ドラマ『蘭陵王』の時代背景:中国・南北朝時代とは?定義と特徴は?

ドラマ『蘭陵王』を観て華やかな衣装やドラマチックな展開の裏にある歴史に興味を持った方も多いでしょう。

この記事ではドラマの舞台になる南北朝時代とはどういう時代か、北斉がどんな国か?そして北斉の滅亡と隋の建国までの時代背景を解説します。

さらにドラマ『蘭陵王』が557年を出発点にした意味や歴史書が語る蘭陵王・高長恭の実像、北斉滅亡から隋の統一へつながる流れまでをしょうかいしていきます。

この記事で分かること

  • 南北朝時代の範囲(439〜589年)と、北と南が並立した基本構図
  • 北魏由来の均田制・戸籍制度などが北朝の軍事力を支えた理由
  • 557年に「北斉・北周・陳」が揃うことの意味と、ドラマの時代設定の狙い
  • 蘭陵王・高長恭の史書上の姿と、北斉の粛清体質が招いた弱体化の流れ

 

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南北朝時代とは

歴史的な南北朝時代の定義

後漢末期の混乱した時代から一時的に晋が統一したものの、再びいくつもの国が争う五胡十六国時代となります。

華北では439年に北魏が統一。南部では420年に普が反乱で倒れ宋が成立。北と南にそれぞれ有力な王朝が成立する時代となりました。

この439年から隋が南朝最後の王朝である陳を滅ぼした589年までを南北朝時代といいます。

中国史年表 春秋戦国から現代まで

中国史年表

およそし150年近く南部と北部の王朝が対立と共存した時代です

 

南北朝時代の特徴

後漢末期の戦乱から五代十国にかけて華北では戦乱が相次ぎ、多くの人々が南に移動。同時に北方や西方の異民族が華北に移り住み、激減した漢人に替わって移民者達が自分たちの国を作るようになっていました。そのため華北を統一した北魏の支配者は鮮卑の貴族です。

華南は北に比べれば戦乱が少なく、移民した漢人たちによって開墾が進み食糧生産と経済力が上がりました。

 

557年が始まりの理由は三国対立が確定した年だから

ドラマ『蘭陵王』は557年から始まっています。これは大きな意味があります。

556年の末に北周が成立。557年は本格的に北周が動き出す年。557年には南部で陳が建国。550年に成立した北斉とあわせて、北斉・北周・陳の三つの大国が揃った年になります。

ドラマは3つの大国が揃った年を始まりにしているのです。

6世紀中頃の中国南北朝時代の勢力地図

 

 

北朝の支配者は鮮卑系貴族

ドラマの舞台になるのは北斉と北周です。どのような国なのか知るにはその前に存在した北魏を知る必用があります。

北魏は鮮卑拓跋部の人たちが建国した国です。支配層は鮮卑系貴族が中心です。

しかし広大な華北を統治するために北魏は漢人官僚を多く採用。中華王朝式の制度を取り入れます。孝文帝期には洛陽遷都や漢化政策が進められ、制度面での中国化がさらに進みました。

北魏は国家が戸籍と土地を管理する制度が整備され、律令制のもとになる仕組みが出来上がります。

均田制と戸籍制度によって国家が土地と人口を把握し、租税と兵役を制度的に管理できました。

北魏が長期存続したことの意味

北魏は386年の建国から534年の分裂まで約150年続きました。

この長期存続により均田制や三長制といった制度が実務として定着。制度が世代を超えて運用されることで、徴税と兵役動員のしくみ維持されました。

北斉・北周は王家の違う別王朝ですが、行政のしくみや組織は北魏を受け継いでいます。制度が途絶えなかったのは北朝政権が強さを発揮する理由になります。

北魏の分裂から北斉・北周へ

北魏は6世紀前半内部抗争により東魏と西魏に分裂しました。

東魏は皇帝は拓跋氏ですが、重臣の高歓が実権を握る国。高歓の死後、550年に息子の高洋が皇帝を廃して北斉を建国しました。

西魏はも拓跋氏の皇帝がいますが、宇文泰が実権を握る国。宇文泰の死後、甥の宇文護は皇帝を廃して宇文覚を皇帝に立てて557年に北周を成立させました。

東魏・北斉は華北東部の人口集中地域を基盤とし、経済規模では優位に立っていました。

西魏・北周は関中(長安周辺)を本拠としました。人口や経済規模では北斉に劣る面がありましたが、関中は防御に適した地形であり、軍事的結束を保ちやすい地域でした。宇文泰の死後も宇文護が強権を維持して結束を保ちました。

 

南は梁から陳へ 王朝交代の影響

南朝では宋・斉・梁・陳と王朝が交代しました。

梁は侯景の乱(548〜552年)で深刻な打撃を受け、国家基盤が弱体化。その後に成立した陳は再建途上の政権でした。

王朝交代そのものが制度を消滅させたわけではありませんが、内乱と権力再編に多くの労力を費やし。国として戦力を集中し軍事的な主導権を握ることは困難でした。

 

