恵文王は秦の始皇帝の高祖父(祖父の祖父、曾曾祖父)。
本名は嬴駟(えい・し)。
中国ドラマ「ミーユエ」でも恵文王は登場します。
紀元前4世紀頃の中国は周を中心にいくつかの小国が争う戦国時代でした。秦もいくつかある小国のひとつでした。しかし恵文王の時代に周や周辺国からも怖れられる大国へと成長します。
史実の恵文王はどんな人物だったのか紹介します。
恵文王の史実
プロフィール
生年月日:紀元前356年
没年月日:紀元前311年
在位:紀元前338~311年
名前:嬴駟(えい・し)
称号:恵文王(けいぶんおう)
家族
母:
后:
恵文后(魏夫人)
羋八子(宣太后)
恵文王の生涯
おいたち
父・嬴渠梁(えい・きょりょう)は孝公ともいわれ、秦の第25代公でした。「公」というのは君主のことです。当時の中国は大国の周に遠慮して小国の王は「王」という称号を使ってなかったので「公」と名乗ってます。
嬴駟(えい・し)は孝公の嫡子だったので、太子になりました。
異母弟に樗里疾(ちょりしつ)、子に武王蕩(とう)、昭襄王稷(しょく)がいます。
孝公の時代、宰相の公孫鞅(こうそん・おう、商鞅ともいいます)改革をおこないました。改革のひとつとして新しい法律を作りました。
ところが公孫鞅の作った法律によって嬴駟(えい・し)の守役の公子虔が「鼻削ぎの刑」、教育係の公孫賈が「入れ墨の刑」、侍従の祝懽が処刑されました。そのため嬴駟(えい・し)は公孫鞅を恨んでいました。
父の孝公が死んたあとに公孫鞅を逮捕して処刑してしまいました。
でも公孫鞅の作った法律は変えずにそのまま使いました。
また、公孫鞅の改革で秦は豊かになり国力が大きくなりました。秦の力を怖れた周は秦に貢物をもってくることもあったそうです。本来なら周が主君で秦が従うべきなのですが立場が逆になっていました。
嬴駟(えい・し)が王になったのはそんな時代です。
恵文王の誕生
紀元前338年。父の死後、嬴駟(えい・し)は秦の26代公になりました。
恵文公は張儀を採用。魏・斉・楚などと戦って勝ちました。
紀元前324年。嬴駟(えい・し)は秦の力が大きくなったので周に遠慮することをやめ自ら「王」を名乗りました。「恵文王」の誕生です。
周辺国を破って領土拡大
紀元前318年。周辺国は力の大きくなった秦を怖れました。そこで韓・趙・魏・燕・楚が同盟を結んで秦に攻めてきました。恵文王は弟の樗里疾を大将にして五カ国の連合軍を迎え撃ちました。函谷関の戦いで秦は勝って兵士8万を捕虜にして処刑しました。
紀元前316年。秦のとなりにある巴蜀と戦いって勝ち。巴蜀を秦の領土にしました。この戦いで秦は穀倉地帯を手に入れました。
紀元前312年。楚との戦争になりました。張儀の策略を使って攻めてきた楚を返り討ちにします。そして楚の漢中に攻め込んで領土にしました。楚が漢中を取り返そうと攻めてきましたが撃退しました。
その翌年。紀元前311年に恵文公は死去しました。享年46。
周に遠慮する小国だった秦が、周辺国から怖れられる大国になりました。恵文王の子孫が始皇帝となり中国を統一。秦帝国になります。秦が中国統一をするきっかけを作った王だといえます。
テレビドラマ
大秦帝国 縦横 〜強国への道〜 2012年、中国 演:フー・ダーロン
ミーユエ 王朝を照らす月 2016年、中国 演:アレックス・フォン
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