胡善祥 の「尚食」「大明皇妃」と史実の違い、悲劇の皇后の生涯とは?

胡善祥 2.2 明の皇后・側室・公主
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明の恭譲皇后 胡善祥(こ ぜんしょう)は、1402年に生まれ、41歳でその生涯を閉じました。

彼女は第5代皇帝・宣徳帝の最初の皇后でした。でも夫からの寵愛を得られず、男子を産めなかったことなどを理由に廃位された悲劇の女性です。

おとなしく真面目な人柄で、宮廷では理解者であった張太后の温情を受けていましたが、晩年は孤独の中にありました。

死後は一時冷遇されますが、後に名誉を回復し「恭譲皇后」の諡号が贈られます。

原題では中国ドラマ「大明皇妃」や「尚食」でも描かれ、様々に脚色されてその波乱の生涯が再び注目されています。

 

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胡善祥とはどんな人物?

明の皇后胡善祥はどのような女性だったのでしょうか。彼女のプロフィールを見ていきましょう。

胡善祥の基本情報

  • 生没年: 1402年5月20日 – 1443年12月5日(享年41歳)
  • 出身: 済寧
  • 称号: 恭譲皇后(きょうじょうこうごう)静慈仙師(じょうじせんじ)(道号)
  • : 胡栄(こ えい)
  • : 劉氏
  • : 宣徳帝(第5代皇帝 朱瞻基)
  • 子供: 順徳公主、永清公主

 

胡善祥の生い立ち

胡善祥は明の役人である胡栄(こ えい)の三女として済寧で生まれました。父は錦衣衛(きんいえい)指揮という秘密警察の幹部です。長姉の胡善圍(こ ぜんい)は尚宮(しょうきゅう)という女官の位に就いていました。このことからも胡家が宮廷と深い関わりを持つ家系だったことがわかります。

1417年彼女は皇太孫の朱瞻基(しゅ せんき、後の宣徳帝)の正室として選ばれ皇太孫妃となります。

当時朱瞻基は側室の孫氏(後の孫皇后)を深く寵愛していました。そのため正室の胡善祥は夫の愛をあまり得られませんでした。結婚生活は順調とは言えず彼女は心の寂しさを感じていたかもしれません。

 

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胡善祥の立場と寵愛されない日々

1424年。永楽帝が崩御し洪熙帝が即位します。夫の朱瞻基が皇太子となり胡善祥は皇太子妃となりました。

皇后への即位と夫の寵愛

そして1425年。朱瞻基が第5代皇帝・宣徳帝として即位します。胡善祥皇后となりました。父の胡栄も昇進し胡家にとって大変な栄誉です。

皇后という最高の地位に就いた胡善祥ですが、宣徳帝の寵愛は孫貴妃(後の孫皇后)に注がれていました。

史実では胡善祥は大人しくて真面目、立ち居振る舞いも気品があり、へつらうような態度をとらなかったとされます。

また彼女は皇帝が、遊興にふけることをしばしば諌めました。でもこうした皇后の真面目な態度がかえって宣徳帝の反感を買ってしまったと『明史』に記されています。

男子を産めなかった影響

胡善祥宣徳帝との間に二人の娘をもうけました。1420年には長女の順徳公主(じゅんとくこうしゅ)が生まれました。その後、次女の永清公主(えいせいこうしゅ)も誕生しています。

でも当時の明朝では男子の世継ぎこそが最も重要でした。彼女が男子を産めなかったことはその後の運命に大きく影響します。

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廃位の理由と孫皇后の存在

胡善祥の人生を大きく変えたのは1428年の出来事でした。

寵愛されていた孫貴妃孫皇后)が宣徳帝の長男となる朱祁鎮(しゅ・ちきん、後の英宗)を出産したのです。

この男子誕生が宣徳帝孫貴妃胡善祥廃位させる口実を与えました。

廃位の理由と背景

宣徳帝胡善祥に「無子多病」つまり「男子がなく病弱である」という理由で皇后の位を辞退するよう命じました。

当時の皇帝にとって跡継ぎとなる男子の存在は、国の安定を左右する最重要事項です。この理由が使われた背景には男子を産んだ孫貴妃皇后にしたいという宣徳帝の強い意思があったと考えられます。

廃位後の胡善祥

廃位された胡善祥は長安宮(ちょうあんぐう)に移され、道教の道士(どうし)として出家させられました。

この時「静慈仙師(じょうじせんじ)」という法名が与えられています。道士とは道教の聖職者です。儀式を執り行い人々の生活に深く関わる存在でした。

胡善祥廃位は当時の天下の人々から同情を集めたと伝えられます。彼女に落ち度はなく、一方的な廃位だったからです。

数年後、宣徳帝自身もこの廃位を後悔し「これは私が年若い頃の衝動的な行いだった」と述べたほどでした。

 

 廃位後の胡善祥と孤独な晩年

皇后の座を失い、長安宮で道士として暮らすことになった胡善祥でしたが。彼女には心強い味方がいました。宣徳帝の母である張太后(ちょうたいこう)です。張太后廃位された胡善祥を気の毒に思い、清寧宮(せいねいぐう)にある自分の部屋にいつも招き入れました。