北朝が強かったわけ

ドラマでは乱れた天下を統一するのは南の陳ではなく北の周か斉と言われています。事実、軍事的には北側の国の方が優勢でした。

北朝を構成するのは遊牧騎馬民族が多く戦闘に長けている人が多かったというのもありますが。

民族的な理由だけが北朝の強さの秘密ではありません。国の仕組みが整って戦力を集中できるしくみになっていたからです。

すでに紹介したように北魏以来、北朝では国家が戸籍と土地を管理する制度が整備されました。そのため安定して税と兵を集めることができます。

また華北の勢力だけに集中していればいい南朝と違い、北朝は北方の遊牧民王朝の圧力も受けやすく。北と南の敵に挟まれて常に軍事的な緊張状態にありました。

北朝は常に軍隊を維持して戦える状態にしなければいけないのです。

 

北魏が長期存続した意味

あと大きなのが北魏が386年の建国から534年の分裂まで約150年続いたことです。

一つの王朝が長い間続いたことで、均田制や三長制といった制度が実務として定着。制度が世代を超えて運用されるて徴税と兵役動員のしくみ維持されました。

北斉・北周は王家の違う別王朝ですが、行政のしくみや組織は北魏を受け継いでいます。制度が途絶えなかったのは北朝政権が強さを発揮する力に繋がったのです。

これが頻繁に王朝交代を続けている南朝とは違うところです。

 

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北斉の皇帝交代:高演→高湛→高緯

ドラマ『蘭陵王』で注目点の一つになっているのが北斉内部の皇位継承問題です。

この時期の北斉では皇位が兄弟間で移動しました。

北斉家系図

北斉家系図

高演から高湛へ:兄弟間継承

北斉の初代皇帝は文宣帝 高洋です。しかし文宣帝は34歳で病死。幼い高殷が即位しましたが。高殷の母方の勢力や重臣たちが権力を握り高演・高湛と対立。

高演・高湛が反乱を起こして高殷を廃し、第3代皇帝は孝昭帝 高演が即位。孝昭帝は幼い高殷を処刑してしまいます。

高演の死後、皇位は弟の武成帝 高湛へ移ります。本来であれば皇太子の高百年が継ぐところです。

でも高演は若い息子が高湛に謀反を起こされ殺害されるのを恐れ、高百年を殺さない条件で高湛に譲位したのです。

でも高湛は即位後に高百年を処刑しました。

兄弟間で皇位が移ること自体は中国史に前例がありますが、北斉では皇族内の権力抗争が激しく、皇帝交代のたびに粛清が発生。そのため、皇族や有力将軍に対する警戒が強まりやすい状況でした。

 

北斉では皇帝が変わるたびに皇族や重臣への粛清が行われました。蘭陵王が粛清されやすい環境はすでに出来上がっていたのです。

 

 

高湛時代の国力

武成帝 高湛の時代(561-565年)。北斉は依然として華北東部の人口の多い地域を保有して人口や経済規模では北周を上回っていました。

北周との軍事衝突は常に発生しましたが、決定的な敗北を喫する段階ではありませんでした。6世紀前半から中盤にかけては、北斉と北周はほぼ拮抗状態にありました。

北周が圧倒的優位に立つのは570年代後半以降です。

 

皇族の粛清が続く北斉

北斉では皇族間の処刑や廃立が頻繁に起こりました。

高殷は皇帝に即位しますが。高演・高湛によって廃され、即位した高演によって処刑されます。

高演が皇帝になり、その子の高百年が皇太子になりましたが。高演は病気のため死亡、高演は高百年を廃して弟の高湛を次期皇帝に指名しました。そうして叔父が甥から皇帝を奪って殺すのを止めさせようとしたのです。そこまでしたのは自分たちが高殷から皇位を奪ったからです。

でも高湛は即位した後、高百年を殺害しました。

このように北斉は建国以来ずっと皇族間の権力争いが続いていました。そうした社会では、皇族出身の有力将軍も警戒の対象になるのです。

そこで高湛は生前に退位して子の高緯(後主)を即位させました。まだ自分が力があるうちに皇家者を皇帝として育てようとしたのです。でも高湛は数年で亡くなってしまいます。

皇族内の争いはあっても高湛演も高湛も君主としては無能ではありません。なんとか北周との戦いで踏みとどまっていました。

でも高緯はそうではなかったのです。

 

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蘭陵王・高長恭の史実の姿

ドラマでは情熱的な英雄として描かれる蘭陵王ですが、正史の『北斉書』や『北史』には、皇族武将としての高長恭の姿が記録されています。

蘭陵王の血筋

蘭陵王 高長恭は北斉の実質的な基礎を築いた高澄の四男(三男説もあり)とされます。高澄は文宣帝・高洋の兄。高湛の甥で、高緯の従兄弟です。

母については記録がありません。そのため低い身分だった可能性があります。

仮面は保護具だった

史書には高長恭について「貌柔心壮」「音容兼美」といった表現があります。容貌が整い、声や立ち居振る舞いも優れていたことは記録上確認できます。

仮面についてははっきりした記録はなく、邙山の戦いの際、兜を着けて指揮したと伝えられます。当時は顔面を保護するための保護具を付けることが有りました。兜と一体になったり、兜とともに着用します。

