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華陽夫人(華陽太后)の決断が始皇帝を誕生させた?

秦 8 春秋戦国

華陽太后(夫人)は始皇帝の義理の祖母。

春秋戦国時代の秦の国の安国君(孝文王)の妃でした。

華陽夫人には子はいませんでしたが、夏姫の生んだ嬴異人を養子にします。

嬴異人の子が嬴政。後の始皇帝です。

華陽太后(夫人)が嬴異人を養子にしたことで「始皇帝」が誕生したといってもいいでしょう。

史実の華陽太后はどんな人物だったのか紹介します。

 

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華陽太后の史実

プロフィール

姓 :羋
名称:不明

出身:楚の国
地位:楚皇女→秦王妃→秦太后
称号: 華陽

生年月日:不明
没年月日:紀元前230年

彼女は秦の孝文王の妃。
日本では弥生時代になります。

家族

父:不明
母:不明
夫:秦孝文王
兄弟:陽泉君

子供:なし
養子:秦荘襄王

 

おいたち

生年は不明。

楚の国の王族。
でも両親は不明です。

時期はわかりませんが秦の嬴柱(後の孝文王)のもとに嫁ぎます。

嬴柱は秦の昭襄王の次男。このときは王位継承者ではありません。

このときは華陽夫人は正室ではありません。嬴柱の寵愛を受けていました。

紀元前265年(昭襄王42年)。夫の嬴柱が安国君の称号を与えられ太子になりました。2年前に昭襄王の長男・悼太子が病死して太子の座があいていました。

安国君の正室と認められ「華陽」の名前が与えられました。

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嬴異人を養子にする

衛の商人・呂不韋が秦にやって来ました。

呂不韋は華陽夫人の兄弟・陽泉君と知り合いになり。華陽夫人と面会しました。

呂不韋は、華陽夫人にはあとつぎになる男子がいない。でも安国君には庶子の子傒たち20人の息子がいる。将来、子供がいないまま歳をとると安国君の寵愛が薄れるときがくると言い。

そこで寵愛を失っている夏姫の子で、趙の人質になっている嬴異人を紹介。嬴異人が素晴らしい人物であり、華陽夫人を実の母のように慕っている。養子にしてはどうかと説得しました。

華陽夫人は呂不韋のいうことはもっともだと思い。嬴異人を養子にすることにしました。ますは夫の安国君を説得。安国君の名を刻んだ割符を持たせて嬴異人を養子にすると約束しました。

紀元前257年(昭襄王50年)。秦と趙の戦争が始まり、秦軍は趙の都を包囲しました。趙は嬴異人を処刑しようとしましたが、呂不韋が逃しました。嬴異人にはすでに妻・趙姫と息子・嬴政がいました。ところが逃がすことができませんでした。

秦に到着した嬴異人、呂不韋の提案で華陽夫人の祖国・楚の衣装を着て華陽夫人と会いました。華陽夫人は大喜び。異人を養子にしました。異人は華陽夫人の祖国にちなんで「子楚」と名前を変えました。華陽夫人はますます異人(子楚)を気に入りました。

王后・王太后になる

紀元前251年(昭襄王56年)昭襄王が死去。安国君が秦の王(孝文王)になりました。華陽夫人は王后になりました。子楚は太子になりました。その知らせを聞いた趙の国は、友好のため趙姫と嬴政を秦に送り届けてきました。

ところが孝文王は1年以内に死去。子楚が王(荘襄王)になりました。華陽夫人は太后になりました。

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嬴政の時代

紀元前247年。荘襄王もわずか3年で死去。孫の政が王になりました。政はまだ13歳。政治はできません。

そこで王の母や祖母達が重臣たちと相談して秦の政治を行いました。

このときの序列は 華陽太后が1位、夏太后が2位。趙姫は不明です。

太后が政治をするならまず華陽太后が行うことになります。

しかしこの時期の記録がなく華陽夫人がどのような政治をおこなったのかはわかりません。

フィクションの世界では呂不韋と趙姫が宮廷を牛耳っているかのように描かれることもありますが、当時の慣習ではそうするのは難しいです。

当時の秦は様々な国の出身者を受け入れていました。また他国との政略結婚によって王子の母と母方の勢力(外戚)も様々でした。

華陽太后派。楚の国ゆかりの人物と支持者。昌平君、昌文君ら
夏太后派。韓の国ゆかりの人物と支持者。成蟜ら
趙姫派。趙の国ゆかりの人物と支持者。呂不韋、嫪毐ら

とゆかりのある人々がいました。こうした外戚勢力の思惑によって秦の政治が行われていたようです。

紀元前240年に夏太后が死去。夏太后派が衰えます。

その後、呂不韋・趙姫らの勢力が勢いを増します。ところが嫪毐の乱が起こり、嫪毐が処刑、趙姫も一時監禁されます。

さらに呂不韋も連座で失脚。趙姫派は衰えました。

華陽太后派が最盛期を迎えます。

紀元前230年。華陽夫人は死去。孝分王が葬られている寿陵に合葬されました。

このあと嬴政は始皇帝に

しかしこの後、成人した嬴政は外戚勢力に頼らない政治を行います。華陽太后派も失脚に追い込まれ、外戚勢力は力を失いました。

このあとは嬴政と彼に従う臣下たちが秦を治めます。

紀元前223年。華陽太后の祖国・楚は嬴政に滅ぼされました。

そして中国を統一して嬴政は自ら「皇帝」を名乗るのです。

華陽夫人が嬴異人を養子にしなければ嬴政は王にはなれなかったでしょう。その後の歴史も変わっていたはずです。

華陽夫人は嬴政を生んではいませんが「始皇帝」が誕生するきっかけを作った人物と言えるかもしれません。

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まとめ

華陽夫人は秦の孝文王の妃。楚の王族出身で夫の寵愛を受け正室の座に就きました。子供がいなかったので趙の人質だった嬴異人を養子に迎えました。嬴異人の子が嬴政。後の始皇帝の道を切り開いた人物といえるでしょう。

華陽夫人の政治的な影響力は大きく、秦の王位継承に深く関わっていたと考えられています。

でもその生涯については不明な点も多く、ドラマ等では様々に脚色されることが多いです。

ドラマ

コウラン伝 2019 、中国 役名:華陽夫人、演:譚卓
大秦賦 2020 、中国 役名:華陽太后、演:鄔君梅

 

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