張太后からの手厚い庇護

張太后のはからいによって胡善祥皇后と同じ待遇で暮らすことができました。内廷での宴会でも彼女の席は孫皇后よりも上位に置かれたほどです。当時の宮廷内では張太后が強い影響力を持っていました。孫皇后はこのことに不満を抱いたとも伝えられます。

張太后の温情がなければ胡善祥の晩年はさらに厳しいものになっていたでしょう。

娘たちと理解者の死

でも悲劇は続きます。1433年には次女の永清公主が若くして亡くなりました。そして1441年10月。最大の理解者であった張太后が崩御します。胡善祥は激しく泣きました。彼女は最大の理解者を失ったのです。

さらに1443年正月には長女の順徳公主もこの世を去りました。

そして、同年12月5日には胡善祥自身もこの世を去りました。

愛する娘たち、そして支えであった張太后を失い孤独な最期を迎えたのかもしれません。死後、彼女は嬪(ひん)という低い身分の待遇で金山に葬られました。宣徳帝は死後も胡善祥に冷たかったのです。

 

恭譲皇后として再評価!

でも胡善祥の死後に、その評価は大きく変わります。

名誉回復への道

天順六年(1462年)。胡善祥の義理の息子である明英宗(英宗は二度目の即位で天順帝と称しました)の皇后 銭皇后(せんこうごう)が胡善祥皇后位回復を願い出ました。

そして天順七年(1463年)。閏7月英宗は胡善祥に「恭譲誠順康穆静慈章皇后」という諡号(しごう)を贈りました。これを省略して「恭譲皇后(きょうじょうこうごう)」と呼ばれるようになります。

彼女の陵墓も修復されました。しかし宗廟に合祀されることはありませんでした。

 

ドラマ「大明皇妃」での胡善祥

中国ドラマ大明皇妃」では胡善祥(演:鄧家佳)は孫若微(演:湯唯)と皇后の座を巡って対立する人物として描かれます。

「大明皇妃」での設定と史実との比較

ドラマの設定では胡善祥の本名は蔓茵(まんいん)で孫若微の妹とされています。彼女は靖難の役での孤児で、胡尚儀に育てられました。野心に満ちて父母の復讐のために朱瞻基の天下を狙うなど史実とは違う描かれ方をします。

女官として宮中に上がり、後に皇太孫妃皇太子妃、そして皇后となりますが権力への執着から悲劇的な結末を迎えます。

特に景泰帝 朱祁鈺の生母とされている点や一度は死産して、他人の子を身ごもろうとするなど史実にはないドラマが展開されます。

大明皇妃」 での描写は史実とは大きく違い、悪者として描かれています。

ヒロイン孫若微をひきたたせる悪役

これはドラマが孫氏主人公にしたためです。「大明皇妃」は歴史上は有能でもなく、これといった成果のない孫皇后を、有能で英雄的な女性として描いています。そのため孫若微にとって都合の悪い人は、ことごとく悪者や無能な人物として描かれました。

胡善祥も歴史的にはは落ち度が無かったとしても、ドラマでは彼女が廃されるための口実を作らなくてはいません。

ドラマのヒロインやその夫を悪者にするわけにはいきませんから、胡善祥を露骨に悪者として描くことで、廃される納得の理由を作ろうとしたためです。

 

ドラマ「尚食」での胡善祥

ドラマ尚食」でも胡善祥(演:張楠)が登場します。このドラマは「大明皇妃」 ほど脚色はされていませんが、それでも史実とは違う独自の解釈で描かれています。

「尚食」での設定と史実との比較

このドラマの胡善祥は幼い頃から医術や薬理を学んでいました。一族の繁栄のために犠牲となり、宮中に入ります。入宮後も朱瞻基からは愛されません。

最終的に「孫貴妃こそが皇后にふさわしい」と考え、自ら皇后の位を辞退して宮廷を出て医術で人々を救う道を選びます。

綺麗事で終わらせ、誰も傷つかない展開

このドラマでは宣徳帝は廃するつもりはないのに、胡善祥が自分から出ていったと描くことで、誰も悪く描かないドラマの決着の付け方をしたわけです。

好意的に解釈すれば「地位や名誉にこだわらず、自分の生きる道を自分で選ぶ現代的な女性像」を表現した。となるのでしょう。

でもあまりに都合良すぎる展開ともいえます。

 

まとめ

胡善祥は皇后になりましたが、皇帝のワガママによって地位を失ってしまいました。それだけでなく朱子学が尊重される明の宮廷での女性の地位や、当時の世継ぎ問題の重大さが大きく影響したものでした。

胡善祥は夫から愛されることはありませんでしたが、彼女は自身の尊厳を保ち、周囲の人々に支えられ、後に名誉も回復されました。これは彼女の真面目な人柄が評価された証拠と言えるでしょう。

現代のドラマでは様々な解釈が加えられ、その人物像はドラマによって全く違います。何とでも解釈できるというよい見本と言えるでしょう。

 

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