この保護具が後に仮面として描かれるようになります。

美形を隠すためは後世の作り話

ただし美しすぎて敵を威圧できないため仮面を着けたというのは史実では有りません。唐の時代には演劇が広まる過程で演者が仮面を付ける理由として説明されたものが広まったのです。

 

邙山の戦い

564年、北周軍が洛陽を攻撃した際、高長恭は救援軍として出撃しました。

史書によれば、彼は少数精鋭で突入し、城側が疑って門を開けなかったため、仮面を外して自分であることを示したとされます。その後、北周軍を退却させました。

この戦功によって彼の名声は高まりました。

 

蘭陵王入陣曲

邙山の戦いの戦いの後。彼の武功を称える歌舞が作られたと伝えられます。これが後に「蘭陵王入陣曲」として伝承され、唐代までは盛んに演奏されました。宋時代以降「蘭陵王入陣曲」は廃れてしまいました。

しかしこの曲は奈良時代の日本にも伝わり雅楽にも影響を与え、現在も演じられています。

ただし、現在伝わる演劇がそのまま雅楽の形で残っているわけではなく、長い伝承の中で変化しています。

 

高緯との関係

573年、高緯は高長恭に自害を命じました。

史書には高緯が邙山での働きを警戒し「敵に深煎りし過ぎではないか?」と言ったところ、これに対し高長恭が「国のことを家のように思ってしまいました」と答えたという逸話があります。

この言葉の解釈については諸説ありますが、皇帝側が警戒を強めていたことは確かです。

 

処刑の背景

高長恭の死は573年です。高緯は毒を送り自害を命じました。

歴史書には高長恭が忠誠を訴えながら命を絶ったことが記されています。

当時の北斉では皇族や重臣の粛清が続いており、政治的不安定が強まっていました。高長恭の軍事的名声が要因の一つだった可能性はありますが、具体的な動機は史書に詳細に記されていません。

「蘭陵王の功績が高いために皇帝が恐れた」という後世の評価は中国史ではよくある粛清理由ですが。当時は外戚勢力や側近・臣下の影響も絡んでいます。

単に高緯個人が蘭陵王を恨んでいた・警戒していただけでは説明はつかないといえます。

蘭陵王亡き後の北斉

北斉の弱体化と滅亡

573年に高長恭が死去した後、北斉の政治はさらに不安定化します。

ただし、北斉の衰退は一人の将軍の死だけで説明できるものではありません。宮廷内の権力闘争と軍事指揮系統の混乱が重なっていました。

斛律光の粛清

斛律光は北斉を代表する名将で北周に対して実績を持っていました。

しかし572年、高緯は斛律光を処刑しました。背景には宮廷内部の対立や讒言があり、北周の離間工作が影響したと『北史』などに記されていますが、具体的な裏付けは限定的です。

いずれにせよ、主力将軍を自ら処刑したことは北斉軍の戦力低下に直結しました。

 

安徳王・高延宗の抵抗

577年、北周軍が侵攻すると、晋陽にいた皇帝 高緯は逃走。高延宗は晋陽で皇帝を名乗り抵抗を続けました。しかし北周の大軍の前に高延宗は敗北し、北周に捕らえられてしまいました。

北周による併合

577年、北周は北斉を滅ぼします。これにより華北は北周の支配下に入り、北方が統一されました。

北周の転換と楊堅の台頭

北斉を滅ぼした北周でしたが、その安定は長く続きません。

北周の武帝・宇文邕は578年に死去します。彼は中央集権化を進め、仏教弾圧や軍制改革を実行した有力な皇帝でした。

その死後、政権は急速に不安定になります。

楊堅の実権掌握

武帝の後を継いだ宣帝の治世は短く579年に死去します。宣帝は若くして死亡。幼い静帝が即位すると外戚だった楊堅が実権を握ります。楊堅は北周の有力軍人で政治基盤を着実に固めていきました。

楊堅は幼い皇帝を脅して譲位させました。

581年 隋の建国

581年。楊堅は北周の静帝を廃して。自ら即位。隋を建国します。

これは表面的には平和的な王朝交代ですが、実際には軍事力と権力を武器に強制したものです。その後、楊堅は静帝を殺害。宇文氏を粛清します。

このあまりにも酷い粛清が、後に隋王朝が滅びようとしたとき誰も楊氏を助けなかった原因とみる説もあります。

隋はやがて589年、隋は南朝の陳を滅ぼし中国を再統一します。

晋が統一を失ってから300年近く。後漢末期の混乱が始まった黄巾の乱からだと400年近く年月が流れ、中国はようやく一つにまとまったのでした。

隋は短命に終わりますが、そのしくみは唐に受け継がれ。中国にかつてない繁栄の時代をもたらしました。

北斉と北周の抗争は結果的に北方を再統合してその枠組みを隋・唐へ受け渡す過程といえます。

蘭陵王の生きた6世紀の戦乱は次の統一王朝の誕生へとつながる時期にあたるのです。

 

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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

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京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

詳しい経歴や執筆方針は プロフィールをご覧ください。

運営者SNS: X(旧Twitter)

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