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漢明帝 劉荘(劉陽) 後漢の全盛期を築いた皇帝

後漢 明帝の史実 5 漢

明帝(めいてい)劉荘(りゅう・そう)は後漢の第2代皇帝。

初代皇帝 光武帝・劉秀と皇后 陰麗華の息子です。

若い頃は劉陽(りゅう・よう)という名前でしたが。皇太子になったときに名前を劉荘(りゅう・そう)にかえました。

明帝の治世は息子の章帝のとともに「明章の治」といわれ。後漢の全盛期とされます。

外戚勢力を抑え込むことに成功。前漢末期から後漢初期にかけて落ち込んでいた国力をいくらか取り戻し。西域への領土拡大を目指しました。

史実の明帝はどんな人物だったのか紹介します。

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漢明帝の史実

プロフィール

姓 :劉(りゅう)
名称:陽(よう)→荘(そう)

国:漢
地位:皇太子→皇帝
称号:明帝

生年月日:建武4年5月4日(28年6月15日)
没年月日:永平18年8月6日(75年9月5日)

日本では弥生時代になります。

家族

父:光武帝 劉秀
母:陰麗華
正室:明徳馬皇后
側室:賈貴人、陰貴人、秦貴人、閻貴人子供:9男11女
章帝 劉炟など。

 

おいたち

建武4年(28年)。劉陽は元氏(現在の河北省石家荘市)で誕生。

父は光武帝 劉秀
母は貴人 陰麗華

光武帝が彭寵(ほうちょう)を討伐するために元氏まで遠征しました。そのときに生まれたのが劉陽です。陰麗華は光武帝の遠征に同行していました。

古代の王は長期の遠征にはお気に入りの妃を同行させることがありました。皇后の郭聖通と皇太子は都にいて。光武帝は陰麗華を同行させていたのです。

もちろん陰麗華は安全な宿泊施設にいました。ドラマのように戦場に出たりはしません。

幼い頃から頭がよく、父の光武帝からは可愛がられました。劉陽は10歳で「春秋」を読んだといいます。「春秋」は春秋時代のことを書いた歴史書ですが、儒教の経典にもなっています。

建武15年(39年)。12歳のとき「東海公」の爵位を与えられました。

皇太子になる

建武17年(41年)。皇后の郭聖通が寵愛を失い廃されました。代わりに陰麗華が皇后になりました。同じ年、劉陽は「東海王」の爵位を与えられました。

劉陽を支持する臣下が「皇太子には皇后の子をたてるべき」と訴えを起こします。

皇太子・劉彊は危機感を感じて皇太子の位を返上すると言いましたが光武帝はすぐには認めませんでした。

光武帝は陰麗華を皇后にしたときには劉陽を皇太子にするのを決めていたでしょう。でも臣下たちが劉陽を望む雰囲気を盛り上げ、劉彊に自発的に辞めさせる方法をとったのです。

建武19年(43年)。劉彊に皇太子の位を譲る許可がでました。
代わりに劉陽が皇太子になりました。劉彊が東海王になりました。
この機会に名前を「劉荘」に変えました。

光武帝は陰麗華の兄・陰識を太子太傅(太子の補佐係)にしようと考えていましたが。博士の張佚が「陰氏のための人事をすべきではない、天下のためを思うなら才能のあるものを選ぶべき」と反対。劉秀は博士の桓栄を太子少傅にしました。

劉荘は桓栄のもとで儒教の経典を学びました。

建武中元2年(57年)。光武帝が死去。

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漢の明帝

建武中元2年(57年)。劉荘が皇帝になりました。後漢の第2代皇帝・明帝の誕生です。

母の陰麗華を皇太后にしました。

永平元年(58年)。前の皇太子だった東海王 劉彊が重病になります。明帝は医師を派遣、諸王たちにも劉彊を見舞う方に命令しましたがまもなく劉彊が病死しました。

明帝は熱烈な儒教の信者で、光武帝の方針を受け継ぎます。

外戚や親族に厳しい

皇帝の力を強めようとしました。親族や外戚には厳しく、彼らが高い地位につくのを禁止。彼らに取り入ろうとする役人たちも厳しく罰しました。

建国に貢献した竇融(とう・ゆう)の一族で外戚でもあった竇林(とう・りん)を処刑。

明帝は兄弟にも容赦ありません。楚王 劉英(許美人の子)、廣陵王 劉荊(陰麗華の子)を処刑しました。重臣の虞延や邢穆を自害させました。他にも多くの臣下や外戚も処罰をうけています。

違法行為を行った者は容赦なく罰するので親戚や臣下たちも震え上がりました。役人の採用も厳しく行い、不正を行ったものは罰しました。光武帝の時代まではかなり緩かったようです。

国力を回復

明帝は在位中、いくつかの勅令を出して、減税や労役の軽減、刑罰の軽減を行いました。役人に農業や桑を監督させ、病害虫の駆除を命じました。国の土地を貧しい人に与え土地を耕せました。

劉荘は治水にも熱心でした。大河がいくつも流れる中国王朝は常に治水との戦いです。その中でも最大のものが黄河の治水でした。 前漢の末期以降、黄河は反乱してますます厄介な存在となっていました。黄河流域の人々は非常に迷惑していました。

明帝は治水の専門家として名高い王景と王呉に、数十万人の兵士を率いて水をコントロールさせました。その結果、黄河の中下流域で農業生産が安定しました。

その一方で明帝は質素倹約を唱え、宮廷生活は贅沢なものではありませんでした。

前漢時代には人口は6000万人でした。ところが前漢末期から新の時代にかけて災害、飢饉や戦乱で人口が激減。光武帝の時代には後漢の人口は2100万人とされていました。それが明帝の末期には3400万人に増えていました。

これは漢の戸籍に載っている人の数なので実際にはもっと人がいました。戸籍に載っていない人たちは流人となってさまよっていました。でも食料の生産が増えて人が増えただけでなく、前漢から新の時代にかけて土地を放棄した人が戻ってきたり、土地を求めてやってきた人もいたでしょう。

西域に領土拡大

光武帝の時代は国力が疲弊していたので、匈奴と戦って領土を広げることはできませんでした。でも国力が回復した明帝は西域への領土拡大を目指しました。

このころ匈奴は北と南に分裂。北と対立している南匈奴は漢には友好的でした。

西域を支配していたのは北匈奴でしたがその力もかつてほど強くはありません。匈奴に従わない小国もありました。

明帝はそこをついて西域に進出しようとしました。

永平15年(72年)。明帝は竇固と耿秉に兵を率いさせ涼州に駐屯。西域の攻略の準備を點せました。

永平16年(73年)。竇固と耿秉に命じて北匈奴を攻めさせました。班超(はん・ちょう)たちの活躍もあって永平18年(75年)ごろまでには西域(タリム盆地)の約半分を征服。楼蘭(ろうらん)、于闐(ホータン)、疏勒(カシュガル)などが漢の領土に組み込まれました。

ことわざの「虎穴に入らずんば虎子を得ず」はこの西域攻略のとき班超が言った言葉です。

永平18年(75年)。明帝が死去。享年48.

しかし明帝が死去すると北匈奴が反撃。あとを継いだ章帝は西域を放棄を決定。西域支配は放棄と獲得を繰り返します。

詳しい時期はわかりませんが、明帝の時代に西域を通って仏教が漢に伝わりました。

 

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テレビドラマ

秀麗伝〜美しき賢后と帝の紡ぐ愛〜(2016年、中国、演:趙文浩)

 

 

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