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斛律光の史実|北斉最強名将の生涯と最後

北斉の名将・斛律光は北周との戦いで防衛の中心になり「落雕都督」と呼ばれました。戦功で権力の頂点に立つ一方で、側近政治と離間策により572年に処刑。一族粛清も重なり北斉滅亡を早めました。

出自や「落雕都督」の逸話から、邙山・宜陽・汾水での戦い、そして572年の処刑に至る政治背景までを史実をもとに紹介します。

 

この記事で分かること

  • 斛律光の出自(勅勒族・斛律氏)と、北斉で重用された理由
  • 「落雕都督」の異名が生まれた背景と、軍人としての評価ポイント
  • 邙山・宜陽・汾水など北周戦で果たした役割と“抑止力”としての存在感
  • 572年処刑が起きた政局(側近の嫉妬・皇帝の疑念・離間工作)と北斉崩壊への影響

 

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斛律光の史実

斛律光とは?北斉最強クラスの名将の生涯と最期

斛律光は北斉の軍事力を一身に背負った将軍。彼の存在そのものが北周に対する最大の抑止力となっていました。しかし最後は主君の高緯によって処刑に追い込まれてしまいます。

プロフィール

  • 姓:斛律(こくりつ )
  • 名:光(こう)
  • 国:北魏、東魏、北斉
  • 民族:勅勒族(高車族)
  • 生年月日:515年
  • 没年月日:572年8月22日
  • 享年:57

家族

  • 父:斛律金
  • 母:不明
  • 正室:不明
  • 子供:
  • 長男:斛律武都
  • 次子:斛律須達
  • 三子:斛律世雄
  • 四子:斛律恆伽
  • 長女:高百年の妃
  • 次女:後主高緯の皇后

 

 

出身と家系

斛律氏はもともと高車(トルコ系民族とされる)の流れを汲む部族で、父の斛律金(こくりつきん)の代から北斉の皇室である高氏(高歓ら)に仕えてきました。父の斛律金は鮮卑に伝わる「勅勒歌」を漢訳したことでも知られる重鎮。

斛律家は北斉でも最も信頼される家門の一つでした。一族が握る軍事的な動員力は北斉の国防でも欠かせない戦力となっていたのです。

 

「落雕都督」の異名

斛律光を語る上で欠かせないのが「落雕都督(らくちょうとくとく)」という異名です。

若いころ彼は高澄(高歓の長男)に従って狩猟に出て雲の間を飛ぶ大きな鳥を見事に射落としました。その鳥は当時、射落とすのが困難とされた「雕(ワシ=鷲)」でした。

この一件以来、彼は人々から「落雕都督(鷲を射落とす都督)」と称賛されるようになりました。

 

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斛律光の生涯

斛律光の生涯を年表で確認

斛律光の足跡を時系列で整理すると、彼の死がいかに北斉の崩壊と直結していたかが分かります。

  •  515年頃 誕生。父・斛律金とともに軍陣で育つ。 
  •  550年 北斉が成立。主要な将軍として各地を転戦。
  •  564年 洛陽救援。北周の軍勢を撃破し、その名を轟かせる。 
  •  570年 宜陽の戦い。北周の包囲を破り、汾水北方に防衛線を構築。 
  •  571年 右丞相、のちに左丞相に昇進。権力の絶頂期。 
  •  572年 讒言により処刑される(享年58歳前後)。
  •  577年 北斉が北周によって滅ぼされる。

 

若い頃から騎射で評価された

斛律光は幼少期から厳格な父のもとで軍事教育を受け、言葉数は少なかったものの、決断力と勇気に溢れていました。北魏の末期、国は高歓と宇文泰の勢力に割れて争っていました。斛律光は父の斛律金に従って宇文泰の勢力の勢力との戦いに参加しました。

この戦いで17歳の斛律光は、疾走する馬の上から当時、宇文泰に仕えていた莫孝暉を射抜いて生け捕りにしました。この功績により、高歓から賞賛され都督へと抜擢されました。

 

北周との戦いで北斉の防衛を支えた

550年に高洋が北斉を建国。斛律光は開府儀同三司に昇進。西安県子にもなりました。

北斉の最大の敵は西に位置する北周でした。斛律光は国境付近での防衛戦で重要な役割を担い、北斉の防衛線維持に大きく貢献しました。

庫莫奚討伐では先鋒として敵を破り、北周との国境戦では奇襲で敵勢力を撃退し、さらに北周の複数の戍を奪取しました。

559年には大軍を率いて北周軍を破り、敵将を討って拠点を占領・防備強化まで行っています。

 

娘が皇太子妃になり朝廷との結びつきを強める

さらに皇室との結びつきも強まります。孝昭帝は斛律光の家柄と功績を評価して、斛律光の長女を皇太子 高百年の妃に迎えました。

562年には太子太保となり軍功だけでなく朝廷の中枢でも重用される立場になりました。

 

邙山の戦いで北周の十万の大軍を破り北斉の守護神となる

北周軍を戦意喪失させる

564年、北周の達奚成興らが侵攻しましたが、相手が斛律光だと知ると戦わずに退却。斛律光はこれを追撃して2,000人を捕虜にしました。

邙山の大勝

同年冬。北周の尉遅迥・宇文憲ら10万の軍を5万の騎兵で迎撃。周将・可叱雄(王雄)を射殺して敵軍を壊滅させて死体の山(京観)を築くほどの大勝を収めました。

 

 宜陽・汾水での死闘と連戦連勝(567年〜571年)

その後、父の死によって喪に服していましたが。復職してからも北周の執拗な侵攻を全て跳ね返しました。

宜陽の解囲

570年、北周に包囲された宜陽を救援。数倍の敵(宇文憲ら5万)に追撃されるものの、返り討ちにして敵将を捕虜にすました。

さらに華谷・龍門・南汾などの城砦を次々と築き、北周に対する強力な防衛線を完成させました。

汾水の北の戦い

571年、名将・韋孝寛らを汾水以北で破り、さらに周辺の城を次々と攻略。この功により右丞相になります。

 

斛律家は北斉の有力な軍事一族になる

戦功を重ねるごとに斛律光の地位は上がり続け、ついに左丞相にまで上り詰めました。彼の弟や息子たちも軍の要職を占め、斛律家は北斉最強の軍閥となります。

娘が皇后となり宮廷との結びつきが強まる

さらに、斛律光の次女は後主(高緯)の皇后に迎えられました。外戚(皇帝の親戚)としての地位も手に入れて斛律家の権力は頂点に達します。

 

強すぎる力が皇帝高緯に疑われる

しかしこの「強すぎる力」が、皮肉にも皇帝の側近たちの嫉妬と恐怖を煽ることになりました。

高緯期の政局と側近政治

暗愚とされる後主・高緯の周囲には、祖珽(そてい)や穆提婆(ぼくていば)といった側近がはびこっていました。彼らにとって実力主義で厳格な斛律光は邪魔な存在でしかありませんでした。

兵士への恩賞を巡る対立

571年の遠征帰り。朝廷が恩賞を出さずに兵を解散させようとすると、斛律光は「兵の心が離れる」と考えて軍を都(紫陌)に留め恩賞を出すよう奏上しました。

軍が都に迫ったことに高緯は強い不快感を抱きます。最終的に恩賞は出たものの、皇帝の側近との対立や皇帝自身の疑念を深めることになります。

 

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斛律光の最後:572年の処刑はなぜ起きたのか

祖珽、穆提婆ら政敵たちは、北周側が流した「斛律光が謀反を企てている」という流言(離間計)を利用しました。

讒言と謀反疑惑

北周の将軍・韋孝寛は斛律光を排除するために「百升の飛鳥が天を突き、明月が長安を照らす(明月=斛律光が長安で皇帝になる)」といった不吉な童歌を流行らせたのです。

これを信じた、あるいは利用した祖珽、穆提婆たちが高緯に斛律光を処刑するよう説得します。

高緯による処刑と一族への打撃

572年、高緯は斛律光を宮中に呼び出し、待ち伏せていた刺客によって暗殺(あるいは処刑)させました。享年58。

さらに斛律一族の多くが処刑されるという悲劇に見舞われました。

 

死後の評価 北周が喜んだとされる理由

斛律光の死は敵国にとって好材料だった

斛律光の処刑は、敵国の北周にとって大きな好材料でした。

北周武帝がその死を聞いて喜んだと伝えられること自体が斛律光が北斉防衛の中心人物だったことを示しています。

のちに北周が北斉を滅ぼした後、武帝がこの人物が生きていれば鄴に入れなかったという趣旨を述べたとされることからも、評価の高さを裏づけます。

北斉滅亡との関係をどう見るか

斛律光の死の後、北斉は5年で滅亡しました。

滅亡の原因は一つではなく、宮廷内の政治混乱や皇族・臣下の粛清など複数の原因が重なっていますが。その中でも国境防衛を担った有力な将軍を自国の粛清で失ったことは、北斉にとっては重大なダメージでした。斛律光の死によって北斉の滅亡が早まったと言えるでしょう。

 

まとめ

  • 斛律光は北斉を支えた名将
    騎射に秀でて軍事面で高い評価を受けた将軍。
  • 国境防衛の中心
    来た周との戦いで前線指揮と防衛線維持を担った。
  • 内部粛清で失われた将帥
    敵の離間工作と宮廷政治の中で処刑され、北斉に大きな損失を残した。

 

参考文献:北斉書』巻17、『北史』巻54

 

 

南北朝
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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

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京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

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